アメリカ帰国者が日々の出来事・人生・世の中などを語るブログ

日本に帰国して矛盾だと感じたこと、人生における発見や日常のことなど色々語ります

自分がしたことの報いは、必ず自分自身に降りかかる ~第2列王記17章からの考察~

2017年07月13日 | 人間について

この3か月間、列王記を読み続けているが、この17章では、ユダ族と分断され、10部族で構成されているイスラエル国がついにアッシリアの侵略を受け、民がバラバラになってしまうことが書かれている。こうなってしまったのも、そもそもイスラエル人が神と共に歩まず、他国の偶像礼拝を取り入れ、自分勝手な道に歩んでしまった罪の結果によるが、しかし、それでも神は預言者を通してイスラエル人に常に警告してきた。にも関わらず、本来自分を守ってくれる、幸せにしてくれるはずの神から離れてしまい、すっかり異国の習慣に染まってしまったのだ。

しかし、ここで面白いと感じたのは、アッシリアの民がイスラエルのサマリヤに定住した時、神はライオンを送り、そこに住んでいる住民の幾人かを殺害したのだ。この出来事が神によるものだったと分かったのは、本来、神を最もよく知っているはずだったイスラエル人ではなく、皮肉にも侵略してきたアッシリアだったのだ。つまり、イスラエル人の信仰は、このような事さえも分からない程、堕落してしまい、異国の民であるアッシリアの人達の方が良く理解していたことになる。

けれども、この様な現象は今の時代でも多く見られる。本来、主を心から信じ従い、主の栄光を現わさなくてはいけない立場のはずのクリスチャンが、それにふさわしい生き方をせず、むしろノンクリスチャンの方がそれにふさわしい生き方をしている人達を見ることが多い。クリスチャンとノンクリスチャンの違いは、単に、神を知っているか、知らないかだけである。それ以外は私達人間は全て同じ罪人で、全く同じ人間なのである。

よく、クリスチャンには、自分が神から選ばれたという「選民意識」があると聞くが、自分がこんなに立派な人物だから神が選んでくれた、と勘違いし、ノンクリスチャン、もしくはクリスチャンにふさわしい生き方をしていないクリスチャンを見下す人がいる。しかし、聖書では、「義人はいない。一人もいない。(ローマ人の手紙3章10節)」と言っているとおり、クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、正しい人はこの世に誰一人いないのである。

それでは何故、クリスチャンでさえも神に従って生きることが難しいのか?それは、同じローマ人の手紙3章10節に書いてある通り、もともと私達人間は、「悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」からである。私達の人間の大きな特質として、もともと神を求める性質がないからなのである。

本来、キリスト教の信仰というのは、主である神を信じるだけ、という非常にシンプルなものなのだが、私達人間はありとあらゆる理由をつけて、自分達の生活や生き方を問題の多い、複雑なものにしている。例えば、聖書では、「親を敬いなさい」「妻は夫を敬いなさい」という言葉があるが、「こんな自分になったのは親のせいだ」とか、「結婚生活が不幸なのは、夫のせいだ、私は悪くない」という、ありとあらゆる理由・理屈をつけて、この神様の言葉に従えないでいる人達が多くいる。

旧約聖書では、神に逆らってばかりいるイスラエル人に対して、神様は「うなじのこわい民だ」と言っている個所が多く出てくるが、まさに私達人間は全て、「うなじのこわい民」で、神様から見たらどうしようもない人間なのである。

このイスラエル国への侵略の話からも分かるように、自分がしたことの行いは、かならず自分自身の身に降りかかってくる。しかし、この第2列王記17章39章に、

「あなたがたの神、主だけを恐れなければならない。(そうすれば)主は全ての敵からあなたがたを救い出される。」(カッコ内は筆者追記)

と、書かれているように、全て私達の人生を複雑にしているもの、誘惑、上司・友人・配偶者の悪口、怠惰、プライド、妬み、怒り、嫉妬、など、様々な”敵”がいるが、神様を常に追い求め、聖書を読んでその言葉を忠実に実行するなら、それらの敵から神様が私達を救い出して下さるということなのである。

