日本中ばかりか、世界でも騒がれた、北海道の山林で親から置き去りにされた7歳の男の子が無事、発見されたが、親のしつけのあり方について、テレビやインターネットなどで賛否両論が沢山出ていた。
テレビの報道や、ネットの情報を見ていると、親のしつけの行き過ぎが問題視されているようだが、よく見ると、そもそもこの子供が置き去りになってしまったのは、人や車に対して石を投げていたとのことで、これは行為自体、とんでもない行為である。下手すると相手の目などに当たって大怪我をする可能性だってある。7歳の子供だったら、父親から厳しく言われれば大抵の子供はすぐに止めると思うのだが、この子供は相当に言うことを聞かん子だったように思われる。
また、車からは2度も降ろされており、最初に降ろされた後は、その子は泣きながら車を追っかけたというではないか。本来なら、子供はここで懲りるはずなのだが、また降ろされてしまった、ということは、それでも懲りず、親の言うことを全く聞かなかったのが原因だったとしか思えない。この子は相当に言うこと聞かん子、頑固者、という印象を受けた。
子供は、残念ながら中には、非常に頑固で、小さいのになかなか言うことを聞かないツワモノがいることは事実なのである。これは小学校に上がる前に、やっておくべきしつけを厳しくやらなかったり、親が甘やかしてしまったりするケースに非常に多いのだが、こうなってしまった子供は、小学校に上がった後では、非常にしつけが難しくなる。なので、自業自得とはいえ、その親がキレてしまい、とんでもない行動につい出てしまったのは、何となく分かるような気がする。本当に言うことを聞かない子供は、大人でもイライラしてしまうものなのだから。
子育てに関しては様々な議論があり、また、情報や養育書が溢れるほどにあるが、聖書では非常に単純明快に書かれている。新約聖書のエペソ6章1~4節の、たった4節の言葉に凝縮されている。
”子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。
すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。
父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。 ”
「父と母を敬え」、これが最も基本的なしつけであると聖書では述べている。つまり、親は最初から子供達が親を敬うように育てないといけないのです。戦後から、だんだん「友達親子」のような親子が増え、結果、基本的なしつけもちゃんとできない親が多くなったが、親と子供の関係は、あくまで親子の関係であって、友達ではない。物わかりの良い親、というと聞こえが良いが、これはあくまで子供を尊重して一人の人間として扱う範囲のことであり、何でもかんでも子供の要求を聞くことではない。尊敬、というのは、親という立場を尊敬することであり、それは子供が小さい時から親が子供を尊敬するように教えないといけないのである。ある程度大きくなってから、では遅いのである。
小さい時から親を敬うように育てられた子供は、親の言うことをよく聞くし、結果、外にでても学校の先生や習い事の先生などの言うこともよく聞くようになる。そのような子供は、「しあわせになり、地上で長生きする」と、神様は約束している。
敬うということは、親と子のある一定の距離、ラインを保つ必要があることを意味しており、親がむやみに子供の領域に土足で入って踏みにじってはいけないのである。これは、子供への虐待も含むが、親に対して、「子どもをおこらせてはいけません。」と警告しているのは、そういうことなのである。
今回のこの事件で、アメリカのAP通信では、「日本の文化として、子どもの個人の権利を尊重するより、子どもは家族の所有物だという認識が強い」と指摘されているが、私が思うに、この男の子が親の言うことをなかなか聞かなくなった原因として、無意識のうちにご両親が子供を自分の思うようにコントロールしようとしていたかもしれないことは十分考えられる。
子供は、親がコントロールしようとすればするほど、ますます反発するだけなのである。聖書の考え方では、子供は神様から一時的に親に授けられたものであり、あくまで一人の独立した人間であって、親の所有物ではないのである。従って、自分が望む通りではなく、神様が望む通りに育てることが大事なのである。
日本では、そのようなキリスト教的な考えが浸透していないが為に、子ども個人の権利を尊重する、という考え方がなかなか理解できないと思うのだが、子育ては不可解な部分があまりに多く、また親自身も不完全な人間である為、全知全能である神様から知恵をもらい、神様に従って育てることが鍵となってくるのである。
聖書には、旧約聖書も含め、人としての在り方や、子育てに関するヒントが沢山書かれているので、興味のある方は是非読んで頂きたい。
今日は創世記6章について述べたいと思う。聖書は、何度読んでも、その度に違う発見があり、この様な書物は聖書以外では見当たらないのだが、それはやはり、聖書は神様の言葉だからであろう。
