精神世界では、心を問う話が多く、
日本人は、そういう「言葉」が琴線に
触れるのか、とくに感謝の文字は何十
年も前から至る所で見ることができる。
ただ、遥か昔から四書五経などの古典
や仏典などを多くの企業や団体が、人
材教育に採用し、今は亡き多くの指導
者が、魂を磨く心を洗うなんてことを
方々で散々やってきたし、そういう書
籍は、山のようにある。
だから、上にいる人ほど、本当は、何
が正しいのかを知っているし、個人レ
ベルでは良い人は沢山いるに違いない。
しかし、実際は、そんなものは利益損
得、好き嫌いの前では、全くの無力な
のだった。
あの野郎は使えないだの、誰々は気に
入らないのだの、挨拶が無いのだの、
俺の方が年が上だの、企業は企業で追
い落とし合い、メデイアは誹謗中傷で
飯を食いと、文句を数えたらキリが無
いが、実は、世の中そんな程度で動い
ていて、結果、引き籠りが100万人
以上もいて、定年まで働き通した技術
や知識を持った高齢者の多くが、人生
経験を生かさずにボケてしまう。
それでも、まあ、暇なので、洗心御魂
磨きなんてことを考えていると、「心
は洗うものでは無くて、広げるもの」
だと思い至る。
今は、昔のように人々は棲み分けてお
らず、徳不徳を抱えた様々な階層の人
が、昔よりも遥かに多くなった人口密
集地で、自由勝手に生活していて、不
平不満や好き嫌い、妬み嫉みが起こら
ない訳が無い。
そうじゃなくて、皆が、身の程を知っ
て心を広げれば、お金持ちの気苦労さ
も、貧乏人の気楽さも、漁師や農家の
大変さも、才能があっても必ずしも報
われないという因果律も、努力あって
の成果報酬も、自分自身の至らなさも、
病人の不自由さも、少し考えを広げる
だけで、分かるだろうというもの。
増税メガネのキッシーにも言いたいこ
との一つや二つもあるだろう。
そして、「神」というものがいかに包
括的で寛容であると言うことや、「悪
魔」というものがいかに個別的で狡賢
いということも、人間界同様に分かる
というもの。
心が広がれば、足元にいる小さな虫や
動物や自然界へも慮ることはできる。
宇宙意識にも届くかも知れない。
美醜全てが自分であるし、嫌いなもの
は嫌いなんだから否定しても治まらな
い。自分自身を静観して自分自身を穏
やかに見続けるしかない。
ところで、社会に出たてのバブルの盛
りの昭和の時代、街中はいつでもどこ
でも誰かが必ずタバコを吸っていた。
喫茶店、駅のホーム、全ての会社組織、
学校など至る所でだ。野外ともなれば
ポイ捨ては当たり前だったし、シケモ
クを拾う馬鹿もいて、雨が降ればヤニ
臭くて仕方がない時代があった。
今思えば、景気は良かったが、排ガス
も酷く不潔で下品な世の中だった。
当然、便所は和式便所で、公衆便所に
は、いつも、もれなくウンチが付いて
いた。
僕はタバコを吸わなかったし、臭いの
が嫌なので仕事以外の人付き合いを全
くしなかった。当時は、吸わない人に
対しての気遣いなど一切無かった時代。
出汁の利いた美味いうどん屋で、客の
少ない時間を狙ったのに、馬鹿が来た
ときは台無しだった。料理が出る前に
タバコを吸い、食べながら吸い、食後
に吸う有様で、テーブルには汚い吸い
殻、そこに心などあるはずも無かった。
それが、禁煙運動が始まって、そうい
う連中が禁煙を始めたら、他人の誰々
の煙が臭くてケシカランと言い始める。
馬鹿馬鹿しいが、人間なんてそんなも
ので、毒ワクチンを何度も打って目が
覚めた医者がいるように、人は、自分
の都合でどうにでも瞬時に変わり、発
言に責任を負うこともしない。
ナマジ宗教をかじって、心を綺麗にな
んてことに執着すると、そうしない他
人を平気で攻撃するようになる。
自然志向、健康志向な人も分別なく行
き過ぎれば生き難くなる。
嫌な他人や物は、嫌だと認識したら無
視すればいいし、なぜ嫌なのかと考え
て見て答えが出なければ、忘れてしま
えばいい。
その内、嫌だという思いすら覚えなく
なるかもしれない。
多勢に無勢、タバコや喫煙者などを無
視していれば、知らぬ間に向こうから
消えてくれた。
さて、欧米白人が主導してきた地球の
混迷、今の戦争の先に次の時代が見え
てくる。
軍産複合体が、中東に戦力集中してい
るお陰で、日本を咎めている場合じゃ
ないのだろう、神戸上空にケムトレイ
ルが出なくなった。
近海に原潜がいないのだろうな。井口
先生の言う通りだわ。笑
ではでは。