我が国で初めて首都として計画的に造られた都市・藤原京がどのような時代背景から建設されたのか、を記載した。長文ですがお付き合い頂ければ幸いです。大津皇子は葛城山の北端にある雄岳、雌岳が並ぶ二上山に、女帝・持統天皇の意思により埋葬された。二上山は西方浄土の入り口のようなところで、無実の大津を罠にはめた女帝が祟りに怯えて鎮魂の目的で決めたと考えられる。689年、史が名を不比等とした頃、皇后は亡くなった草壁を偲び嶋宮を度々訪れ、692年には壬申の乱を偲ぶ伊勢への行幸を強行している。農民を苦しめることになると三輪朝臣高市麻呂は反対したが、物部連麻呂が警護の将軍として行幸の供をしたのである。女帝と物部連麻呂の結びつきが定説以上であることの証ともいえる。万葉集には、この時の物部連麻呂の歌 「吾妹子をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも」 などは、とうとうここまで登りつめたかという満足感がこもった歌である。696年には直広壱に昇進し従者50人を賜る身分となった。このとき20歳ほど年下ではあるが藤原不比等が直広弐であるから、いかばかりか窺える。女帝の孫の軽皇子 (この皇子が後に文武天皇として即位する) は14歳になり皇太子までまじかである。この頃天武の長子で太政大臣の高市皇子が亡くなった。不比等の娘の宮子は軽皇子の夫人になる約束ができており、もはや天皇家の家族といってもよい不比等は物部連麻呂にとって強力な味方であるし、物部連麻呂の情報収集力には不比等は一目を置いている。695年の藤原京遷都の翌年に太政大臣の高市皇子が倒れて全身麻痺になったというから、今の脳卒中と思われる。この頃から軽皇子を通して不比等は県犬養宿禰三千代を親密になっていく。そして696年に高市皇子が43歳でなくなると、翌697年に軽皇子の立太子が行われた。この時には壬申の乱以降政界を離れていた忍壁皇子が復帰したことから、軽皇子の立太子に推したと考えられる。また葛野王(大友皇子の長子)も壬申の乱の悲劇を避けるために立太子の正当性を述べた。
軽皇子皇子は特に問題もなく15歳で皇太子となり、妃を迎える年齢である。病弱な軽皇子が世継を作らない間に死んでしまえば、女帝の最大の望みは藻屑となってしまう。この時不比等が考えたのは鴨姫との間に生まれた宮子を軽皇子の妃にすることであったが、不比等は天皇の臣下であるため難事である。この時以来、不比等は三千代と深い仲になりたいと思うようになり、三千代は鴨姫の娘・宮子を軽皇子妃として手腕を振るうことになるのである。なんといっても三千代は軽皇子の教育係で、一番気を許せる人でもあったから、その助力を得れば宮子が妃になれる可能性は高い。ただし後に高位の皇族の女人が妃となれば、それが皇后となり、その皇子が皇太子となる。697年、後宮に15歳以下の女人が数名はいった。軽皇子の妃には不比等と鴨姫の子・宮子を含めて3人が選ばれた。あとの二人は紀朝臣竈門娘と石川朝臣刀子娘である。軽皇子は後宮で顔色が優れない宮子よりも刀子娘を好んだというが、県犬養宿禰三千代は、皇子と宮子の仲を取り持ち、最初の閨は宮子が勤めた。後に宮子は首皇子を産み皇子は45代聖武天皇となるのである。一方持統天皇は譲位のことを考えていたが、皇太子はまだ15歳であり政務に就ける状態ではない。不比等がこのときに提案したのは軽皇子を新天皇にし、女帝は太上天皇になるという案である。これにより軽皇子を新天皇にするという野望を果たすと同時に、女帝の疲労を軽減し、最上位から政務を監督するという政治の要は女帝の采配が振るわれる。かくして697年八月に文武天皇が誕生した。時に、女帝53歳、不比等39歳であった。
文武天皇即位は簡単に実現したのではなく、反対派としてやっかいな長皇子と弓削皇子がいた。天武と大江皇女との間に生まれたふたりに対抗できるのは、天智の娘・新田部皇女を母とする舎人皇子である。新田部皇女の母は阿倍倉梯麻呂の娘であるから格は申し分がない。一方新田部皇子は母が鎌足の娘・五百重娘で、後に不比等が妻にし、麻呂をもうけており、血統はいいが若すぎる。十市皇女を母とする葛野王は大友皇子の子になるが、天智の孫にあたり、天武系の皇子だけではなく天智系の皇子も加えて、軽皇子を推挙させることを物部連麻呂は不比等と密談したようである。早速物部連麻呂は天香具山近くの葛野王邸を訪れ、見方に加えた。こうして長皇子・弓削皇子の反対のなか軽皇子が立太子し、後に文武天皇となっているのである。701年には不比等の娘・宮子は文武の子・首皇子(後の聖武天皇)を産み、後宮で勢力を持つ県犬養美千代が不比等の子・安宿媛(後の光明皇后)を生んだ。このとき物部連麻呂は62歳で正三位大納言。当時の右大臣は従二位阿倍朝臣御主人である。翌702年についに律令は施行され、文武天皇は藤原京の北の平城の地に遷都の勅をだした。唐から帰国した粟田朝臣真人は律令編纂に全力を傾けた官人で藤原京は貧弱すぎるというのである。物部連麻呂は農民の苦役を想像し、反対の意見を持っているが、不比等はどうしても遷都したいと考えている。女帝はこの年亡くなり、殯を嫌って火葬を行ったが、それ以来不比等の政治への関与は深まっていく。病弱な文武は政治を執れる状態ではなくなり、文武の母・阿閉皇女が中継ぎの天皇になる可能性が高まった。不比等は自分の孫である首皇子を天皇にしたいから、阿閉を積極的に中継ぎ天皇に推すためである。
707年、文武が25歳で亡くなると母・阿閉が元明天皇として即位した。このとき物部連麻呂は元明天皇から左大臣の命を受けたがもちろん不比等の推挙であり、遷都に対して賛成するようにとの裏工作の現れである。物部連麻呂は左大臣を承諾はしたが、新しい都へ居を移すのではなく、かつて持統天皇がいた旧藤原京の宮殿を守りながら老後を過ごす意思を不比等に伝えた。物部連麻呂が脳卒中で倒れたのは717年、78歳の長寿を全うし、元正天皇より従一位を賜り、不比等はその3年後に62歳で亡くなった。