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蘇我大郎入鹿 鎌子

2006年09月01日 | 奈良・飛鳥時代

蘇我大郎入鹿

鎌子の陰謀

 飛鳥に花を咲かせた学問文化のなかで鎌子は頭角を現した。 馬子が物部氏を滅ぼした後、神事の中臣氏が僧侶に負けないだけの優秀な人材を探していたとき、常盤の鹿島神宮の宮司の青年が少年時代から神童の誉れを高くしていた。 中臣御食子がこの青年・鎌子を養子に向かいいれたのは僧旻たちが戻ってきた632年のすぐあとであっただろう。

 643年、鎌子は完成まじかの山田にある石川麻呂の館にいた。 蝦夷・入鹿が葛城で王家の証である舞を披露したときには王家に仕える反蘇我系官人に衝撃を与えた。 鎌子は御食子の代理として職務を行っているから板葺宮へいくことも多い。 そこからは蘇我本宗家へ反発する官人の愚痴が聞こえてくる。 鎌子はすでに僧旻の師範代的地位にいたのでその博識は官人の畏敬の的である。 次第に官人は自分達の不満を鎌子に訴えるようになってきた。

  鎌子は不満分子のなかから本当に蘇我本宗家を憎んでいるものを選んだ。佐伯連子麻呂、葛城稚犬養連網田、海犬養連勝麻呂である。 蘇我日向の紹介で石川麻呂と親しくなると山田の館で石川麻呂の子弟に学問を教えたりしている。  鎌子は入鹿が山背大兄皇子を倒し、斑鳩宮を滅ぼしたあとは、蘇我倉山田石川麻呂を標的にするであろうと推測している。 入鹿は次期大王を餌に軽王を味方につけているが、蘇我倉山田石川麻呂には王家の後ろ盾は何もない。 そこで鎌子が持ち出したのは、中大兄皇子を味方に引きこむことであった。 そして蘇我倉山田石川麻呂の姉妹・乳媛と遠智娘を中大兄皇子の妃とすることによって対蘇我本宗家の柱にしようと言うのである。

 鎌子の予想通り、入鹿は斑鳩宮の攻撃し山背大兄皇子を中心とする上宮家を滅ぼす決意を固めていたが、山背大兄皇子の謀反の気配がない。 そこで陰謀により山背大兄皇子に謀反の罪をきせようとした。 陰謀を知らない皇極女帝は山背大兄皇子に腹のうちを聞こうと斑鳩宮に使者を送ろうとする。 なんとしてでも戦をやめさせようというのであるが、入鹿にはその気はなく、 643年の暮れ、飛鳥朝廷軍は畝傍に集結した。 蘇我倉山田石川麻呂には総攻撃の連絡はいれていない。 思いとどまるようにと蝦夷を説得にかかることが予想されるからである。 そして翌日入鹿の連合軍約600は斑鳩宮に襲い掛かったのである。 山背大兄皇子と諸女王はいったん生駒山へ逃げたが、寒さや食料不足から斑鳩寺に戻り、捜索していた軍勢が押し寄せたときには山背大兄皇子、財王、諸女王は首を吊って自決していた。

 皇極女帝が入鹿の子を身篭ったのはこの直後で、 石川麻呂の家臣蘇我田口臣筑紫は鎌子に伝えている。 このとき鎌子は入鹿打倒の時期がやってきたと思った。 そして蘇我倉山田石川麻呂、鎌子、中大兄皇子という勢力が644年結成され、中大兄皇子は蘇我倉山田石川麻呂の次女遠智娘を妃とした。

 皇極女帝は漢皇子を産んだが、入鹿は板葺宮には一向に現れなくなっていた。 まえから寵愛していた葛城の高宮に住まわせている楓のほうへ通っている。 しかも楓が入鹿の子を身篭ったと聞いた皇極女帝は入鹿に対する愛情が憎しみへと変わっていくのである。 鎌子にとってはまさに機は熟したといってよい。

 しばらくして、漢皇子が預けられていた乳人・軽郎女の屋形は火を放たれ、漢皇子は軽郎女とともに死んだ。 入鹿は知らないが、もちろん中大兄皇子、鎌子の仕業である。 これを機会に百済大寺の造営工事を中断し、蘇我本宗家の巨大な屋敷を甘橿丘に建設することとした。 女帝の板葺宮をみおろし、飛鳥寺も東方に見渡せる位置にあり、上の宮門と呼ばせた。 高向臣国押は越前の高向から自分の妻にすべく呼び寄せた海目郎女を入鹿にさしだして以来、入鹿からの信用を得ていたが、漢皇子が殺されたというのに無関心でいる石川麻呂を批判したことで、 入鹿・蝦夷に気に入られ、上の宮門の警備長となっている。 ところがこの国押は石川麻呂と通じており、間者として蘇我本宗家に接近してきたのである。

