昨日、仕事で訪問した営業先ではクリスマスの話がいっさい出なくて意外でした。
雑談の中でも出てこなくて。
流行を追いかけている某アパレル業界だというのに……。
でもおかげで、昨日が何の日かを忘れ去ることが出来ました(笑)。
帰宅してから『放浪記』(高峯秀子主演版)を観ました。
古い映画です。
でも面白い。さすが2000回以上、芸術座で公演されてきたストーリーだけはあります。
主人公は、イケメンでダメ男に貢ぐ女性。
そのためカフェの女給(今で言うとキャバクラ)で働き、イケメン(今で言うとホスト?)に貢いでいる……と、こう書くと、現代と昔は何も変わっていないんじゃないかと思えます。
私も観る前は、ダメ男に貢ぐ自分を正当化させるような女のセリフがたくさん出てきたら嫌だなぁと思っていたのですが、でも実際の作品はその印象がまったくありませんでした。
実は主人公は文学少女で、自分がホレっぽくて貢いでしまうような性格だと若い頃から冷静に分析しているんですね。
自分を客観的に見られる知的な女性だったのです。
そのため、男を避ける努力を常にしていました。
日頃から恋をしない努力を彼女はしていたのです。
それなのに。
それなのに。
落ちるときは、あっけなく落ちてしまうのです。
この落差が面白いのですね。
そして男から別れ話を切り出されたときも、髪を振り乱して泣き叫ぶのではなくて、絞り出すような声で普通に拒否る(笑)。
高峯秀子の演技もさすがです。
自分を客観的にわかっているから、自信を持ってダメ男に依存する姿が狂気で、かつ光っていました。
これを怖い女だとか、痛い女だとかにオーバーに役作りせず、ややあっけらかんと平然と言うところに魅力が出ています。
つまり、普通に開き直ってしまっていて、「だからどうした?」状態。
こうなると女は強い。
キャラクターとしては言ってることとやってることに矛盾しているとツッコミが出そうな所なんですけど、でも人間の弱さを演技力で出しているからキャラクターのブレに見えないのです。キャラがブレたとか感じさせないのがスゴイ。
これって、二次元と三次元の表現の差なんでしょうかねぇ……。
いや、違うと思います。
二次元がこうした表現をできないのではなくて、なぜかテンプレートに頼るような理屈で作ってしまっているから、がっちり固めたキャラクターの設定から外れないよう、厳しく作品内で管理しすぎなんだと思います。
遊びの部分というか、あえて矛盾した表現にも二次元はチャレンジしないと、血の通った絵にはならないのではないでしょうか……。
そんなことを学んだ映画でした。
また、私が最も共感した主人公の台詞は「生きてる証が欲しいの」でした。
苦労するばかりの人生、何かひとつでも生きてるんだと実感したいから誌を書くんだと自分のモチベーションを語る主人公のシーンが印象的でした。
生意気ながら私も同じです。
人間いつ死ぬかわからないから、好きな作品を作っていたい。
それが私の場合、ウルトラマンの女の子版でした。マイナーで危険な表現(エロ)とも隣り合わせ。でも、そういう作風が好きなんだから仕方ない。
大げさだけど、そういう〝やり甲斐〟の位置に置いちゃってるから、下手でも続くんでしょうね。
よく作品を途中で投げ出す創作をしてきましたが、投げ出さずに続けることは何だろうと考えた末に行き着いた答えは、「生きてる証が欲しい」でした。
それをやってるときに、そう思えるのは幸せなことです。
たとえ他人から見て、くだらないことでも……。
ちなみに『放浪記』の主人公は、最後に地味で優しい画家と結婚(画家と小説家は相性がいいのでしょうか?)して、それまでの波乱万丈な人生から平穏な日々を送ることになるのですが……しかし、ラストの夢の中では、やっぱり苦労していた日々を思い返しています。
それも、やはり彼女にとっては『生きている証』だったのかもしれませんね……。