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uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


後記

2020-01-07 13:34:16 | 日記
『シベリアの異邦人』を三部に分け今日完結できた。

実は私、先月12月27日をもって失業者になってしまいました。

ホントはこんなヘタレ作文なんかアップしている場合ではない。

でも妻はそんな私に就職活動してね!とは言うが、

「そんなくだらない事してんじゃねーよ!

馬鹿なことは止めて仕事探して!」

とは、ついぞ一度も云わなかった。



妻も働いているので直ちに餓死することはないが、

こんな作文に時間を費やすことを黙認してくれたことを感謝している。

今日からは心を入れ替え、就職活動に真剣に取り組むことを

我が家の大魔神様にお誓い申し上げます。

本当にありがとうございます。

また拙作を読んでくださった皆様、

心から感謝申し上げます。

ありがとうございました。

シベリアの異邦人~完結編~

2020-01-07 12:58:21 | 日記
 
  

前編でのヨアンナの結婚後の描写と
その後の世界を付け加えると共に、
死後の異なる世界も合わせて本編で加筆したい。




ワルシャワゲットー蜂起鎮圧から
ふさぎ込むヨアンナが、
再び快活さを取り戻すべく通い詰めたフィリプが、
彼女の心を掴み、
愛を獲得することに成功したのが、
1943年7月初めの頃だった。

巷ではまだゲットー蜂起の
逃亡ユダヤ人狩りが終息しておらず、
時折絶望の断末魔の声が市街に轟きわたっていた。
しかしそれも、沈没船の船底で生き残った乗組員が
海の奥底で助けを呼び続けるが如く、
絶望の淵で次第にか細く、
最後は永遠の沈黙に至る様子と似ていた。

この現世はまさに地獄。
誰もが涙にくれる中、
人は泣いてばかりでは生きられない。
 どんなに辛くとも腹は減るし、
睡魔は襲う。
笑いと安らぎを本能的に求め、
小さくとも幸せを求める。


ヨアンナは疲れていた。
もちろんフィリプに感じた愛情は本物だし、
前向きに生きてゆこうとする気持ちも本物だった。
 でも普通の神経では、
ワルシャワの日常はあまりに異常過ぎた。
それでも一歩前に踏み出せたのは、
ひとえにフィリプの我慢強い努力の賜物だったろう。
 アパートの扉を開けた外の世界は、
瓦礫が散乱する表通りだけだった。
物資は不足し、食料確保もままならない中、
ヨアンナは愛するフィリプのため
できる限り良い妻であろうと努力した。
 努力?
いや、幸せを渇望し、求めるあまり、
フィリプを愛し、愛し続けた。

 彼女の心の中にはあの井上敏郎との
淡い思い出が住みつく場所があり、
そこは決して消え去りはしない。
でも彼女はその後一度も彼の事は口にしなかった。
 フィリプに気兼ねしていたこともあるが、
誰にも踏み込めない、
立ち入って欲しくない大切な聖域でもあったから。
 それを未練とか浮気とかいう人もいるかもしれないが、
真実の愛が一人にひとつだけと誰が決めた?


答えなんか誰にも教えてほしくなかった。

 その年の11月のある日、ヨアンナは体調の異変に気付いた。
どうやら妊娠したようだ。
 慢性的な医者不足の中、
運よく近所の産婆さんを見つけ
診て貰っても同様の見解だった。
ヨアンナはフィリプに告げると、
フィリプはアパートの天井を無言で見つめ続けた。
 もしかして望まれない子供だった?
ヨアンナは一瞬不安になった。
よく見るとフィリプの頬に一筋の涙が流れるのを見た。
「ありがとう!ありがとう!ヨアンナ!!
ありがとうございます神様!!!」
握る拳が微かに痙攣していた。

 そっとヨアンナを抱きしめ、
いつまでもいつまでも抱擁していた。

その翌朝からフィリプは人が変わった。
どこがどう変わったのか、うまく説明できないが、
男には幾度か脱皮の機会が訪れる。
まさにフィリプはその時だった。
 自分の子が生まれる!信じられない!!
そう、男には赤ちゃんが生まれるという実感を体験する
本当の意味での機会はないのだ。
 