昨年、日本の有名なジャーナリストである池上彰氏が、あるテレビ番組で聖書は世界のベストセラーである、と紹介されていた。彼が実際、クリスチャンであるのかどうかは分からないが、聖書とは何なのかを分かりやすく説明している。先日、こちらのブログで述べたアダムとイブについても述べられているので、ご興味のある方は下記を是非御覧頂きたい。
池上彰の「聖書とはなにか。その歴史と現在」
この中で、池上氏は、聖書は欧米諸国の常識となっている、また、後半では世界情勢が聖書によって渦巻いており、現代社会においても影響を及ぼしていることを説明している。しかし、聖書は欧米諸国だけでなく、実はこの日本にも様々な影響を及ぼしている。これは日本人の間であまり知られていないが、親鸞によって始められた浄土真宗は、実はキリスト教をベースとしている。親鸞は、キリスト教を学んでいたことが分かっており、聖書を読んで、これは良い!と思った親鸞は、聖書をベースに別の宗教を作ったのである。
また、世界にある憲法も、聖書をベースにしたものが多い。また、世界情勢が聖書を中心に、現代社会まで影響を及ぼしていることを考えると、やはり聖書が本物だからであろうと思わざるを得ない。聖書が何故、何千年も、ここまで騒がれ、それによって多くの戦争や争い、虐殺までが起こるのだろうか?それは、やはり本物だからであろう。人間、本物であるかどうか分からない、「なまぬるい」ものについては、ここまで騒がないし、騒いだとしても、一過性のもので終わってしまう。
さて、前置きが長くなってしまったが、今日、創世記6章3節を読んで、ふと疑問に思った。神様は、地上に人による悪がはびこるのを見て、次のように述べている個所である。
「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、120年にしよう」
これは、かの有名なノアの箱舟が作られる前の話であるが、しかし、ノアが箱舟を完成して、洪水が終わった後の人の寿命が即、120年になったわけではない。そこで、調べてみたら、2つの解釈があることが分かった。
①文字通り、人の寿命を表しており、寿命を120年とした
②神様が、洪水によってノアの家族以外の全人類を滅ぼすと宣言してから、実際に洪水が起こるまでの年
海外の文献も含め、インターネットで色々検索すると、①が正しい、いやそうではなくて①は間違っていて②が正しい、と記載されているのが多かったが、これは神様に聞かないと分からないので、どちらが正しいのか、決めつけるのは非常に危険であると思う。私は、どちらの解釈があっても良いと思う。
何故なら、①の場合は、洪水の後、確かに人の寿命はすぐに120歳に縮まったわけではない。しかし、創世記11章10節以降を見るを、ノアの息子の一人、セム以降の子孫の寿命がだんだん短くなっているのが分かる。その後に出てくるモーセは、120歳で亡くなっている。
②の場合、ノアに3人の息子が生まれてから箱舟を作り始めたと考えられるので、これが正しいと仮定すると、5章32節に記載されているように、箱舟を作り始めたのは彼が500歳の時、そして洪水が来たのが600歳だと記載されているので、箱舟の制作期間が100年になり、120年には満たない。これを考えると、②の可能性が低いと考える聖書学者がいるが、しかし、人の年齢も皆、きっちり120歳になっているわけではない。実際、モーセの兄、アロンの寿命は123歳で120歳を超えている。
しかし、いずれにせよ、神様は宣言してから事をすぐに起こされる方ではない。この世の終わりは、既にイエス・キリストによって宣言されているが、旧約聖書の時代でも、預言者ダニエルによっても宣言されており、あれから随分時が経っているように見えるが、実際に、今の世の中は既に終末の時代に入っており、この世の滅亡がいつ何時に来てもおかしくないのである。
ノアは箱舟を作るのに100年かかったが、神様だったら、ノアにもっと知恵を与えて箱舟を3年で作ることだって可能だったはずである。しかし、100年もかかったということは、ある意味、ノアの家族以外の人類が悔い改め、神に立ち返ることを期待していたからではなかろうか?しかし、その神様の恩恵を無視して、人々は100年経っても神に立ち返ろうとはしなかった。
ここに、人間の頑なさを見ることができるが、神様を知らない人間は皆、こうなのだということを聖書が示しているように思う。神様を信じる前の私もそうであったが、しかし、神様を信じているからといって、自分の頑なさが全部消えたわけではない。聖書から正しいことを学んでも、古い自分がまだ残っており、その古い考えがなかなか捨てられず、現実と神様の言葉の狭間で苦しむこともある。人間は肉として生きている以上、全ての人が罪を背負っているのであり、それはクリスチャンも同じなのである。
この世の終わりが預言されてからすぐに事が起こらないのは、それは一人でも多くの人達が神に立ち返るように、悔い改める為に神様が与えている期間であり、これが当たり前の様に、しかもずっと続くと考えてはいけない。また、この世の終わりが来る前に、私たちの命が突然、奪われることもある。その日が来る前に、死というもの、また、自分は一体何に向かって生きているのかを真剣に考えないと、その時が来た時に後悔することになるのではなかろうか?
