「あなた、起きてください!会社に遅れますよ!
朝ごはんを食べなくても良いなら、もう少し寝ていられますけど。」
(慌てて飛び起き)「あぁ、イヤ、起きる。ああ、腹減った!」
「あなたって本当に食べないと生きてゆけない方なのね。
お付き合いしていた時もお汁粉に目が無かったようですけど、今でも三食キッチリお食べになって、更に再三間食なさっているって知っていますわよ。」
「百合子は僕の事、単なる食いしん坊だと思っているでしょ?」
「いいえ、そんな事は無くってよ。以前お兄様(義兄)が仰っていましたわ。
『弟は生まれつきの胃酸過多のせいか、しょっちゅう何か口にしていないと生きてゆけない生き物なんだ。』って。あなたを見ていて合点がいきましたの。」
「僕は蟒蛇か!もう~、兄貴ったら、そんな事まで百合子に言い触らしていたの?百合子には何でも話しているんじゃないか?って疑っちゃうよ!」
「そうですのよ!私には強力なスパイ網がありますの。それらを至る所に貼り廻らせているのでお気をつけ遊ばせ。」
「クワバラ、クワバラ!サ、飯にしよう!!」
そう言って階下の食卓に逃げ込む秀則であった。
僕の兄の嫁は百合子の姉。住まいが近いせいで緊密な関係にある。
と云うのもそうならざるを得ない事情があったから。
その事情とは『関東大震災』。
大正12年(1923年)9月1日に起きた地震のせいで、影山家の僕たち兄弟も、百合子の実家、藤堂家の姉妹も生活がハチャメチャにされてしまった。
といっても、双方の実家はギリギリ地震による倒壊も火災も免れたが、僕が通った東京帝大も妻の母校誠蘭高等女学校も大きな影響を受けている。
校舎の一部が壊れ、書籍や書類、備品が失われ、学校全体が茫然自失に陥っていた。
それに僕の実家から工学部校舎までの鉄道も不通になり、復興までは地獄の徒歩での通学を余儀なくされたし、妻もそれは似たような状態だったらしい。
苦学の意味は違うけど、僕らは確かにその点に於いて苦労して卒業した苦学生なのだ。
そんな僕らではあったが、瓦礫と焼け野原をひたすら歩き続け、ようやく辿り着けたのが高輪に奇跡的に焼け残っていた『甘味亭』。
そのお店のすぐ東隣一帯は、未だに復興できていない状態。だから僕にとって『甘味亭』は砂漠に浮かぶ命の綱のオアシスなんだ。それに多分妻も一緒だったろう。
そんな学校の通学環境に加え、僕たちの結婚もそうだった。
僕たち夫婦は東京会館で結婚したが、そこは兄夫婦が結婚式を挙げた式場でもある。
1922年に竣工し、兄たちはそのすぐ後に挙げている。翌年1923年は関東大震災。東京会館は被災により営業停止。僕たちもそれに続く筈だったが、この震災のお陰で1027年の再開まで待たねばならなかった。五年も先だよ!
両家の親は式場の格式を重んじ他の式場は考えられないし、そもそも他の式場なんて焼け野原と瓦礫から復活できない状況では無いに等しかったし。
だから散々待たされた挙句の結婚・同居なので、百合子との関係はもう新婚とは呼べない程お互いを知り尽くし、倦怠感すら感じている。
ただ、妻百合子は僕にゾッコンの所があり、決してぞんざいには接しなかった。
百合子は自分と話すとき、僕は一生懸命分かってもらおうと汗をカキカキ説明しようとする。
その姿が滑稽であり、可愛くも感じるらしい。
結婚を式場再開までお預けされていた数年の期間、百合子は様々な質問を投げかけている。
「秀則さんはどうして鉄道省にお入りになったのですか?」
そんなのは普段、僕に接していれば聞かずとも分かる筈の質問であるが、僕は「待ってました!」とばかり、説明する声が高揚し一気に声が弾むのが手に取るように分る。
これまでも「駅名を次々と諳んじる」、父の赴任先で会得した「その土地の時刻表をお経のように暗唱する」などの特技を得意げに披露していた。
僕は根っからの鉄道ヲタクであり、鉄道の話をするときほど生き生きして見えることは無い。百合子はその表情が大好きなのだ。
だから僕が身に着けた工学部での技術を活かせる職種を選らんだのは当然であると百合子は理解している。
「どうして鉄道省?それはね、鉄道は一家だからなんだよ。
機関車を動かす運転手ばかりが鉄道マンでないし、車掌さんだけでもない。
