昔、私は主人に言わせると「偉人伝の人」なんだそうだ
これをどう解釈するかというと、例えば馬鹿正直で
こうあらねばならないとし、そう教え込まれたら、そう信じ込むタイプというか
私は伝記物語を信じた
そして、記憶にあるのは、教育委員会の視察?
確か小学5年生か6年生の頃、私は一冊の伝記本を先生から渡され?
それを読んで、その感想を教育委員が視察に来た時に発表?するようにと言われた
本は何だったっけ?
もしかしたら野口英世?もう昔の話なので忘れてしまった
数年前なら覚えていたかも。
で、言われるがままに、きっと先生や教育委員に都合のいい感想を述べたに違いない
授業も私だけその為に割いていいと言われていた
確か6年生だったかもしれない
キュリー夫人、野口英世、それが印象に残っている
実際の人物像は、子供が読む「聖人君子」とはわけが違っていたにも拘らず
そんな事はつゆ知らず
又、例え教師や親がどんな風に教育しようと、クラスの殆どの子はずるかった
または自分勝手だった
または、意地が悪かったし、言うことなんか聞かなかった。。裏で
で、私は決して優等生ではなかったが、一部いい子だった
それが、どう作家と繋がるかって言うことなんですが
遠藤周作のキリストとの関係
曽野綾子のキリスト教との関係
そして、天上の青との関係、に少しだけ繋がってきます
曽野綾子さんの「コルベ神父」の話
遠藤周作の「踏み絵」の話
人間の弱さと自己犠牲について
曽野綾子さんが、いつも気にしているのは、その事ではないのかなぁ
完璧主義という言葉が浮かぶ
けれど、曽野綾子さんは最近その完璧主義を否定しつつ生きる方法を提示している?
曽野綾子さんの自己犠牲への拘りは、人にそれを強要しはしまいか
いつも、そう思っていた
曽野綾子の小説は殆ど読んだ事がない、というか
小説自体をあまり私は読んでない
罪と罰1ページ?カラマーゾフの兄弟1,2ページ?
読んだ本は、北杜夫の面白いシリーズ、とか
推理小説 エラリー・クイーンとか、シャーロックホームズ、怪盗ルパン
そうだ、今NHKテレビ小説「花子とアン」の赤毛のアンシリーズは大好きで
オルコットとか、バーネットとか、所謂少女小説はよく読んだ
けれど、本格派?は読んでない
そういう人ですが
だから、この間アマゾンで「イエスの生涯」を買ったけれど一ページも読んでないし
そういう人ですが
で、こうあらねばならない、の究極の姿は「自己犠牲」
そして、身代わりとなっ亡くなった「コルベ神父」は自己犠牲の人
で、誰がそれをできるのか?
私は出来ないと思う
では、出来ない事はいけない事なのか?
12:40
ここに「私はいい人であらねばならない」という命題が出てくる
誰がどうあろうと、自分はいい人であらねばならない、のか?
ちなみに私の血液型はAB型で、平衡感覚というか、公平をモットーとするというか
できれば、ダイナミックな嘘はつきたくない、嘘は基本的に嫌いだ
で、人は自分を守るための嘘をつく
最近とみにその傾向を目にする
何かあった時に、「自分は悪くない、誰それ、何々のせいだ」と思う
無理にでも思う
明白に自分が悪い場合でも「自分は絶対に悪くない」と
他への「なすりつけカード」を使う
自分までをも騙して、自己正当化に走る人をとても多くみかけるようになった
何故だ?
多分、自分の非を認める強さがなくなった、減ったんだろうと思う
潔くなくなって、誤魔化せるものは皆誤魔化してやろうという心理が働く
嘘をついて、悪事を隠そうとする子供のような心境に
今は大人が子供のように平気で嘘をつくようになった
そんな気がするけど、もしかして昔からそうなの?
これをどう解釈するかというと、例えば馬鹿正直で
こうあらねばならないとし、そう教え込まれたら、そう信じ込むタイプというか
私は伝記物語を信じた
そして、記憶にあるのは、教育委員会の視察?
確か小学5年生か6年生の頃、私は一冊の伝記本を先生から渡され?
それを読んで、その感想を教育委員が視察に来た時に発表?するようにと言われた
本は何だったっけ?
もしかしたら野口英世?もう昔の話なので忘れてしまった
数年前なら覚えていたかも。
で、言われるがままに、きっと先生や教育委員に都合のいい感想を述べたに違いない
授業も私だけその為に割いていいと言われていた
確か6年生だったかもしれない
キュリー夫人、野口英世、それが印象に残っている
実際の人物像は、子供が読む「聖人君子」とはわけが違っていたにも拘らず
そんな事はつゆ知らず
又、例え教師や親がどんな風に教育しようと、クラスの殆どの子はずるかった
または自分勝手だった
または、意地が悪かったし、言うことなんか聞かなかった。。裏で
で、私は決して優等生ではなかったが、一部いい子だった
それが、どう作家と繋がるかって言うことなんですが
遠藤周作のキリストとの関係
曽野綾子のキリスト教との関係
そして、天上の青との関係、に少しだけ繋がってきます
曽野綾子さんの「コルベ神父」の話
遠藤周作の「踏み絵」の話
人間の弱さと自己犠牲について
曽野綾子さんが、いつも気にしているのは、その事ではないのかなぁ
完璧主義という言葉が浮かぶ
けれど、曽野綾子さんは最近その完璧主義を否定しつつ生きる方法を提示している?
曽野綾子さんの自己犠牲への拘りは、人にそれを強要しはしまいか
いつも、そう思っていた
曽野綾子の小説は殆ど読んだ事がない、というか
小説自体をあまり私は読んでない
罪と罰1ページ?カラマーゾフの兄弟1,2ページ?
読んだ本は、北杜夫の面白いシリーズ、とか
推理小説 エラリー・クイーンとか、シャーロックホームズ、怪盗ルパン
そうだ、今NHKテレビ小説「花子とアン」の赤毛のアンシリーズは大好きで
オルコットとか、バーネットとか、所謂少女小説はよく読んだ
けれど、本格派?は読んでない
そういう人ですが
だから、この間アマゾンで「イエスの生涯」を買ったけれど一ページも読んでないし
そういう人ですが
で、こうあらねばならない、の究極の姿は「自己犠牲」
そして、身代わりとなっ亡くなった「コルベ神父」は自己犠牲の人
で、誰がそれをできるのか?
私は出来ないと思う
では、出来ない事はいけない事なのか?
12:40
ここに「私はいい人であらねばならない」という命題が出てくる
誰がどうあろうと、自分はいい人であらねばならない、のか?
ちなみに私の血液型はAB型で、平衡感覚というか、公平をモットーとするというか
できれば、ダイナミックな嘘はつきたくない、嘘は基本的に嫌いだ
で、人は自分を守るための嘘をつく
最近とみにその傾向を目にする
何かあった時に、「自分は悪くない、誰それ、何々のせいだ」と思う
無理にでも思う
明白に自分が悪い場合でも「自分は絶対に悪くない」と
他への「なすりつけカード」を使う
自分までをも騙して、自己正当化に走る人をとても多くみかけるようになった
何故だ?
多分、自分の非を認める強さがなくなった、減ったんだろうと思う
潔くなくなって、誤魔化せるものは皆誤魔化してやろうという心理が働く
嘘をついて、悪事を隠そうとする子供のような心境に
今は大人が子供のように平気で嘘をつくようになった
そんな気がするけど、もしかして昔からそうなの?