昨年、日本の有名なジャーナリストである池上彰氏が、あるテレビ番組で聖書は世界のベストセラーである、と紹介されていた。彼が実際、クリスチャンであるのかどうかは分からないが、聖書とは何なのかを分かりやすく説明している。先日、こちらのブログで述べたアダムとイブについても述べられているので、ご興味のある方は下記を是非御覧頂きたい。
池上彰の「聖書とはなにか。その歴史と現在」
この中で、池上氏は、聖書は欧米諸国の常識となっている、また、後半では世界情勢が聖書によって渦巻いており、現代社会においても影響を及ぼしていることを説明している。しかし、聖書は欧米諸国だけでなく、実はこの日本にも様々な影響を及ぼしている。これは日本人の間であまり知られていないが、親鸞によって始められた浄土真宗は、実はキリスト教をベースとしている。親鸞は、キリスト教を学んでいたことが分かっており、聖書を読んで、これは良い!と思った親鸞は、聖書をベースに別の宗教を作ったのである。
また、世界にある憲法も、聖書をベースにしたものが多い。また、世界情勢が聖書を中心に、現代社会まで影響を及ぼしていることを考えると、やはり聖書が本物だからであろうと思わざるを得ない。聖書が何故、何千年も、ここまで騒がれ、それによって多くの戦争や争い、虐殺までが起こるのだろうか?それは、やはり本物だからであろう。人間、本物であるかどうか分からない、「なまぬるい」ものについては、ここまで騒がないし、騒いだとしても、一過性のもので終わってしまう。
さて、前置きが長くなってしまったが、今日、創世記6章3節を読んで、ふと疑問に思った。神様は、地上に人による悪がはびこるのを見て、次のように述べている個所である。
「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、120年にしよう」
これは、かの有名なノアの箱舟が作られる前の話であるが、しかし、ノアが箱舟を完成して、洪水が終わった後の人の寿命が即、120年になったわけではない。そこで、調べてみたら、2つの解釈があることが分かった。
①文字通り、人の寿命を表しており、寿命を120年とした
②神様が、洪水によってノアの家族以外の全人類を滅ぼすと宣言してから、実際に洪水が起こるまでの年
海外の文献も含め、インターネットで色々検索すると、①が正しい、いやそうではなくて①は間違っていて②が正しい、と記載されているのが多かったが、これは神様に聞かないと分からないので、どちらが正しいのか、決めつけるのは非常に危険であると思う。私は、どちらの解釈があっても良いと思う。
何故なら、①の場合は、洪水の後、確かに人の寿命はすぐに120歳に縮まったわけではない。しかし、創世記11章10節以降を見るを、ノアの息子の一人、セム以降の子孫の寿命がだんだん短くなっているのが分かる。その後に出てくるモーセは、120歳で亡くなっている。
②の場合、ノアに3人の息子が生まれてから箱舟を作り始めたと考えられるので、これが正しいと仮定すると、5章32節に記載されているように、箱舟を作り始めたのは彼が500歳の時、そして洪水が来たのが600歳だと記載されているので、箱舟の制作期間が100年になり、120年には満たない。これを考えると、②の可能性が低いと考える聖書学者がいるが、しかし、人の年齢も皆、きっちり120歳になっているわけではない。実際、モーセの兄、アロンの寿命は123歳で120歳を超えている。
しかし、いずれにせよ、神様は宣言してから事をすぐに起こされる方ではない。この世の終わりは、既にイエス・キリストによって宣言されているが、旧約聖書の時代でも、預言者ダニエルによっても宣言されており、あれから随分時が経っているように見えるが、実際に、今の世の中は既に終末の時代に入っており、この世の滅亡がいつ何時に来てもおかしくないのである。
ノアは箱舟を作るのに100年かかったが、神様だったら、ノアにもっと知恵を与えて箱舟を3年で作ることだって可能だったはずである。しかし、100年もかかったということは、ある意味、ノアの家族以外の人類が悔い改め、神に立ち返ることを期待していたからではなかろうか?しかし、その神様の恩恵を無視して、人々は100年経っても神に立ち返ろうとはしなかった。