神に従っていくのが難しいと感じるのは、私も同じだが、そういう時は、喜んで従えるように日々お祈りをする、もしくは周りの人達に頼んで祈ってもらうようにするのが一番良いのではないかと思う。


「目には目を。歯には歯を。」の誤解 ~レビ記24章から~

2016年10月25日 | 人間について
レビ記は旧約聖書に書かれている、「創世記」「出エジプト記」に次いで3番目の書物であり、”モーセ五書”の一書に属するものと言われている。「レビ記」は、主に祭司に関する規定、そしてイスラエル人の民に関する規定で成り立っているが、この中の24章20節は、私達日本人も聞いたことがある言葉が書かれている。

「骨折には骨折。目には目。歯には歯。」

この言葉は、「目には目を。歯には歯を。」と書かれているハンムラビ法典から知る人も多いのではないかと思うが、この言葉はそもそも聖書から来ているものと思われる。

私は歴史学者でもないので、正確なことは言えないが、ハンムラビ法典が書かれたのは紀元前18世紀だということは分かっている。しかし、旧約聖書のレビ記がいつ、誰によって書かれたかについては諸説があり、はっきりしたことが分かっていない。しかし、分かっているのは、モーセがイスラエル人を率いてエジプトを脱出した時期を考えると、神様がモーセにレビ記に記載されているこれらの言葉を語られたのは、紀元前2000年くらいという説が有力であり、それを考えると、ハンムラビ法典が出る200年前には、既にこの言葉が神によって出たことが分かる。

この言葉を、多くの人は「やったらやり返せ」と解釈していると思うが、それはハンムラビ法典の影響からであろうと思われる。また、日本語訳の聖書を見ても、どうしてもその様にしか解釈できない。これは、日本語の誤訳であろうと思われるが、では英語ではどのように記載されているのだろうか。

”If anyone injures his neighbor, whatever he has done must be done to him: fracture for fracture, eye for eye, tooth for tooth."

完結した文章を記載する為、19節からの引用になっているが、アンダーラインの赤字で記載されている"he" "him"は、すぐ前の文節の、"anyone"を指している。つまり危害を与えた人であり、危害を加えられた人ではない。つまり、害を与えた人自身が、自分の目で持って、又は自分の歯で持って、相手に償いをしなさい、と言っているのである。悪いことをした人は、その張本人が、それと同程度の償いをしなさい、という意味なのである。


つまり、神様は「やったらやり返せ」とは一言も言っておらず、またあくまでも同程度の償いをしなさい、と言っていることから、それ以上の刑罰をしてはいけないのである。従って、3年前の「半沢直樹」のドラマで流行った「やられたらやり返す、倍返しだ」は、人として間違っていることなのである。この様な、人間のモラルを低下させるような言葉や言動をドラマで出して欲しくないのだが、この様な現象は、今、世界各国で蔓延しているのではないかと感じている。




モーセの十戒「殺してはならない」は、全ての殺人に当てはまるのではない~出エジプト記20章から

2016年08月09日 | 人間について
よく、キリスト教では「人を殺してはならない」と教えられているのに、昔の十字軍やイスラエルの様に何故人殺しをするのか?ということを良く聞く。私もこれまで、日本やアメリカの教会のあちこちで礼拝に参加していたが、これに関して、はっきり説明してくれる牧師にお目にかかったことがなかった。中には、どんな場合でも、戦争においても人を殺してはいけない、と教える人も多く、特に日本人クリスチャンの多くは、「戦争は何が何でも絶対にダメ!」と信じている人も多い。

この「人を殺してはならない」という個所は、旧約聖書の出エジプト記20章13節に記載されているが、英語では"murder"と翻訳されており、これは明らかに不法に人を殺害したこと指す。また、聖書の原文のヘブル語では、「ラツァック」という言葉が使われ、これは人が故意に、又は計画的に、不法に人を殺害した場合だけを指している。

