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短命の都・恭仁京の解明

2011年11月18日 | 奈良・飛鳥時代

 710年に平城京ができたときの大極殿を第一次大極殿といい、今回復元されたものです。 藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年12月15日)に聖武天皇によって一時期山背国相楽郡の地、現在の京都府木津川市に大極殿は移されており、この都が恭仁京です。 左大臣・橘諸兄の本拠地が相楽郡にあったことが遷都の理由とされており、聖武天皇の放浪の苦悩がこうして始まります。 都は完成しないまま743年に造営は中止され、聖武天皇は紫香楽宮に移ります。 742年頃に離宮を造営してしばしば行幸し場所です。天皇は恭仁京を唐の洛陽に見立て、その洛陽と関係の深い盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたとみられています。 

 ところが744年2月には難波京(726年、聖武天皇が藤原宇合に命じ、難波宮に瓦葺の離宮を造営していた)に遷都が実施されます。 発掘調査によれば、難波宮周辺には正方位に溝が広い範囲で多数検出されており、建物跡も正方位に築かれたものが多い。 また、溝からは多数の土器が出土しており相当数の人間が生活していたことが想定されている。  そして遷都の翌年745年5月に都は平城京に戻された。  因みに、難波宮は大阪城の南に隣接していて現在は快適に遊べる公園になっています。 したがって唐からの遣唐使の船団が大阪湾から淀川を経由して支流・大川を通って難波宮近辺を港にしていたことが伺えます。 745年に都が難波宮から再び平城宮に戻された後も、副都として遣唐使船の港として栄えます。 しかし784年に長岡京遷都が行われたときに廃都となります。 このころの難波宮のことを後期難波宮といいますが、それに対して前期難波宮というのは大化の改新のときに即位した孝徳天皇が政務をとった宮(難波長柄豊崎宮)のことをいい652年に完成します。

わずかに2年間、山背相楽郡の恭仁京に大極殿は移設された

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