ここに、人間の頑なさを見ることができるが、神様を知らない人間は皆、こうなのだということを聖書が示しているように思う。神様を信じる前の私もそうであったが、しかし、神様を信じているからといって、自分の頑なさが全部消えたわけではない。聖書から正しいことを学んでも、古い自分がまだ残っており、その古い考えがなかなか捨てられず、現実と神様の言葉の狭間で苦しむこともある。人間は肉として生きている以上、全ての人が罪を背負っているのであり、それはクリスチャンも同じなのである。
この世の終わりが預言されてからすぐに事が起こらないのは、それは一人でも多くの人達が神に立ち返るように、悔い改める為に神様が与えている期間であり、これが当たり前の様に、しかもずっと続くと考えてはいけない。また、この世の終わりが来る前に、私たちの命が突然、奪われることもある。その日が来る前に、死というもの、また、自分は一体何に向かって生きているのかを真剣に考えないと、その時が来た時に後悔することになるのではなかろうか?
このブログをしばらく休んでいましたが、この度、新しいタイトルに変更し、日々聖書を読む中で気づいたことを書いていこうと思います。私も人間なので、間違った見方や解釈があるかもしれませんが、その際はご意見・ご指摘頂けますと幸いです。(念のため、これはエホバの証人(ものみの塔)・モルモン教・統一教会とは、全く関係ありません。)
さて、今朝、旧約聖書の「創世記」の3章を読みましたが、これまで湧いてこなかった疑問が湧いてきました。それは、何故、蛇がアダムではなく、女性のイブに、禁断の実を食べるようにそそのかしたのか?でした。
この蛇は、新約聖書の黙示録12章9節に記載されていますが、悪魔だということが分かっています。つまり、悪魔がこの蛇に入り、神様が創造されたアダムとイブを神様から引き離そうと試みます。悪魔の目的は、人間を神様から引き離すことであり、彼の目的はアダムとイブ、共に神様から引き離すことでした。
では、何故、この蛇はアダムとイブ2人に対して同時にそそのかさなかったのか?また、何故アダムではなく、イブにターゲットを置き、彼女をそそのかそうとしたのか?
悪魔は元々は神に仕える天使でしたが、堕落してしまったために、神から離れてしまった者です。従って、他の天使達と同じような能力を持っている為、どのようにしたらこの2人をそそのかすことができるのか、よく知っていました。悪魔とは言え、神様から創られた者ですから、相当に知恵があり、悪賢く、人を欺くのに長けています。2人の性質を良く知っていたこの蛇(悪魔)は、2人同時にアプローチ、又はアダムだけに直接アプローチする方法ではなく、イブにアプローチする方法を取りました。
では何故、イブがターゲットにされたのか?創世記の2章から読んで見ると想像できますが、神様はまず、アダムを創造しました。そして、神様はアダムに対して直接、善悪の知識の木からは取って食べてはならない、と言っています。つまり、アダムは神様を直接見ており、神の声を直接聞いていました。
一方でイブは、アダムのあばら骨を取って、後から創造されました。神様が直接、イブに対してその木を食べてはならない、と言っている個所がないため、彼女はアダムから聞いて食べてはならないと聞いていたことが想像できます。つまり、イブは、神様の言葉をアダムを通して間接的に聞いていた、つまり、また聞きをしていたということになります。
このような状態になった時、勘の良い方は既にお察しかと思いますが、また聞きの場合、その情報が100%正確に伝わることはあまりありません。特に女性の傾向として、男性と比べるとうわさ話やゴシップ好きが多いことを考えると(全ての女性に当てはまるわけではありませんが)、理解できるかと思います。うわさ好き、おしゃべり好きのおばちゃん、は良く聞きますが、うわさ好きのおじさん、はあまり聞かないですよね?