つまり、自分の身を守ろうとする正当防衛や、他国からの攻撃に対して自国を守るための反撃、また殺人を犯した罪による死刑は、これらに該当しないのだ。

もちろん、戦争や死刑制度などは神様が望むはずはないのだが、人間に罪がある以上、悪がはびこることは避けられず、この世に悪が増殖するのを防ぐための抑止力として神様が用いられることがある。人類全ての人達が、人々の罪を贖うためにイエスを遣わした神様を信じればこのようなことをする必要は全くなかったのだが、アダムとイブが罪を犯してしまったために、私達人間は神様なくして生きることに慣れてしまい、自分勝手に生きるようになった結果、今のような、どこへ行っても殺人やテロが多く100%安全な場所はない、混沌とした時代になってしまったのだ。

もうすぐ日本は終戦71年目を迎えるが、日本は今、中国と北朝鮮の脅威にさらされている。世界で唯一の被爆国である日本としては、核を決して保有してもらいたくないのだが、もし北朝鮮からのミサイルが日本に墜落した、もしくは中国から攻撃された場合、日本は一体、どうやって自分の国を守らなくてはいけないのだろうか?

残念ながら、そのことを真剣に考えなくてはいけない時代に入ってしまっている。アメリカの大統領選の行方が気になるが、いざ、日本と中国が戦争になった場合、どちらの大統領になっても、アメリカは助けてくれないだろう。ある情報によると、ヒラリー・クリントン氏は、長年、中国から金銭的支援を受けており、陰で深い関係にあると言われている。一方でトランプ氏は、朝鮮半島で戦争が起こっても米軍は手を出さない、とはっきり言っている。つまり、どちらが大統領になっても、日本はやはり、自分達で国を守るしかないのだ。

先日、第3次安倍内閣の大臣が発表されたが、その中で、極右のタカ派と言われる稲田朋美氏が防衛大臣に起用された。これを聞いた時、なんとなく虫唾が走り、嫌な予感がしたが、これもきっと現在の中国や朝鮮半島での情勢を踏まえて、敢えて彼女を起用したと考えられる。

全ての国や他の権威は、神によっておかれたものであり、たとえそれらの人達が神様を知らない人達でも、全てのことは、神によって働かれていることを常に覚えておく必要がある。それが、たとえ間違った方向にいっても、悪がさらにはびこっても、神様がそれをしばらくお許しになることもある。しかし、地球最後の日、神がこの世に再臨する時は、全ての悪が打ち砕かれ、勝利するのである。

神を信じる人は、この世に希望を置いているのではなく、神に希望をおいているので、世界がどんな状況に陥っても希望がある。また、神といつもつながっていれば、この困難の多い世の中においてどう生きていけばよいか、何をするべきかを知ることができるので、たとえそれが辛くても決して失望することはない。

希望はこの世ではなく、キリストにある、と新約聖書でイエス様がおっしゃっていたが、その希望は、この世が与える希望とは違う、とはっきり聖書では述べている。今のこの混乱の多い世の中で不安を感じる人は、まず聖書を読んで頂きたいと思う。

志半ばにして道を絶たれる神

2016年07月14日 | 人間について
今朝、旧約聖書の出エジプト記4章を読んで、また新たな疑問が湧いてきた。

聖書はもう何年も読んでいるのに、読むたびにこれまで気にもかけなかった疑問が次から次へと出てくるのは何故なのかといつも思うのだが、その度に新たな見解や発見があるのはとても面白い。

今日の疑問はこれだ。モーセは自分の同胞、へブル人、つまりイスラエル人をエジプトから救い出す為に神からの大仕事を与えられ、彼は拒否反応を示しながらもエジプトに返ろうとしていた時、出エジプト記4章24節で突然、主はモーセを殺そうとされた、と記載されている。

