埼玉県日高市の巾着田曼殊沙華公園に自然観賞に出かけました。
シニアライフを生き生きと歩む会の9月例会イベントです。
実はこのイベント日程は、2回3回と変更を余儀なくされました。
自然観賞の曼殊沙華の開花が、例年よりかなり遅れているためです。
夏場の猛暑、残暑が厳しく、更に初秋の涼し気が無かったことによる
自然現象です。
この写真、巾着田曼殊沙華公園のホームページから引用しました。
お彼岸も過ぎて、本来はこんな状況になるはず。
電車を乗り継ぐこと数回、道のり2時間をかけて
やっと、たどり着いた現地の開花状況は3分咲き。
曼殊沙華の満開に咲き誇った風景は、参加者の個々の脳裏に描かれてます。
三分咲きとは言っても、木陰の部分の曼殊沙華は満開。
赤い絨毯を敷いたような光景です。
参加者の殆どの方が、初めて見る光景に感動してます。
どうして、この地にこのように曼殊沙華が群生してるの? 不思議です。
そして、遠足気分。
川沿いの沿道脇に皆で座って、持参したお弁当を食べました。
殆どシニア世代の後期高齢者。
いつまでたっても、あの幼いころの遠足気分が忘れてません。
曼殊沙華の開花は3部咲きですが、それにこの遠足気分を加えて
今日のイベントは満開、そのものです。
巾着田曼殊沙華公園を散策した後は、古い歴史のある「高麗神社」を訪れました。
参道を歩くこと15分。途中のコンビニで一時の休憩。それぞれ栄養補給。
高麗神社の大鳥居の前で、この神社の若い禰宜がお迎えしてくれました。
この若い禰宜から、この神社の由来の解説を聞きました。
高麗(こま)とは、かって朝鮮半島から中国大陸にかけて領有した大国「高句麗」のこと。
西暦668年、戦に負けて高句麗が滅びました。
この時、高句麗から多くの人々が日本(当時倭国)に渡り土着しました。
大和朝廷はその人人を駿河、甲斐、上総、下総、下野の国に移住させました。
そして、50年後。霊亀2年(716年)大和朝廷が東国武蔵国に「高麗郡」を創設し
高麗王若光が郡司(首長)として派遣されました。
先に関東各地に移住した高麗人の1799人が、未開の原野に入植し開拓にあたりました。
高麗王若光の没後、郡民はその徳を偲び,御霊を高麗神社として祀りました。
高麗神社の御祭神は、高麗王若光の御霊です。
そして、この神社の宮司は若光の末裔で、現代60代目が勤めております。
この神社は出世開運の神として崇敬されております。
参拝後、6人の政治家が内閣総大臣就任されているそうです。
いろいろ、神社に纏わるお話をいました。
そして、高麗神社の神職を代々勤めてきた旧家「高麗家住宅」(国指定重要文化財)
を見学して、今日の行程を全て終了です。
日本史を紐解くと、奈良時代663年「白村江の戦い」。
百済の国復興を目指しての大和朝廷の朝鮮出兵です。
結果は大敗ですが、その時代の朝鮮半島の動乱に触れる機会となりました。