でも個人差はあるが、
確実に父親になる実感を掴む瞬間がある。
 彼にとって我が子の妊娠を告げられた時がその時だった。
戦乱の世。自分も妻もいつ命を落とすか分からない。
でも必ず自分の命に代えても守りぬこうとする、
本能的な決意と覚悟が生まれる。

それ以降、出産までの時期がヨアンナにとっての
至福の時だったと云えるのかもしれない。

 そして二人の愛の結晶の出産の日が来た。

1944年6月22日

 ソビエト軍の進撃によりドイツ軍が壊滅的敗北。

一報と出産が重なった。

出産に立ち会っていた関係者たちに
歓喜の声が響き渡った。

フィリップは大そう喜び、
その姿はかつての日本への冒険飛行を成功させた
英雄のそれからは想像できないほどの
マイホームパパだった。

待望の子は男子で、アダムと命名された。

アダムとイブのアダム。

記念すべきポーランドの
解放の象徴と思われた赤軍の勝利。
奇しくも同日が出生の日となり、
希望に燃えた新生ポーランドの象徴として
人類誕生の象徴アダムにあやかり、
『アダム』と名付けられた。

当時のワルシャワ戦乱の最悪な環境にもかかわらず、
アダムは周囲の愛に包まれ、
生後一番危険な最初の1カ月を無事に育った。

つぶらな瞳は誰に似た?
愛くるしい笑顔は誰に似た?
母乳をねだる可愛い鳴き声は誰に似た?
健やかな寝顔は誰に似た?

赤ちゃんの前では親は皆親馬鹿になり、
前途洋々な未来を想う。

早くお話できるようになってね。
ママもパパもアダムと話したい。
「おはよう」だったり、「おやすみなさい」だったり
「いただきます」だったり・・・。

それだけでも幸せになれる。
かけがえのない幸せ。
成長を見届ける幸せ。
一緒にいられる幸せ。

アダムは確実にクビャク家の太陽だった。

そしてヨアンナはその時初めて理解した。

何故亡き父と母は、私を太陽に喩え励ましたかを。

父の想い、母の想いを理解した今、
やっと自分の大切な家族を実感できたのかもしれない。

しかし、やっと掴んだ幸せに暗雲が襲ってきた。


1944年7月30日
赤軍がドイツ軍の反撃を受け大きな被害を被った。
そして迎えた運命の8月1日。
ワルシャワ国民軍が蜂起。市民を巻き込んだ
絶望の戦闘が始まった。

フィリプは家族のため必死に戦い、
ヨアンナはわが子を守るべく必死だった。

8月末には大勢が決し、
9月末、ほぼ壊滅した。

フィリプは市内残留、徹底抗戦を主張したが、
ヨアンナは強硬に反対した。
これが2度目の夫婦喧嘩。

フィリプには何としても生きていてほしい。
ここにいては確実に死しかない。

ワルシャワ市内を脱し、
抗戦を目指すという路線に変更した。

だが実際は、ドイツ軍ではなく、
敵はソビエト赤軍になったが。

ソビエト赤軍の蜂起扇動と見殺しの裏切り行為、
後に知らされたカチンの森でのポーランド人虐殺行為。

さすがのフィリプも怒りに震えた。

レジスタンス

この意味は理不尽、不条理に対する反抗であり、
対ドイツにも対ソビエトにも限定されるものではなかった。

しかし、この不条理は
ドイツ軍を駆逐した赤軍の反抗占領した
旧ポーランド領に戻ってきた難民ユダヤ人に対する
ポーランド人の行為にも
指摘できたが。

24万人の難民ユダヤ人がポーランド領に押し寄せ、
1946年7月4日の血の中傷以降、
ポーランド人による殺害が繰り返され
9万人まで人口が減少した。


狂気の大量殺りく時代。

誰が正気で
誰が狂気で
誰が正義で
誰が悪!

