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藤原宮大極殿院の発掘調査(飛鳥藤原第182次説明会)

2014年11月10日 | 奈良・飛鳥時代

 2014/11/8 奈良明日香村の都塚古墳を見に行こう!その途中渋滞のためわき道にそれたのが幸運の始まりでした。以下の説明会のことを知らずに走ると、一面に広がる藤原宮のコスモス畑。もちろん車を止めて現地に向かうと、藤原宮大極殿院発掘調査の現地説明会会場でした。

藤原宮大極殿院発掘調査の現地説明会が開催されます。

 開催日:平成26年11月8日(土)

時 間:13:30~(説明は1回) ※小雨決行

場 所:発掘調査現場(奈良県橿原市高殿町)

アクセス:近鉄大阪線「耳成(みみなし)」駅南口から南へ徒歩約25分

報告者:森川 実氏 (都城発掘調査部(飛鳥・藤原地区)主任研究員)
 問合せ:奈良文化財研究所 都城発掘調査部(飛鳥・藤原地区)

 我が国で初めて首都として計画的に造られた都市が藤原京です。日本書紀では「新益都(しんやくのみやこ)」という表現で登場します。都が藤原京に移ったのは持統8年(694年)ですが、この都づくりを計画したのは天武天皇でした。その末年には、道路づくりなど実際の京造営工事がはじまっていたことが発掘調査でわかってきました。 京内は中央に宮をおき、中国の都城にならって、縦横に走る条坊道路で整然とした区画割りをしています。それらの多くは貴族・役人の宅地として身分に応じた広さで支給されていました。 また、京内には沢山の寺がつくられましたが、中でも官立の大寺院として大官大寺と薬師寺が東西に配置され、荘厳さを競っていました。京内の人口は2~3万人と推定されますから、官営の市場はさぞにぎわっていたことでしょう。藤原京は16年間と短い期間でしたが、日本が律令国家としての体裁を整えていく、とても重要な時代の都です。大宝元年(701)には大宝律令が完成し、政治のしくみが整備されるとともに、富本銭に続いて和同開珎が発行され、経済の仕組みも変化していくことになりました。藤原京の大きさは、これまで古代の幹線道路の中ツ道、下ツ道、横大路、山田道を京の端の道とした東西2.1km・南北3.2kmと推定してきました。ところが、この範囲をこえて外側にも道路や宅地が広がっていることが近年の発掘調査によってわかり、平城京をしのぐ広大な都の姿が明らかになりつつあります。1300年前の首都・藤原京の中心、現在でいえば皇居と国会議事堂と霞ヶ関の官庁街をあわせたところが藤原宮です。都の中央約1km四方を占め、まわりは高さが5.5mもある瓦葺きの塀が巡り、各辺には門が3ヶ所ありました。そして、塀に平行して内堀と外堀がつくられていました。 宮の内部は、中央に政治・儀式の場である大極殿、貴族・役人の集まる朝堂院が南北に並び、大極殿の北は天皇の住まいの内裏でした。大極殿と朝堂は宮殿で初めての瓦葺きで、礎石の上に柱が立つ建物です。大極殿は当時最大級の建物でした。これら中央の区画の両側は官公街です。日の出前から出勤した役人たちが、ここで政治の実務を担当していました。中央部に接して一辺約70mの塀で囲った四角い区画の役所が南北に並び、その外側は大きな区画の役所で、長い建物が建つことがわかってきています。(奈良文化財研究所の説明より抜粋)

調査エリアは藤原宮大極殿院内庭の西隣の遺構

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