線路の保全を担当する膨大な人数が関わっているし、信号を維持したり検査する人も必要なんだ。もちろんチョビ髭の駅長や助役だけでもダメだし。
それらの人たちが心を合わせ、一致団結するために鉄道職員は一家でなければいけないんだ。
転勤族の子の僕は、幼い頃から列車に揺られる生活に慣れていてね、線路を颯爽と走る力強い蒸気機関車に憧れていた。
そしていつも線路を眺めるのが日課だった僕は、時折線路でなにやら作業をする人たちに目が留まってね。〘一体何をしているんだろう?〙って疑問に思ったんだ。
ある日、真夜中にトイレに起きた僕は月明りに誘われトイレの窓の外を覗いたんだ。
するとずっと遠くの線路でたくさんの人が見えてね。
その時もこの人たちは何をしているんだろう?と思ったんだ。
それから僕は線路に人がいないか注意を払うのが習慣になった。
その謎が解けたのは、ボクが父の転勤で雪国に住むことになった時。
降りしきる雪の中、多くの人が人海戦術で雪かきをしている様子を見たんだ。
その時総てを理解したよ。
あぁ、線路って人がいつも手を加えないと生きられない生き物なんだって。
親が生まれたての赤ちゃんが一日一日すくすく順調に過ごせるように、無事に生き延びられるように祈りながら接すると同じでね、注意深く見守る人が居るって気づいたんだ。
そんな地味に鉄道を支える人たちがいるから機関車が力強く疾走出来るんだってね。
だからこんなに機関車も客車も美しいし、カッコいいんだって思えるんだよ。
ね、凄いでしょ?
僕が鉄道省に入った理由?
そんな彼らに憧れたからだよ。決まってるだろ?」
百合子はそう熱っぽく話す秀則がこの世の誰よりもカッコいいと本気で思っていたし、心から愛せる人だと確信していた。
但し、彼女はそんじゅそこいらの撫子ではない。
時折見せる悪魔の素顔がムクムクと顔を見せる時がある。
「それは良く分かりました。
でも私にはもうひとつ疑問があります。
あなたは今でも私以外の女性に興味はありますか?」
「え?何で?」
「だってあなたはあの日、甘味亭で女性たちを盗み見て物色していたじゃないですか。
私はあなたのそんなところが今でも不安なんです。もしかしたらいつか浮気なさるのではないか?って。」
目を細め、疑惑の眼差しが矢のように秀則に降り注ぐ。
「物色?浮気?そんな訳ないでしょ!
僕がいつ女性を盗み見たって?ボクがそんな男に見える?見えないでしょ?
ほらね、そんな風に見える訳ない。」
冷や汗をかきながら、そんな昔の事をむし返す執念さに心の中で震えた。
「あら、そうかしら?甘味亭でのあなたはいつも片手に本を持ちながら何か別の所を見ているみたいでしたわ。
でもそれは仕方ないって思っていますのよ。
女性に興味を持てない殿方なんて、結婚生活を不幸にするわ。
だから私はあなたが女性に興味を持つことが悪いと思っているのではなく、妻の私から誰かほかの人に心うつりしないかが心配なだけなの。
だから遠慮せず、どうぞドンドン他の女性を凝視してくださいな。
その代わり私だけを変わらず愛して欲しいの。」
ドンドン?他の女性を凝視?人聞きが悪い!
大体あの時他の女性を見ていたのは(百合子の前では他の女性を見ていたなど、絶対に認めないが。内緒ね。)
三高(現京都大学)時代以前からの悪友の島村秀夫から揶揄われていたから。
だってあいつときたらある日の喧嘩中に、言うに余って僕の事【鉄道馬鹿の童貞野郎】って罵ったんだ。
「あぁ、僕は童貞だよ!」って両手を腰に当て胸を反らし、開き直ったら大声で笑うんだ。
「でもね、僕が童貞なのは、決して女性にモテないからでも、相手にされないからでもない。知的興味が鉄道にしか持てないからなんだよ。」
って言ったら、島村の奴、
「じゃぁ、それを証明してみろよ!秀則に彼女が出来たらお前の言う事を認めてやる」
「分かった。証明ね。僕に彼女が出来たら島村は僕に何してくれる?甘味亭のお汁粉五杯、いや、十杯でどう?」
「いいだろ、甘味亭のお汁粉十杯だな?その賭けに乗った!」
それから暫くの間、島村は陰で僕を監視した。
でも一向に彼女が出来る気配はないし、女性の前で気取ったポーズをとる僕を「プ!」と吹き出しながら笑っていた。
「そろそろ勝負はついたな。」と言う島村に、「まだまだ!」と応える僕。
その翌日だっただろうか?