その証拠に、創世記3章3節でイブは次のように蛇に言っています。「しかし、園の中央にある木の実について、神は『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない』...と仰せになりました。」
しかし、創世記2章を見ると、神様が「それに触れてはいけない」とは一切、言っていません。これは、イブによる明らかな誇張なのです。イブが勝手に付け加えてしまいました。蛇にそそのかされた彼女は、きっと不安になって、神様が言ってもいないことを、あたかも神様が言ったかの様に、自分で付け加えてしまったのでしょう。非常に計算高いその蛇は、イブがそのような状態になることを予め分かっていたため、彼女の弱みに上手く入りこむことができたわけです。
これは私達人間にもよくあることです。特に自分が何かに、誰かに対して不満を持っていたり、また、職場で自分では難しいと思われる仕事をやるように言われたり、何か困難に遭った時などは、私たちはありとあらゆる理由をつけて、本来の事実とはかけ離れたことを言って、言い訳をしようとしたりします。特に人間関係、夫婦関係や職場の人間関係、家族関係に問題を抱えている人達は、まるで自分が全て正しく、相手が全て悪い、という話方をされる人達を多くみかけます。
その性質が既に、アダムとイブから現れています。神から、あの木の実を食べたのか、と問いただされた時、アダムはイブがそそのかしたと言い、その責任を彼女になすりつけました。また、イブは蛇がそそのかしたと言い、その責任を蛇になすりつけています。ここに、既に人間の原罪(神様から離れ、自分勝手に生きること)が始まりました。
この世的な観点から見ると、悪をそそのかした蛇が最も罪が重いでしょう。そして、蛇にそそのかされたとはいえ、それに応じたのはイブです。聖書を読む限り、蛇が無理矢理、イブに禁断の実を食べるように無理強いしたわけではありません。「食べない」という選択もあったわけです。けれども、イブは蛇の言葉に揺り動かされ、自分の意志でその木の実を取って食べ、更にそれだけでなく、アダムにもそれを勧めたので、彼女の罪は蛇の次に重いと判断されるでしょう。そして、イブの勧めに応じてしまったアダムも、結局は自分の意志で食べてしまったので、彼も罪に定められました。これを見ると、一般的に男性は女性の誘惑に負けやすい、というのはここから発生していることが分かります。
人間的観点から罪の大小はあるとはいえ、神から見れば、罪の大きい小さいは関係ないので、それぞれに罰を下されました。私たちが生きている間に受けなければいけない罰です。女性には産みの苦しみを、男性には生涯、額に汗を流して糧を得るという労働を課し、そして2人共に下された最も重い刑が、死でした。
ここでふと思ったのが、世界的に見ても、男性よりも女性クリスチャンの方が多いのは(特に日本では残念ながら未だ女性が圧倒的に多いですが)、イブが蛇(悪魔)に直接そそのかされた分、女性は意識的、無意識であれ、その罪の重さ、自分の弱さをより自覚しているからではないだろうかと思うのです。その罪深さ故、神様は女性に多くの恵を与え、多くの女性達が救われたのではないでしょうか。
一方、アダムは、木の実を食べてしまったのその罪はもちろん、大きいですが、蛇(悪魔)から直接そそのかされたわけではないので、罪の意識がイブ程ではなかったのではないかと思います。男性は女性に比べてプライドが高いと言われがちなのは、この様な所から来ているのではないかと推測されますが、プライドが高いと、なかなかありのままの自分を見つめたり、自分の弱さを認めることが難しいので、結果、神様の言葉がなかなか受け入れ難くなります。女性よりも男性のクリスチャンが少ないのは、このような理由なのではないかという気がします。しかし、アダムは直接神様を見て、神様の言葉を聞いているわけですから、男性が一旦、神様を信じるようになれば、素晴らしいクリスチャンになれるような気がします。(実際、世界の有名なクリスチャンリーダーを見ていると、女性よりも男性の数の方が圧倒的に多いです。しかしこれは、女性が男性よりも劣った者であるということを言っているわけではありません。女性でも素晴らしいクリスチャンリーダーは数多くいます。聖書では、男性も女性も同等の人間として扱われています。)