ヨアンナはひたすら家庭と我が子を守るため
不条理からできるだけ距離をとるように生きていた。

しかし、フィリプの死後、
ヨアンナの運命も決定づけられていた。

        



しかしここで別の運命に視点を移してみよう。

私たちの歩んできた道はひとつだけだったはずだが、
実は無限に異なる道と世界は存在する。

『パラレルワールド』

聞いた事があるだろうか?

例えば自分の人生だけとっても
ほんの少しずつ違う別の運命を辿る
別の人生が存在する。

例えばある時、
目の前に飛ぶ虫を掃おうとしたために
交通事故にあったり回避できたり。
ほんの小さなきっかけの違いで
大きく変わる世界があることを
踏まえてほしい。

その前提で今後の物語は始まる。






             戦後編




 ヨアンナとアダムの住む
ささやかなアパートの一室に
赤軍兵の一団が踏み込もうとした少し前、
ヨアンナはフィリプの死を知らされず
普段と変わらぬ日常を過ごしていた。
 この日も青年会つながりで
いつも世話を焼きに来る近所の女性が
たまたま来ていた。
 その手伝いの女性が休憩中、
わんぱく息子のアダムが蜂に刺されて
火がついたように泣き叫んだ。
アパートの裏手の狭い所で、
遊びながらたまたま手に取った
木の枝を振りまわし、
無邪気に歌いながら踊るように動き回っていたところ、
ひょんなことから
近くを飛んでいた蜂を刺激してしまい
刺されたのだった。

パラレルワールドの異世界に入り込む前だったら
蜂はアダムを刺すことはなかった。

ほんの1cm振りまわした棒がずれただけで
アダムの運命は変わり、
驚いて駆け付けたヨアンナの運命を変えた。

急ぎ我が子を抱きかかえ、
何が起きたか理解できないまま、
途方に暮れるヨアンナ。
一部始終を目撃した手伝いの女性が
何が起きたのかを伝え、
すぐに医者に見せるよう進言、
ヨアンナはそのままアパートを飛び出した。

留守番を頼まれた手伝いの女性に
その直後元青年会メンバーの男女二人が
差し入れを持って会いに来た。

ヨアンナの留守中、家事をしているとき、
いきなり乱暴にドアが開いた。

怒涛の如くなだれ込んできたのは
ソ連兵治安部隊が
テロリスト・反逆者フィリプの家族の
逮捕拘束を目的にした一団だった。

入って来るなりその一人が叫んだ。
「反逆者フィリプの家族を逮捕する!
妻ヨアンナ、おとなしく縛につけ!」
ただしロシア語で大声で叫び活舌が悪く、
よく聞き取れなかった。

突然の出来事に驚き、
その粗暴さに手伝いの女性が
大声で衝動的に抗議した。
「あんたたち、何なの!
ここはフィリプとヨアンナの家よ!
出ていきなさい!」
差し入れにきたふたりのうちの男が
なだめようと手伝い女性に歩み寄った。
たまたまその時手に
布にくるまれた差し入れを持っていたために
拳銃のような武器に間違えられ
ソ連兵のひとりが小銃を構えた。
それを見て悲鳴を上げた手伝い女性に驚き、
男はソ連兵に向き直った。


それは小さな行き違いだった。
でも人の命なんて虫けらと変わらない価値観の兵士は
ためらわず引き金を引いた。
偶然そこに居合わせたヨアンナの友3人が、
理不尽に殺害された。
本人確認を怠り、無関係の人を殺めても、
平然とその場を去るその後ろ姿に
銃声を聞き何事かと
様子をうかがう隣人たちはすくみ上った。

ヨアンナとアダムが戻った時、その惨状に愕然とした。

何が起きたのか?
詳細も分からないまま、立ち尽くしていると、
銃声を聞いただけの隣人が
ソ連兵の仕業であることを伝えた。

そしてその翌日、元青年会の友が教えてくれた。

フィリプの死を。


悲嘆にくれている場合ではない。

ソ連兵がまた来る可能性がある以上、
ただちに逃げなくてはならない。
友が必死で説得した。


でも何処に?

