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蘇我大郎入鹿 皇極

2006年08月28日 | 奈良・飛鳥時代

蘇我大郎入鹿

皇極女帝と通じようと考えた入鹿

 僧旻が唐から戻ってきて数年後の637年頃に、唐の新知識を教えるために講堂を開いた。 入鹿は、僧旻から畝傍、豊浦の屋形で教えを受けた。 唐の国家制度、律令制度を群臣の子弟はなかなか理解しようとしない。 私有する土地、民を否定する律令制度は自分達の富、勢力の崩壊につながりかねないからである。 しかし入鹿は真剣に教えを聞き入っている。 巨大な私有地をもたない中小官人は共感していた。 なかでも失うものなど何もない鎌子は、その筆頭である。 蘇我本宗家の入鹿にとっては危険思想である、僧旻の教えに頷く入鹿に鎌子は関心を示していた。 

 講堂には蘇我本宗家以外にも、石川麻呂の異母兄弟蘇我日向、蘇我田口臣筑紫、蘇我川堀などもいた。 蘇我分家のほとんどは本宗家に好感をもっていなかった。 それは本宗家だけが権力を得ていたことと、蝦夷が伯父の境部臣摩理勢を自殺に追い込んだことにある。 それ以来蘇我氏は完全に亀裂を生じたのである。 蘇我日向は大化の改新後の649年に右大臣の地位にあった異母兄・石川麻呂に謀反の罪を着せ山田寺に逃げた石川麻呂の妻子を斬殺した張本人である。 

 飛鳥寺の北東すぐに、蘇我倉山田石川麻呂が建てた山田寺があります。蘇我氏の財務役をしていたことから大きな財力を誇り、山田という地名に本拠地を置いていたので倉山田が付きます。良くはわかりませんでしたが、恐らく妻子の墓でしょう。山田寺の隣にありました。

 

 

 日向の裏で糸を引いたのが鎌子である。  入鹿はこの頃、唐の大王のごとく倭国を支配する夢をみていた。 入鹿は自ら僧旻を師とする講堂には出向かず、 蘇我川掘に命じて講堂に通う群臣の子弟の同行を探らせていた。

 642年、舒明天皇が没した翌年に放火により百済宮は焼け落ちている。百済宮の建立に資財を投入した山背大兄皇子とその一族にとっては大被害である。 百済宮の傍らの屋形では葛城稚犬養連網田や佐伯連小麻呂が警護にあたり、皇極天皇が毎日殯(もがり)の宮にへ行き夫の霊を慰めていた。 そこには皇極天皇の弟の軽皇子もおり、軽皇子は南淵請安や高向玄理を招いて唐の国家制度を勉強していた。 南淵請安や高向玄理は唐から840年に戻ってきた新米の漢人であり、古い漢人や蘇我氏に対する考え方は違っていた。 こうして古人大兄皇子よりもはるかに学識が豊かであった軽皇子は次期大王位を狙っていたとしてもおかしくはない。 また、大王になるためには蘇我氏の合意は不可欠であるから、蝦夷とは仲がよかった。 

 642年、女帝は百済大寺の再建と新しい宮の造営のために民、百姓を徴発する詔をだした。 これにより再建されたのが、新宮と板葺宮で、女帝と入鹿によって造営されたものなのです。そして蘇我本宗家に反発していた者の危機感がこの頃から急速に盛り上がります。 大勢の民、百姓を苦しめることになる造営には、山背大兄皇子は人間平等主義を聖徳太子から引き継いでいるので反対であった。

 飛鳥寺のすぐ南に位置する 板葺宮跡です。全国の民を苦しめてまで造営に励んだ皇極女帝が忍ばれます。 645年には中大兄皇子と鎌子が、蘇我倉山田石川麻呂や兵の舎人と協力して、この板葺宮で蘇我入鹿を暗殺したのです。 極めてのどかな風景からは想像もつきません。

 

 板葺宮、百済大寺、女帝の仮宮(小墾田の仮宮)を同時に建設するにはあまりにも人手不足で、造営長の東漢長直阿利麻の手腕では難しかった。 そこで替わって造営長に選ばれたのが阿倍倉梯麻呂という大富豪である。 阿倍倉梯麻呂には娘・小足媛がおり、皇極天皇の弟・軽皇子の妃である。 そして有間皇子をもうけている。

 山背大兄皇子が造営反対の忠告を皇極女帝にしたために、女帝の逆鱗に触れることなり、墓穴を掘り始める。 山背大兄皇子は蘇我系の大王・用明の孫であり、聖徳太子の子であるので、山背大兄皇子を暗殺しようと考える入鹿の案には蝦夷は反対である。 石川麻呂をはじめ、山背大兄皇子に好意を寄せる重臣達が数多くいるからである。 このとき入鹿は皇極大王と通じることによって解決策を見つけようとしていた。

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