しかし、中には、理性的で合理的に考える女性や、男性でも自分の弱さを認めることができる方もいらっしゃるので、一概にこうである、とは言い切れません。しかし、男女の傾向として、創世記からこの様な事実があると知ることは、自分自身を深く理解すると共に、男性や女性ご、夫や妻を理解する上で大切なのではないかと思います。
これを見ると、男女共に罪を犯した者であるものの、神様は両者それぞれに多くの恵を下さっていることが分かります。そして更に、イエス・キリストをこの世に送り、彼が十字架にかかって下さったことによって私たちの罪を帳消しにして永遠の命が与えられた、という最も大きい恵を下さいました。
この世の中がどうであれ、自分が置かれている状況がどうであれ、聖書の言葉を歪めないで、自分で理屈を付けないで、ありのままにいつも受け入れることの重要性を思い知らされた気持ちになりました。
さて、今朝、旧約聖書の「創世記」の3章を読みましたが、これまで湧いてこなかった疑問が湧いてきました。それは、何故、蛇がアダムではなく、女性のイブに、禁断の実を食べるようにそそのかしたのか?でした。
この蛇は、新約聖書の黙示録12章9節に記載されていますが、悪魔だということが分かっています。つまり、悪魔がこの蛇に入り、神様が創造されたアダムとイブを神様から引き離そうと試みます。悪魔の目的は、人間を神様から引き離すことであり、彼の目的はアダムとイブ、共に神様から引き離すことでした。
では、何故、この蛇はアダムとイブ2人に対して同時にそそのかさなかったのか?また、何故アダムではなく、イブにターゲットを置き、彼女をそそのかそうとしたのか?
悪魔は元々は神に仕える天使でしたが、堕落してしまったために、神から離れてしまった者です。従って、他の天使達と同じような能力を持っている為、どのようにしたらこの2人をそそのかすことができるのか、よく知っていました。悪魔とは言え、神様から創られた者ですから、相当に知恵があり、悪賢く、人を欺くのに長けています。2人の性質を良く知っていたこの蛇(悪魔)は、2人同時にアプローチ、又はアダムだけに直接アプローチする方法ではなく、イブにアプローチする方法を取りました。
では何故、イブがターゲットにされたのか?創世記の2章から読んで見ると想像できますが、神様はまず、アダムを創造しました。そして、神様はアダムに対して直接、善悪の知識の木からは取って食べてはならない、と言っています。つまり、アダムは神様を直接見ており、神の声を直接聞いていました。
一方でイブは、アダムのあばら骨を取って、後から創造されました。神様が直接、イブに対してその木を食べてはならない、と言っている個所がないため、彼女はアダムから聞いて食べてはならないと聞いていたことが想像できます。つまり、イブは、神様の言葉をアダムを通して間接的に聞いていた、つまり、また聞きをしていたということになります。
このような状態になった時、勘の良い方は既にお察しかと思いますが、また聞きの場合、その情報が100%正確に伝わることはあまりありません。特に女性の傾向として、男性と比べるとうわさ話やゴシップ好きが多いことを考えると(全ての女性に当てはまるわけではありませんが)、理解できるかと思います。うわさ好き、おしゃべり好きのおばちゃん、は良く聞きますが、うわさ好きのおじさん、はあまり聞かないですよね?
