目に見えないもの 三回(其の②)・・・・・善一元の世界(救われ済みの人生)
孫から喜びの言葉を頂きました。
古の遠津御祖、歴世の祖(おや)より目に見えないひと筋のいのちの連続により、今生かされている此の生命の尊い喜びを頂きました。
酸素と水素が結合したら水になると云う自然界の法則を『不可負』と云われています。
時間、空間を超越して存在する本当のもの(価値)を顕わそうとすることを『当為』と云います。
例えば『当為』は誰にも宿っている『良心』などです。
暖かい太陽の光は聖者にも、悪人にも平等に、差別なく当たります。また冷たい寒風も差別なく両者に吹き抜けます。
このように自然界の法則というものは『不可負』に働きます。
自然界の法則は因果の顕れた『業』の法則である。
前述した酸素の因と水素の因が結合することにより水になるようなことであります。
自然界の法則は生命の足跡であり影であります。
丁度白紙の原稿用紙にペンで文字を書くとその筆跡が残っていくようなものです。
当為(良心)と不可負(自然界の法則)が衝突して『良心』が『自然界の法則』に打ち負かされていました。
しかし善を行なった時に、自然界の法則にふれ、自然界の法則では病気になるはずのことをしても、
病気になるということはないのです
例えば善意で真冬の冷たい水の中で溺れている子供を助けようとして水の中に入り、肺炎にかかり死んでしまうようなことはないのです。
『善の法則』は自然界の法則を踏みにじってしまう絶対的な権威でなければならないのです。
善は自然界の法則に打ち勝つことが出来るのです、
このように自然界の法則を超越することを『奇蹟』とも云ったりします。
しかし自然界の法則を超越することは本当は奇蹟でも何でもないのです。
自然界の法則を超越して善が顕れることが当たり前ことなのです。
自然界の法則に打ち負かされている状態が奇蹟なのであります。
主観的に宇宙に満ち満ちる真理(実相)を得る満足だけでなく客観的にも主観的にも両面貫いて自由なるものの
真理(実相)を得なければならない。
冷たい水の中に居ても、寒風に吹かれても風邪も引かない、病気にもならないことが自然界の法則に縛られないことであり、『善の絶対的な権威』が主客両面を貫いて確実に保たれることであります。
このように『善の絶対的な権威』が満ちている世界が『善一元』の世界であります。
善一元は神一元でもあります。
神様の世界は善(善きこと)のみが存在する世界であります。
仇討ちのように過去に善であったものが現代では善とは考えないものがあります。時代によって変わるような相対的なものではなく、『普遍的な価値』が本当の善であります。
『本当の善』は形でもなければ、精神でもないのであるから、有限の智慧の葛藤を超えなければならない。人、時間、場所(空間)の三つを備えなければならない禅的な修養が必要となります。
そうして神、仏の善の世界を此の身、此のままに顕わし、実現することが必要であるのです。
このことが自我の置き換えであり、イエスの復活であり、悔い改めであり、
回向、廻心であります。
親鸞上人が小我の力で行なった善を『雑行雑修の善』であるとして排斥し、
ひたすら真実の世界である阿弥陀仏(真実の善)に振り向いたのであります。
自力本願に相対する他力本願でなく、自力他力の相対を超えた絶対他力であるのです。
是が吾々は絶対他力(真実の善)に振り向いた世界では既に救われ済みの人生であるのです。
救われているが故にすべてのものを礼拝して、報恩感謝が人生の最大事であるのです。
『注』
遠津御祖(とおつみおや)―・・・遠い祖先
歴世(よよ)―・・・何代も続くこと。
不可負―・・・どうしてもそうならざるをえない。必然を本質とする自然の法則。
当為―・・・まさに為すべきこと。まさにあるべきこと。道徳法の要求。
孫から喜びの言葉を頂きました。
古の遠津御祖、歴世の祖(おや)より目に見えないひと筋のいのちの連続により、今生かされている此の生命の尊い喜びを頂きました。
酸素と水素が結合したら水になると云う自然界の法則を『不可負』と云われています。
時間、空間を超越して存在する本当のもの(価値)を顕わそうとすることを『当為』と云います。
例えば『当為』は誰にも宿っている『良心』などです。
暖かい太陽の光は聖者にも、悪人にも平等に、差別なく当たります。また冷たい寒風も差別なく両者に吹き抜けます。
このように自然界の法則というものは『不可負』に働きます。
自然界の法則は因果の顕れた『業』の法則である。
前述した酸素の因と水素の因が結合することにより水になるようなことであります。
自然界の法則は生命の足跡であり影であります。
丁度白紙の原稿用紙にペンで文字を書くとその筆跡が残っていくようなものです。
当為(良心)と不可負(自然界の法則)が衝突して『良心』が『自然界の法則』に打ち負かされていました。
しかし善を行なった時に、自然界の法則にふれ、自然界の法則では病気になるはずのことをしても、
病気になるということはないのです
例えば善意で真冬の冷たい水の中で溺れている子供を助けようとして水の中に入り、肺炎にかかり死んでしまうようなことはないのです。
『善の法則』は自然界の法則を踏みにじってしまう絶対的な権威でなければならないのです。
善は自然界の法則に打ち勝つことが出来るのです、
このように自然界の法則を超越することを『奇蹟』とも云ったりします。
しかし自然界の法則を超越することは本当は奇蹟でも何でもないのです。
自然界の法則を超越して善が顕れることが当たり前ことなのです。
自然界の法則に打ち負かされている状態が奇蹟なのであります。
主観的に宇宙に満ち満ちる真理(実相)を得る満足だけでなく客観的にも主観的にも両面貫いて自由なるものの
真理(実相)を得なければならない。
冷たい水の中に居ても、寒風に吹かれても風邪も引かない、病気にもならないことが自然界の法則に縛られないことであり、『善の絶対的な権威』が主客両面を貫いて確実に保たれることであります。
このように『善の絶対的な権威』が満ちている世界が『善一元』の世界であります。
善一元は神一元でもあります。
神様の世界は善(善きこと)のみが存在する世界であります。
仇討ちのように過去に善であったものが現代では善とは考えないものがあります。時代によって変わるような相対的なものではなく、『普遍的な価値』が本当の善であります。
『本当の善』は形でもなければ、精神でもないのであるから、有限の智慧の葛藤を超えなければならない。人、時間、場所(空間)の三つを備えなければならない禅的な修養が必要となります。
そうして神、仏の善の世界を此の身、此のままに顕わし、実現することが必要であるのです。
このことが自我の置き換えであり、イエスの復活であり、悔い改めであり、
回向、廻心であります。
親鸞上人が小我の力で行なった善を『雑行雑修の善』であるとして排斥し、
ひたすら真実の世界である阿弥陀仏(真実の善)に振り向いたのであります。
自力本願に相対する他力本願でなく、自力他力の相対を超えた絶対他力であるのです。
是が吾々は絶対他力(真実の善)に振り向いた世界では既に救われ済みの人生であるのです。
救われているが故にすべてのものを礼拝して、報恩感謝が人生の最大事であるのです。
『注』
遠津御祖(とおつみおや)―・・・遠い祖先
歴世(よよ)―・・・何代も続くこと。
不可負―・・・どうしてもそうならざるをえない。必然を本質とする自然の法則。
当為―・・・まさに為すべきこと。まさにあるべきこと。道徳法の要求。