百合子が僕の前に座って話しかけてきたのは。
「勝負あり!」
僕が島村からお汁粉十杯をせしめたのは言うまでもない。
(後から15杯にすればよかったと後悔した自分がいたが。)
だが、結果的に賭けに勝った僕だが、タイミングよく百合子が現れたのを一番驚いたのも僕だった。
そういう事情から百合子には我妻になった今でも絶対に知られてはいけない。
女性をチラ見していたのも、賭けをしていたのも。
「もちろんいつまでも百合子の事、世界一愛し続けるさ!
僕が君一筋なのは、ホントは分かっているくせに。」
と恥ずかしいし僕らしくないけど、精一杯背伸びして惚気てみせた。
それにしてもやはり百合子はいつ見ても美しいし、いつまでも飽きない。
あまりに見とれてチューしようとしたら、どこから出したか百合子の手から飴玉が僕の口にねじ込まれた。
「そろそろお腹が空いたと仰る頃ね?」と、とり澄ましていう。
「あぁ、この黒糖アメ、丁度よい甘さだよ」と口の中で転がしながら言う。
万事こんな調子で新婚生活は甘く過ぎてゆく。
僕たち夫婦の新婚家庭は、双方の実家とも兄夫婦の家とも近い。
だから頻繁に行き来があるのは自然な状態だった。
ただ、両親も兄夫婦も自然なふりしてやって来るが、実は心配で仕方ないのだ。
だって、見合いの席でのあの奇妙な見栄の張り合いの会話。
誰だって思いっ切り不自然と感じたのは当然だった。
いつか破綻する。今すぐ破綻する。
そう確信しながら僕たち夫婦を覗き見るので正直鬱陶しいと思う。
でもホントの事情を知ったらそんな心配はしなかったろう。
僕はもちろん皆を安心させるべく、愛し合っている夫婦をアピールするが、時々悪魔の顔を見せる百合子はそうではない。
訪問してきた親や兄姉の前でワザとその悪魔の顔と性格を出現させるのだ。
「ねぇ、お義兄様、秀則さんがお義兄様は私のスパイなんじゃないか?って疑うのよ。そんな事ありませんよね?」
「はて?何のことだろう?」
自然な調子でシラを切るが、百合子は姉有紀子を通して甘味亭での会話の内容を報告済みだったので、総て筒抜け。その後の付き合い方のアドバイスまで受けていた。
だから兄秀種から弱みを握る攻略法などもレクチャーされている。
ハッキリ言って兄は有紀子のエージェントとなり、裏からふたりを操る工作員でもあったのだ。何と油断のならない兄弟なのか?しかも義姉有紀子までが加担して。
そういう経緯もあり、黒幕の兄夫婦は良心の呵責から(?)弟夫婦の行く末に責任を感じていた。(面白過ぎて興味が湧き過ぎ、夫婦間の仲を偵察に来たとも言う)
事実の詳細を知らないのは私だけ。まさに道化師だった。
それと両家の両親も悪魔の芝居の犠牲者だった。
と云うのも、両親が来るときだけあの見合いの席のお芝居を続けるから。
「ねぇあなた、この街が震災から復興して劇場が出来ましたら、是非クラシックコンサートに連れて行ってくださいね。」
それに対抗して僕も
「百合子も茶道教室が復活したらまた通うんだろ?
僕も百合子の習いたての茶を飲んでみたいな。」
両親も知っている白々しい嘘をワザと話題に挙げる事で、今でも二人は見栄を張り合っているのか?と思わせている。
それが両親に対する同情と注意を引く手段なのか?
悪戯に心配させるだけの親不孝な行為だと思うのだが?
百合子は思う。
人間は善良に生きるだけが幸せの手本ではないと。
ほんの少しの辛いスパイスが効くから、美味しい料理もある。
塩をまぶさないおにぎりが美味しいか?
抹茶の苦みが茶のうま味を感じさせる。
だから私は秀則さんのスパイスでありたい。
可愛い、飽きない、宝物のような大事なスパイスに。
秀則は決して職場の話はしない。
仕事を家に持ち帰らない。
だが、いつも鉄道の話になると頬を紅潮させながら講釈する。
そんな秀則が百合子は大好きだった。
つづく