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インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
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十字架の奥義

2015年02月06日 22時04分35秒 | メッセージ
【律法よりの解放】
「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ人への手紙3章13節)
律法はモーセによって、与えられ恵みと真理はイエス・キリストによって与えられた、とヨハネは言っていますが、モーセが十戒を神より受けて、イスラエルの人々に示した時以来、ユダヤ人は律法をもつ民族となりました。
彼らは、律法を守ることによって義とされる道を知ったのです。
ユダヤ人より見れば、異邦人と言われている多くの人々は、モーセの律法をもっていないとしても、その内心には良心の律法をもっているのです。善を行う時には賞賛し、不義を行う時には譴責する良心こそ、それはまさに律法なのです。
律法は良いものです。しかし、人を救うことはできません。かえって、律法によって人の罪が明白にされるのです。この律法のもとにある私たちを救うために、主イエス・キリストは十字架にかかられたのです。それは、
第一に律法の要求よりの解放です。
キリストが律法を終らせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。〔ローマ10:4〕
律法は私たちに、その実行を要求してきます。しかし、弱い人間はその律法を破ってしまいました。そして、律法の束縛の中で苦しんでいたのです。しかし、主イエス・キリストが十字架におつきになった時、「律法の終り」(ローマ10:4協会訳)となってくださいました。私たちは、今、律法の要求に苦しむ必要なないのです。あのイエス・キリストの十字架によって律法の要求は終っているからです。
第二に律法ののろいよりの救いです。
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいからあがない出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)
人は律法を破った時、神よりの審判を受けねばならないのです。それはのろいとなるのです。ですから律法は私たちにのろいを招くものともなりました。しかし、主イエス・キリストが十字架にかかられたとき、私たちの身代わりとなって十字架にかかられた時。私たちの身代わりとして死なれたことによって、私たちは、こののろいからも解放されたのです。
第三に、律法の力より解放されたのです。
しかし、私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。(ガラテヤ2:19)
死んだ者には律法の束縛は及ばないのです。キリストが十字架で死なれた時、私たちも、キリストとともに死んだ者として、律法の力より解放されたのです。

本田弘慈著「十字架の奥義」より引用・要約しました。A.O