聖書は前後の文章の流れに関係なく、突然、唐突な文章が出てくることが多い。何故そんなことになったのか、聖書ではわざわざ細かくその理由が書かれていることが非常に少ないので、聖書が私達にとって難解なものになっている原因となっている。この場合、聖書が書かれた歴史的背景や、聖書の中にある言葉を手掛かりに解読し、かつ、祈りによって神から与えられるインスピレーションが大事になってくるのであるが、人によって解釈が違うことが多い。何故なら、神様は人によって語りかけてくることが違うからである。

私はこの理由を、早速インターネットで調べてみた。すると、その理由はモーセの息子に割礼(男性の性器の包皮を切り取ること。創世記17章10節で、神は既にアブラハムを通して男子全員に施すよう命じている。旧約の時代は、神の命令は絶対で不従順は死を意味する。)をまだ施していなかったから、という、どれも同じ理由ばかりが書かれており、他の視点からの見解が見つからなかった。

確かに、それも理由の一つなのであろうが、不可解なのは、その前に神様はモーセに対してエジプトへ行って同胞を救え、と命じているのだ。その前から神は既にモーセの息子に割礼が施されていないことは知っていたはずである。既にこの様な比較的小さなことに対しても不従順であったモーセに対して、何故このような大仕事を命じたのか?小さな命令にも従えないのに、何故、大きな命令をいきなりモーセに下したのか?また、最初から彼を殺すつもりだったのであれば、そもそも何故、このような任務を与えたのか??これに関する解説や回答は、残念ながらどのサイトを探しても見当たらなかった。

しかし、祈ってみたところ、ある見解が与えられた。それは、神はこの世の理屈とは全く相反している、ということである。この世の世界では、例えば会社の仕事において、小さな仕事もきちんとできないのに、大きな仕事を任せられるわけではない。小さな約束も果たせないのに、大きな約束など果たせるわけがないのである。ところが、神の見解は全く相反しているのである。

聖書で書かれている通り、私達人間は罪を背負って生まれる。そしてその罪は、十字架にかかったイエス様を信じない限り、永遠に帳消しにはされないのである。また、イエス様を信じたからと言って私達の罪が突然なくなるわけではない。肉体がある以上、罪を抱えて生きているわけであり、その罪と葛藤しながら、神様と共に歩むのである。

イエス様を信じている者でさえ、日々、自分達が気づかない所で多くの罪を犯していることがある。その罪が大きいか小さいか、は神様にとって関係なく、大小に関わらず、罪は罪なのである。その観点から考えると、神様がモーセにあのような(この世的な観点から見て)大きな命令をいきなり下したのは不思議ではない。そして割礼が施されていなかったという(この世的な観点から見て)比較的小さな罪が後からやってきて、命取りになるということもあり得ることなのである。

つまり、神様の御心が示されていても、その道半ばでも突然、志が絶たれることはありうるということなのである。よく、道半ばで亡くなる方もいるが、これは罪の結果、死に至ることもあり、私たちは日々、本当に神を畏れて生きる必要がある。勿論、全てにこの理由が当てはまるわけではない。全く別の理由で神様がその人を突然召されることもある。私達の命は神様のものであり、神様が良かれと思えば私たちの命は明日にでも失われることがある。

モーセは幸い、殺されることを免れたが、死というのはこの様に突然やって来ることがある。5年間に起こった東北大震災などが良い例であろう。いつでも神様に召されてよいように、私たちは毎日神を仰ぎ見、悔いのないように生きていく必要があると感じている。


芸能人の不倫問題から感じる世の中の不条理さ

2016年06月12日 | 人間について
最近、芸能界では不倫問題が次から次へと発覚され、子供の教育上、はなはだよろしくない報道が後を絶たないと感じている。

ベッキーの不倫問題から始まり、ファンキー加藤、そして落語家の円楽、と後を絶たないが、芸能人に限らず、政治家、経営者、そして一般人も入れると、一体、不倫している人は日本だけでも何人いるのだろうか?