 一方軽王は漢皇子が殺害されて以降は飛鳥の権力争いに巻き込まれたくない思いで、故郷の茅淳宮に身を潜めた。 漢皇子の殺害犯人について、入鹿には見当もつかない。 見えない敵に翻弄されたかのように上の宮門の警備を強化する。 これは鎌子が当初予想していた以上の効果である。 畝傍の屋形に集まる反蘇我本宗家の群臣達は、入鹿の手にかかるのではないかと怯え、 阿倍倉梯麻呂は河内の阿倍野の屋形に引き篭もって飛鳥には顔をださない。 蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我田口臣筑紫などの蘇我間者を使って畝傍の屋形の様子をしらべさせ、 一方鎌子は中大兄皇子や蘇我倉山田石川麻呂には一切会わずに香具山北方の屋形に籠もり、入鹿を城塞のような甘橿山から呼び出して一人にする方法を思案していた。

 

甘樫山からみた香具山                甘樫山への山道

 そして鎌子は蘇我倉山田石川麻呂を訪れた。 今、入鹿は反蘇我本宗家の群臣を一堂に集めて虐殺しようと考えていると予想し、後に皇帝になり、王家を滅ぼそうと考えていることを話すと、 入鹿の暗殺計画の詳細を語った。 丁度その頃入鹿は「次期大王は葛城皇子」と中堅官人達が論争していると、蘇我田口臣川堀から聞いた。 葛城皇子、つまり中大兄皇子が蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘を妃としたことで、入鹿は二人が組んだな・・・・と思うのである。 このとき入鹿は、蘇我倉山田石川麻呂、中大兄皇子、阿倍倉梯麻呂ら我に反感を持つ者を集めて殲滅を考えていた。 これを察知したスパイの高向臣国押は、入鹿の意向を石川麻呂に伝えた。

 新羅使を迎えての朝貢の儀式は645年6月12日と決まった。 中大兄皇子、鎌子、蘇我倉山田石川麻呂らによる入鹿暗殺実行の日でもある。 朝貢の儀式に関する女帝からの使者として、額田郎女が甘橿丘へ訪れ、入鹿に手紙を渡している。 額田郎女は、手紙を渡すと、香具山、畝傍山、耳成山などの飛鳥を一望し、 是非大王に会いに板葺宮へきていただきたいと頼んだ。 大王は入鹿と会えるのを楽しみにしていると・・・、 鎌子の意を受けた伝達ではあったが、額田郎女は自然に言うことができた。 朝貢の儀式には、なにも入鹿が参列しなくればならないことなはい。 古人大兄皇子が出席しても構わない。 しかし鎌子の暗殺計画を実行するには、入鹿の出席が絶対条件である。 巧妙に額田郎女を利用したのである。

 翌日、蘇我入鹿暗殺は決行された。それが飛鳥中に知れると共に入鹿に反感を抱いている中堅官人が部下を率いて続々と宮に集まってきている。 中大兄皇子は鎌子の指図通りに、かれらを率いて飛鳥寺を固めた。 蘇我氏の氏寺を固めrことにより戦意を削ぐためである。  入鹿の部下・雀により入鹿の屍は甘橿丘に運ばれた。 夕刻から、東漢氏の兵士が集まったが、石川麻呂が無駄な血を流す必要はないと説いたため300名程度である。 石川麻呂に説得された東漢長直阿利麻が動かなかったことが影響している。 本来なら1000人以上の兵士が集まり、戦になっていたかもしれないことを思うと、蘇我倉山田石川麻呂の功績は大きい。 中大兄皇子が布陣した飛鳥寺には1000以上の兵士が集まっている。 甘橿丘の屋形を警護していた高向臣国押は中大兄皇子側の間者である。 蝦夷に降伏すべきであると説き、そして蘇我本宗家の最後と感じた蝦夷は屋形を焼き、自害したのである。 入鹿が寵愛した、楓も生まれたばかりの入鹿との子を刺し、入鹿の死に殉じた。 そして入鹿に最も信頼された雀は、ひとり飛鳥寺に飛び込んでいった。

 中大兄皇子の母・女帝皇極は最後まで入鹿を愛していた。 それだけに、女帝は661年の亡くなるまで、罠にはめられて無念に死んだ入鹿の怨霊から逃れられずに苦しんだことは言うまでもない。日本書紀には錯乱状態になって死亡した女帝の記載がある。

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