苦難から歓喜へ至る道 その②・・・・・苦難の重荷をおろすために
若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念え。
キャベツの芯(真実)をみるためには一枚一枚剥いでいく方法は『苦しみの葉』を一枚剥ぎ、また『憎しみの葉』を一枚剥ぎ、また『悲しみの葉』を一枚剥いでいくように葉っぱを一枚一枚剥いでいきキャベツの芯(真実の救い)に到達する方法です。
諸々の煩悩、迷い等を一つ一つ色々な苦行で浄めていくようなものです。
例えば燻っている煙(煩悩、迷い)を手でいくら払っても煙は消えないのです。
煙(煩悩、迷い)の元を消さないと煙は消えないのです。
煙を幾度も手で払うことが、キャベツの一枚一枚剥いでいく方法と同じことなのです。
煙の元を消すのが、キャベツを一刀両断に切り分けることなのです。
釈迦如来が今まで四十年間説いた教えはすべて方便の教えであり、本当の教えは今から説く、人間は『如来のいのち』がここに生きている、『無限のいのち』そのものであると説いてあるのが『法華経』なのであります。
その法華経のなかにある観普賢菩薩行法経に
一切の業障海は、皆妄想より生ず、
若(も)し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念え。
衆罪は霜露(そうろ)の如し、慧日能(よ)く消除す。
一切の悪しきにみちた世界はみな『あるものを(実在)』を無いと思い、
『無いもの(虚妄)』を有ると思うサカサマ(転倒)の心より生じたものである。
今までの誤った転倒妄想の心を洗い浄めんと欲せば、無心になり、
正しい姿勢で座ると妄心がなくなり実相十全の姿があらわれ、
霜、露は朝陽があたると消え去るがごとく、
太陽のごとき仏の広大無限なる智慧がもろもろの覆い隠した罪を消して実相の円満完全なる満徳を顕現させてくれるのである。
キャベツの葉を一枚一枚剥いでいかなくとも、キャベツを一刀両断に切り分けることが『この身このままで素直に心の姿勢を正し、無心になりさえすれば今、ここに、我が胸の内に、歓喜に到る道(極楽世界)が開くのであります。
『注』
業障(ごつしょう)―…悪の行為によってよって生じた障害。
成仏をさまたげる悪業。
妄想(もうそう)―…ないものをあるとする想い。真実でないものを真実であると誤って考えること。
懺悔(ざんげ)―…今までの一切の迷い誤ったことを洗い浄めること。
慧日(えにち)―…太陽のごとき智慧。仏の智慧の無限広大なことを日光にたとえていう。
衆罪(しゅざい)―…もろもろの蔽(おお)い隠した罪。
若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念え。
キャベツの芯(真実)をみるためには一枚一枚剥いでいく方法は『苦しみの葉』を一枚剥ぎ、また『憎しみの葉』を一枚剥ぎ、また『悲しみの葉』を一枚剥いでいくように葉っぱを一枚一枚剥いでいきキャベツの芯(真実の救い)に到達する方法です。
諸々の煩悩、迷い等を一つ一つ色々な苦行で浄めていくようなものです。
例えば燻っている煙(煩悩、迷い)を手でいくら払っても煙は消えないのです。
煙(煩悩、迷い)の元を消さないと煙は消えないのです。
煙を幾度も手で払うことが、キャベツの一枚一枚剥いでいく方法と同じことなのです。
煙の元を消すのが、キャベツを一刀両断に切り分けることなのです。
釈迦如来が今まで四十年間説いた教えはすべて方便の教えであり、本当の教えは今から説く、人間は『如来のいのち』がここに生きている、『無限のいのち』そのものであると説いてあるのが『法華経』なのであります。
その法華経のなかにある観普賢菩薩行法経に
一切の業障海は、皆妄想より生ず、
若(も)し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念え。
衆罪は霜露(そうろ)の如し、慧日能(よ)く消除す。
一切の悪しきにみちた世界はみな『あるものを(実在)』を無いと思い、
『無いもの(虚妄)』を有ると思うサカサマ(転倒)の心より生じたものである。
今までの誤った転倒妄想の心を洗い浄めんと欲せば、無心になり、
正しい姿勢で座ると妄心がなくなり実相十全の姿があらわれ、
霜、露は朝陽があたると消え去るがごとく、
太陽のごとき仏の広大無限なる智慧がもろもろの覆い隠した罪を消して実相の円満完全なる満徳を顕現させてくれるのである。
キャベツの葉を一枚一枚剥いでいかなくとも、キャベツを一刀両断に切り分けることが『この身このままで素直に心の姿勢を正し、無心になりさえすれば今、ここに、我が胸の内に、歓喜に到る道(極楽世界)が開くのであります。
『注』
業障(ごつしょう)―…悪の行為によってよって生じた障害。
成仏をさまたげる悪業。
妄想(もうそう)―…ないものをあるとする想い。真実でないものを真実であると誤って考えること。
懺悔(ざんげ)―…今までの一切の迷い誤ったことを洗い浄めること。
慧日(えにち)―…太陽のごとき智慧。仏の智慧の無限広大なことを日光にたとえていう。
衆罪(しゅざい)―…もろもろの蔽(おお)い隠した罪。