それにしても、ベッキーさんの不倫にはあれだけマスコミから叩かれていたにも関わらず、円楽さんは何故そのような扱いにならないのだろう?、と疑問に感じている人もいるのではないかと思う。不倫の程度の問題、とか、円楽さんは潔く不倫を認めた、とか言っているのがあるが、どちらも、一方が結婚している相手との不倫であり、また、ベッキーも記者会見では不倫をちゃんと認めたのではないのか?にもかかわらず、ベッキーさんへはあれだけ攻撃をし、円楽さんに対しては笑いで済ませる、なんていうことを子供が見たら、どう感じるのであろうか?

これを考えると、人間の判断というものは、とてもいい加減で曖昧なものであるということを痛感せざるを得ない。

先日、ある番組でパワハラについて、若い男性のサラリーマンが、仕事中にスマホで遊んでいたことが原因で解雇されたことが報道されていた。それに対してその男性は、「他の人もスマホで遊んでいるのに、何故、俺だけなんでしょう。」と発言。この方は、上司からずっとパワハラを受けていたそうなのだが、おそらく気に入られなかったのだろう。スマホで遊んでいるのを発覚したことを契機に、解雇に追い込んだものと思われる。

もし、この男性の言うことが正しいのであれば、解雇された男性は不条理さを感じ、自分はパワハラで解雇されたのだと思っても仕方ないであろう。けれども、この男性の発言のおかしいところは、「他の人もやっているんだから、自分もやっていい」と、心のどこかで思っていることである。原則、業務中は遊んではいけないのである。会社のパソコンでの私用メールはもちろん、パソコンやスマホを使ってゲームやインターネットサーフィンなどはやってはならず、それが原因で、解雇になっても文句は言えないのである。

けれども、この男性の言う通り、他の社員もスマホで遊んでいるにも関わらず、彼だけが解雇されて、他の人が解雇されなかったのは何故なのか?様々な要因が考えられるし、人それぞれの見方によって様々な見解があるだろうと思われる。そこが人間の弱いところでもあり、曖昧さなのである。人間の判断は絶対的に正しいものではないし、同じ人でも時間が経つと意見が変わったりもする。

何故、ベッキーさんがあれだけ叩かれたのか?単に女性だから、又は以前からマスコミ受けがあまり良くない、などの要因があるかもしれないが、人が何かを判断しようとするとき、その様な自分の感情や主観、私情を本来は挟んではいけないはずである。にもかかわらず、私達はどうしても自分達のメガネで人を判断しようとする。人間とは、そういう不確定かつ曖昧な、とても弱い生き物なのである。

しかし、神様はそういう見方を決してしない。浮気の程度の差は、神様にとって全く関係ない。勤務中でスマホで遊んでいて運よく解雇されなかったとしても、同じ罪として神様は見ており、それを覚えているのである。

浮気について、聖書では姦淫としてはっきり罪である、と述べており、不倫をする人達をこの様に述べている。(箴言5章3~6節 リビングバイブルより)

売春婦は甘いことばと調子のいいお世辞が売り物です。

それにのせられると、あとで苦しまなければなりません。
鋭(するど)い剣で突き刺されたように、良心がずきずき痛むのです。

苦しみもがけばもがくほど、ずるずる地獄の底へ引きずり込まれます。

彼女は自分でも正しく生きる道を知りません。
迷路(めいろ)を、行き先も知らずによろよろ歩いているだけです。


ここでは、「売春婦」という言葉が使われているが、男性・女性に関わらず、複数の相手と関係を持つ人は姦淫を犯すことになり、大変罪深いものとして聖書では述べている。

人間は、誰一人として100%正しく生きることができない生き物。故に、神様からの導きが常に必要なのではないでしょうか。イエス様を救い主として受け入れる人は、これまでの罪が許されるだけでなく、永遠の命が与えられると約束しています。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5:24)


この世で生きている限り、世の中の不公正さ、不条理さを感じざるを得ないが、これは人間の不完全さ故なのだと改めて感じる。