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蘇我大郎入鹿 舒明

2006年08月26日 | 奈良・飛鳥時代

蘇我大郎入鹿

舒明天皇の死

 胸を患った舒明大王が皇后・宝皇女とともに、伊予の道後温泉から厩坂宮へ戻ってきたのは640年のことである。 また、蘇我氏の葛城の高宮で育てられていた葛城皇子(中大兄皇子)が半ば完成した百済宮で舒明と一緒に住むようになったのも640年のことである。 舒明の最初の宮は岡本宮であったが田中宮を経て移ってきたこの厩坂宮の近くには石川精舎があり、蘇我馬子の屋形があった。 この石川や南方の檜隈には東漢氏(ヤマトノアヤ)を中心とした蘇我氏の勢力範囲であり、舒明は蘇我本宗家の手中にあったといえる。

 因みに、蘇我馬子の発案により596年建てられた飛鳥寺は、我が国最初の本格的な寺院で安居院(あんごいん)ともいわれている。 この寺で催された蹴鞠大会で中大兄皇子と中臣鎌子が出会い、蘇我氏打倒を誓ったといわれている。

鞍作鳥の作といわれる釈迦如来増 (撮影:クロウ)

 

 

飛鳥寺のすぐ隣には蘇我入鹿の首塚がある。

  

 

 蘇我蝦夷、入鹿親子の邸宅があったといわれている甘樫丘(うまかしのおか)は、飛鳥古京(明日香村内)、大和三山とその中央に位置する藤原京(橿原市内)、遠くの生駒山、金剛山系の山並が望めるすばらしい眺望の丘です。万葉集などに歌われた植物を散策しながら楽しめる万葉植物園路などが設けられています。

 豊浦宮は蘇我稲目の邸宅を寺にした向原寺跡に建てられた宮で、推古天皇の宮殿(592年)。603年に推古天皇は小墾田宮に宮殿を移した。 その後舒明天皇になると、630年に飛鳥岡本宮を宮殿とし、636年焼失のため田中宮を再建。640年厩坂宮へ移る。 643年百済宮を完成させる。

中大兄皇子が作ったといわれる水落遺跡にある水時計(撮影:クロウ)

 

 舒明は蘇我本宗家の援助で百済宮、百済大寺(今の大安寺)を建てたが、これは厩戸皇子の意思を継いだ山背大兄皇子の後押しがあり、入鹿は気に食わなかった。 博愛主義者である斑鳩宮の山背大兄皇子を憎んでいたのである。

 推古天皇が亡くなったとき、積極的に大王になろうとしたのが山背大兄皇子であるが、大臣・蝦夷は自分の妹・刀自古郎女の皇子である山背大兄皇子を大王に推さなかった。 それは仏教思想に被れた厩戸の皇子を嫌っていたからである。 田村皇子は馬子の娘・法提郎女を妃とし、古人大兄皇子を産んでいたために次の大王を古人大兄皇子に賭けて田村皇子を舒明大王としたのである。このとき蝦夷は山背大兄皇子を推した叔父の境部臣摩理勢を殺害している。ところが、舒明の遺言はこともあろうに、次の大王を山背大兄皇子にしたい、というものであった。これには蘇我蝦夷・入鹿親子は驚いた。舒明天皇が息子の古人大兄皇子を大王に推すと予想していたからである。蘇我本宗家が政治を牛耳る構想を抱く入鹿にとっては、山背大兄皇子が大王になれば目的が達成できない。また、ほとんどの豪族も民を馬牛のように支配してきたから反対である。 

 入鹿は舒明大王の妃・宝皇女とは仲がいい。宝皇女に頼んで 山背大兄皇子を説き伏せようと考えていた。そして入鹿は白の喪服を着ると、佐伯連子麻呂の兵士に守られた百済宮を訪れた。入鹿は宝皇女に、山背大兄皇子への説得を依頼したのはいうまでもない。 641年に舒明の殯の儀式が百済宮の殯宮で執り行われたが、山背大兄皇子が現れたのは数日後である。

 殯(もがり)の儀式が約二ヶ月に及んで続く間、蝦夷・入鹿は巨勢臣徳太、大伴連長徳らと次期大王について話をしていた。 舒明の遺言を考えると古人大兄皇子は無理である。中大兄皇子は蘇我の血が流れていない。結論は中間的な女帝大王を擁立させて、推古大王のときのように実質的な政治権力は蘇我氏が握る、ということである。かくして宝皇女は642年に百済宮で即位し、皇極女帝となった。 このときの条件は、唐皇帝の宮に負けないような宮殿を建造することであった。

 大臣・蝦夷は畝傍山のちかくに屋形を造り政治を執り、入鹿は嶋宮に入鹿好みの東国女人を残し、豊浦宮に移った。 この頃、舒明の死を知った安曇連比羅夫(あずみのむらじひらぶ)が百済の弔使とともに筑紫に戻り、その後、畝傍の蝦夷の屋形を訪れ、朝鮮三国の情勢の緊迫した変化を報告している。 この報告を聞いた入鹿は百済の政変、朝鮮三国の緊迫を我が身のことのように感じていた。

 嶋宮は天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の宮殿であるが、もともとは嶋大臣と言われていた蘇我馬子の住居であった。 豊浦宮は敏達天皇の皇后・額田部皇女が593年にこの宮で即位し、推古天皇になった。この宮は蘇我稲目の邸宅を寺にした向原寺跡に建てられた宮である。

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