組織はまだ死んでいなかった。

すぐさま逃亡先を手配し、
ヨアンナとアダムは
思い出深い旧市街と、
戦乱を避け移り住んだ郊外の
ずーっと外れの僅かに残った建物から、
徹底的に破壊された廃墟の地
ワルシャワを去った。



 第二次世界大戦終結後の1945年
ロンドン亡命政府と共産主義会派の
ルブリン委員会が合同、
国民統一臨時政府成立。
 しかしソ連赤軍が駐留、臨時政府を傀儡政権化した。
亡命政府系は再び亡命するか、逮捕・処刑された。

1948年ソ連が黒幕のポーランド労働者党、
ポーランド社会党左派が合同、
ポーランド統一労働者党(PZPR)成立、
一党独裁体制に移行した。

1952年共産主義を基調とした憲法制定、
国名をポーランド人民共和国に改め
新たなマルクス・レーニン主義、
共産主義国家の誕生となった。


1956年ソ連にてフルシチョフのスターリン批判、
自由改革路線の息吹が見られるようになる。

それに呼応するかのように、
ポーランドでもポズナニの労働者暴動が発生、
それを期に党第一書記ヴワディスワフ・ゴムウカ主導の
自由化が推し進められた。

しかしその情勢を黙って黙認するほど
ソ連は甘くなかった。
度重なる圧力から政権は次第に保守化
1968年「プラハの春」以降
自由の芽は再び摘まれた。


その間ヨアンナとアダムはどうしていたか?

一行はポーランド北部の
グダニスク(ダンツィヒ)に移り住んでいた。
その地は亡き父フィリプが若かりし頃
赴任していた職場に近く、
ヨアンナの第二のふるさと
ヴェイローヴォ孤児院にも近い
自由産業都市であった。
しかしここもドイツ、ポーランドの争いにより
旧市街を中心に廃墟が広がる爪痕を残していた。

しかしさすがに中世からの求心力が残る中心地。
復興の速さは目を見張った。

特に古くからあるダンツィヒ造船所を修復
レーニン・グダニスク造船所として生まれ変わった。
そんな活気あふれる地を安住の地として選択するのは
ごく自然の事だった。

移住後彼女は息つく間もなく、
生活の糧を得なければならない。
青年会支援者たちの力添えもあって、
小さな食堂を開くことができた。

そこは彼らメンバーの憩いの場となり、
何とか生活の目途が立つくらいの
繁盛を見た。

腕白だったアダムも次第に聡明な少年に成長し、
父親の面影が随所に見られた。

周囲の手厚い支援もあり
人並みに学校にも通うことができた。

ある夏の暑い日、アダムは学校の友と
港近くの海岸で遊んでいた。
友のひとりが手づくりの
ビーチボールに見立てた大きめの球を持参していた。

その日は30℃を超す猛暑日だったが、
南の風(陸風)が流れる日でもあった。

数人で釣りの真似事の後、
ボール遊びに興じていると、
風に流されボールが波打ち際へと転がっていった。

アダムは追いかけ、寄せては引く波の中、
沖へと夢中で走った。

しかし風に流されボールはどんどん遠く離される。
やがて気がつくと海水がアダムの胸に達し
怖くなってボールを諦め
岸に戻ろうとした。

沖に向かって吹く風は、どんなに戻ろうと
もがいても、もがいても押し戻されていった。

その様子を浜で見ていた友たちは
最初すぐにボールを取り戻し
岸に帰って来るものと思っていた。

いつまで経っても先に進まないアダムの様子に
次第に不安になってきた。

アダムは体力を消耗し疲れ始めていた。

ああ、アダムがおぼれる!

