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ひと筆めぐり 【新発見・再発見・摩訶不思議・唯一無二】への楽しみ…

地域に息づく歴史のひと幕にふれ、…遥かなる往時に思いを馳せる

龍穏寺の梵鐘(大鐘・釣鐘)

2021-09-17 | 神社仏閣
龍穏寺の梵鐘(大鐘)
(園部町仁江)



昭和20年大東亜戦争に、応召の鐘として供出され…戦後、還元の鐘とはならなかった。昭和48年、寺・檀信徒力を合わせ再鋳されたもの。梵鐘、池間の銘文を一部読んでみましょう。

【古大鐘者昭和廿年春為大東亜戦之故至難供出矣爾来不得聞音至昭和四十八年檀信徒併力此再鋳為而平和妙聱三遍十方維時昭和四十年十月吉祥日 京都府船井郡園部町仁江 王宝山龍穏寺 二十三世 宝山照一代  鋳造 京都 髙橋〇肇堂】銘文から読み取れます。
次の池間には…【治工山城国洛陽三条釜座 西村新三郎、藤原昌久】の銘が読み取れます。織田信長・豊臣秀吉らの庇護下で 「天下一」を銘として梵鐘に使う事を一代限り許されたのが西村道仁である。西村家は鋳物師として代々繋がっている。



御詠歌 園部町半田相田地蔵堂

2021-09-14 | 丹波郡33ケ寺巡り
地蔵尊堂 御詠歌
(園部町半田相田)
 園部町の民俗(風習・習慣)落穂拾いを楽しんでいる。旧船井郡西国三十三所観音霊場巡りをしているが、…巡礼道に人影はない。半田相田の地蔵尊は番外ですが詠歌が掲げられている、文字は薄れ判読不可であったが、地元92才の元気なお婆さんと偶然出会う、当時を回想し詠って頂いた。この谷に(地区)二人した詠える人はいない…今は詠歌の役目は終わったが…次の世代へと繋げてほしい…。
御詠歌
【四つの辻 三つのちまたを 一筋に 助けたまえ 弥陀の浄土へ】

鎌倉時代、三井寺の僧が「観音霊所三十三所」を回った事よりはじまっている伝記(寺門高僧記より)。当初は僧や役行者が主であったようです。室町時代頃に入り、一般庶民に普及し、数人単位で巡礼するようになる。当時、一庶民の移動は制限があった中、巡礼については比較的緩やかであったようですね。


御詠歌
【四つの辻 三つのちまたを 一筋に 助けたまえ 弥陀の浄土へ】

前が地蔵尊の祠、奥に無縫塔(卵塔)四基がみられます。地元ご老人(92才お婆さん)が維持管理されています。

無縫塔(卵塔
その昔、この地に『りんしょう寺』と呼ばれた寺があったが、今は寺の歴代住職の無縫塔(卵塔)四基と地蔵の祠のみ…。栄枯盛衰をかんじます。
(蛇足)鎌倉時代に禅宗に伴い宋より入ってきました。一見卵の形に見える所から卵塔とも呼ばれます。この塔をみれば曹洞宗・真言宗の和尚の墓とわかりますね…



寄せ集めの『供養塔』と『板碑』

2021-09-14 | 石仏
護國山神護寺 (奥西観音堂)…其③
(船井ごおり三十三ケ所霊場 第25番 札所)
寄せ集めの『供養塔』と『板碑』



日本は千年以上の永きに亘って「神仏習合」と云う「神」「仏」が融合し、穏やかな宗教秩序を維持してきました。明治新政府に入り「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」が起こり、神と仏は分離された…此の時、仏教の弾圧が起こる。仏教寺院の仏像・経巻等を破棄され、一定の希釈が始まった過去の歴史を持つ。
園部町神護寺(曹洞宗)が廃仏対象寺となっている。中世・近世をはじめ多様な石造物が現存した寺でもあったがその多くは移設、破壊となったようです。今、寺は廃寺となってしまったが、五輪塔、宝篋印塔の一部があり、これらを寄せ集めの『供養塔』、並んで『板碑』とよぶ塔婆が並ぶ。これらの供養塔は当時の廃仏希釈を語ろうとしている!…その声に耳を傾けるのも面白い。


神護寺の石燈籠

2021-09-12 | 石仏
護國山神護寺 (奥西観音堂)…其②
(船井ごおり三十三ケ所霊場 第25番 札所)


神護寺(奥西観音堂)の石燈籠

巡礼参道分岐、右本堂へ左集落墓地の分岐に建っている。石燈籠(花崗岩製)は、ごく普通に寺や神社でみられます。総高170センチ、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基礎で構成されている。特別な装飾をもたないシンプルな仕上げとなり、保存状態も良好である。竿がバチ状になり銘文が「常夜燈 十方三世諸佛 文化十稔(年)癸酉 中秋 〇〇〇〇立之」とある。1813年に造られています。残念ながら寄進した人の氏名が風化が進み解読不可!。
百済国から日本へ伝えられた古い時代では、本殿の前に一基だけ設けられるが、室町時代頃から左右一対(2基)設置するのが一般化する。今、神護寺には一基のみ現存する…後の一つは何処へ。破壊されたか!…他の地へ移設されたのか、今後の課題となる。
考えられるのは廃仏希釈の時、この石燈籠は処分されずに残ったのは神明製の造りであり、神殿への献上火として扱ったものと推察するが!!



<常夜燈>


<文化十稔(年) 癸酉 中秋 (1813年)>


<十方 三世 諸佛>

神護寺 (奥西観音堂) 園部町半田安谷

2021-09-11 | 丹波郡33ケ寺巡り
護國山神護寺 (奥西観音堂)…其①

(船井ごおり三十三ケ所霊場 第二十五番札所)


船井ごおり三十三ヶ所観音霊場の札所の一つを訪ねた。『神護寺』は園部町半田安谷にある曹洞宗の寺院であった。明治初期頃の廃仏毀釈により、同じ半田に曹洞宗元興寺があったため整理対象寺となる。寺は八文字屋四郎太夫を開基、龍穏寺九世月心和尚を勧請開山とする。龍穏寺(仁江)の末寺である。当時、廃仏毀釈により経典・仏様・石造物類の多くは廃棄処分されている…一部、本山寺の龍穏寺へ『多宝塔』(神護寺21世の刻銘)が移設(※写真)されています。龍穏寺本堂前にある多宝塔は神護寺のものと聞く。又参道石階段沿いの五輪塔も神護寺からのものではないか?…詳細は分かっていない。今は半田の地に観音堂が立ち中に木造十一面観音立像が安置されている。船井郡西国三十三ケ所観音霊場巡り25番所としての様相が色濃く残っている。これらは半田の奥西観音堂保存会が維持管理されています。木造十一面観音菩薩立像は南丹市指定文化財(昭和45年7月23日)。
尚、奥西観音堂(神護寺)への道は高山の山麓にあるが、半田地区の一本杉(シンボル杉)より府道454号を100m程西へ歩く、左山裾が…入口です。



<龍穏寺多宝塔(仁江)に移設。元は神護寺の本堂前あたりにあったと…推察するが…!>