その証拠に、創世記3章3節でイブは次のように蛇に言っています。「しかし、園の中央にある木の実について、神は『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない』...と仰せになりました。」
しかし、創世記2章を見ると、神様が「それに触れてはいけない」とは一切、言っていません。これは、イブによる明らかな誇張なのです。イブが勝手に付け加えてしまいました。蛇にそそのかされた彼女は、きっと不安になって、神様が言ってもいないことを、あたかも神様が言ったかの様に、自分で付け加えてしまったのでしょう。非常に計算高いその蛇は、イブがそのような状態になることを予め分かっていたため、彼女の弱みに上手く入りこむことができたわけです。
これは私達人間にもよくあることです。特に自分が何かに、誰かに対して不満を持っていたり、また、職場で自分では難しいと思われる仕事をやるように言われたり、何か困難に遭った時などは、私たちはありとあらゆる理由をつけて、本来の事実とはかけ離れたことを言って、言い訳をしようとしたりします。特に人間関係、夫婦関係や職場の人間関係、家族関係に問題を抱えている人達は、まるで自分が全て正しく、相手が全て悪い、という話方をされる人達を多くみかけます。
その性質が既に、アダムとイブから現れています。神から、あの木の実を食べたのか、と問いただされた時、アダムはイブがそそのかしたと言い、その責任を彼女になすりつけました。また、イブは蛇がそそのかしたと言い、その責任を蛇になすりつけています。ここに、既に人間の原罪(神様から離れ、自分勝手に生きること)が始まりました。
この世的な観点から見ると、悪をそそのかした蛇が最も罪が重いでしょう。そして、蛇にそそのかされたとはいえ、それに応じたのはイブです。聖書を読む限り、蛇が無理矢理、イブに禁断の実を食べるように無理強いしたわけではありません。「食べない」という選択もあったわけです。けれども、イブは蛇の言葉に揺り動かされ、自分の意志でその木の実を取って食べ、更にそれだけでなく、アダムにもそれを勧めたので、彼女の罪は蛇の次に重いと判断されるでしょう。そして、イブの勧めに応じてしまったアダムも、結局は自分の意志で食べてしまったので、彼も罪に定められました。これを見ると、一般的に男性は女性の誘惑に負けやすい、というのはここから発生していることが分かります。
人間的観点から罪の大小はあるとはいえ、神から見れば、罪の大きい小さいは関係ないので、それぞれに罰を下されました。私たちが生きている間に受けなければいけない罰です。女性には産みの苦しみを、男性には生涯、額に汗を流して糧を得るという労働を課し、そして2人共に下された最も重い刑が、死でした。
ここでふと思ったのが、世界的に見ても、男性よりも女性クリスチャンの方が多いのは(特に日本では残念ながら未だ女性が圧倒的に多いですが)、イブが蛇(悪魔)に直接そそのかされた分、女性は意識的、無意識であれ、その罪の重さ、自分の弱さをより自覚しているからではないだろうかと思うのです。その罪深さ故、神様は女性に多くの恵を与え、多くの女性達が救われたのではないでしょうか。
一方、アダムは、木の実を食べてしまったのその罪はもちろん、大きいですが、蛇(悪魔)から直接そそのかされたわけではないので、罪の意識がイブ程ではなかったのではないかと思います。男性は女性に比べてプライドが高いと言われがちなのは、この様な所から来ているのではないかと推測されますが、プライドが高いと、なかなかありのままの自分を見つめたり、自分の弱さを認めることが難しいので、結果、神様の言葉がなかなか受け入れ難くなります。女性よりも男性のクリスチャンが少ないのは、このような理由なのではないかという気がします。しかし、アダムは直接神様を見て、神様の言葉を聞いているわけですから、男性が一旦、神様を信じるようになれば、素晴らしいクリスチャンになれるような気がします。(実際、世界の有名なクリスチャンリーダーを見ていると、女性よりも男性の数の方が圧倒的に多いです。しかしこれは、女性が男性よりも劣った者であるということを言っているわけではありません。女性でも素晴らしいクリスチャンリーダーは数多くいます。聖書では、男性も女性も同等の人間として扱われています。)
しかし、中には、理性的で合理的に考える女性や、男性でも自分の弱さを認めることができる方もいらっしゃるので、一概にこうである、とは言い切れません。しかし、男女の傾向として、創世記からこの様な事実があると知ることは、自分自身を深く理解すると共に、男性や女性ご、夫や妻を理解する上で大切なのではないかと思います。
これを見ると、男女共に罪を犯した者であるものの、神様は両者それぞれに多くの恵を下さっていることが分かります。そして更に、イエス・キリストをこの世に送り、彼が十字架にかかって下さったことによって私たちの罪を帳消しにして永遠の命が与えられた、という最も大きい恵を下さいました。
この世の中がどうであれ、自分が置かれている状況がどうであれ、聖書の言葉を歪めないで、自分で理屈を付けないで、ありのままにいつも受け入れることの重要性を思い知らされた気持ちになりました。