初めて事の重大さに気づいた友のひとりが、
近くにいる大人を探し、助けを求めた。
たちまち人が集まり近郊の漁師が使う
小さな磯船が助けに向かった。


その磯船でさえ、救助のあと岸に戻るとき
その向かい風の強さに
オールを押し戻されるほどだった。
しこたま海水を飲み、ぐったりしているアダムに
助けた漁師が
「危なかった、この俺まで流されるかと思った!
九死に一生を得られて良かった、良かった!
もうあんな事やるんじゃないぞ!」
無事に戻れて安堵したのか、
にっこり笑ってそう言った。

家に戻ると一部始終を聴いたヨアンナは
意外に落ち着いていた。

取り乱したり喚くこともなく
最後まで黙って聞き、
間をおいてからこう言った。
「アダム、今あなたはどう思っていますか?」
「心配かけてごめんなさい。」
蚊の鳴くような声でそう言った。
「助けてくれた人にお礼を言いましたか?」
「うん、ちゃんと言ったよ!」
「アダムは母さんの大事な、大事な息子。
天国のお父様もあなたを
いつも見守ってくれていることを忘れないでね。」

翌日お店を開ける前にヨアンナとアダムは
改めて助けてくれた漁師を探し当て
丁寧にお礼を言った。

アダムは幼い少年の心に深く刻んだ
もう二度と軽はずみな行動はとるまいと。


かれはその後成長し優秀な成績で
グダニスク工科大学へと進んだ。

1967年無事卒業後、
グダニスク造船所に電気技師として
開発部門の部署に配属された。
同期にレフ・ヴァウェンサという
気の良い青年がおり、
仕事の他、仲良く行動することが多かった。

翌年東欧社会主義陣営の自由の空気が
消し飛ぶ事件が起きた。

チェコ動乱『プラハの春』だった。

そして1970年、自由の圧殺による閉塞感と
賃金に不満を持つ労働者が立ち上がり、
グダニスク暴動が起きた。

アダムとレフは、自分はどうするべきか悩んだが
次第に労働問題に目覚め、引き込まれていった。

しかし、暴動では問題解決はありえない。
しっかりした組織を立ち上げ、
理論武装のため学習し
社会の支持を得られるよう
努力すべきだとの結論に達した。

共産主義や社会主義は
労働者主体の社会経済体制であると云いながら、
自由は圧殺され、人権は守られない。

それの何処に理想があるか?
国民の誰が喜ぶか?

それは私たちが本当に求める社会ではない!
自由とは自らの責任において
自らが管理し、自らの理想を追い求めるもの。
それも独りよがりではなく、
より多くの人々が知恵を出し合い
力を出し合い、喜びを分かち合うもの。

アダムとレフは完全に意見が一致した。

彼らが具体的な活動を推し進めるにつれ、
当局の眼が厳しさを増してきた。

身の回りに弾圧の危険がせまり、
ヨアンナはわが子の運命に不安を感じた。

父フィリプのように殺されたらどうしよう?
幾度となくアダムに母の不安を伝え
慎重と自制を求めた。
しかし決して主義を捨てろとは口にしなかった。
何故ならアダムは自慢の息子であり、母の太陽であり、
ポーランド人の誇りを守ろうとする英雄だから。
フィリプが命がけで掴もうとした誇りと自由を
是非息子に成就させたかったから。

しかし母はもうあまり見届ける時間がなかった。
苦難の末レフが委員長になり
1980年自主管理労組『連帯』を結成した。

危機を覚えた政府は戒厳令を敷き、
レフとアダムは拘束された。

ヨアンナは心労から床に臥せ、
次第に弱っていった。

1983年10月20日
アダムが釈放された日、
ついに息を引き取った。

ヨアンナ68歳だった。

そしてアダムの盟友レフ・ヴァウェンサは
日本では「ワレサ」として報道、紹介され、
1990年第二代大統領に就任、
次々に自由化、民営化を行った。

懐刀アダムは陰で彼を支え、
自由ポーランドの建設に寄与した。




         今度こそ本当に 終わり。