夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

苦難から歓喜へ至る道 その②・・・・・苦難の重荷をおろすために (天国が今、此処にある)

2016年01月08日 21時05分40秒 | 真理の言葉
苦難から歓喜へ至る道 その②・・・・・苦難の重荷をおろすために

            若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念え。

キャベツの芯(真実)をみるためには一枚一枚剥いでいく方法は『苦しみの葉』を一枚剥ぎ、また『憎しみの葉』を一枚剥ぎ、また『悲しみの葉』を一枚剥いでいくように葉っぱを一枚一枚剥いでいきキャベツの芯(真実の救い)に到達する方法です。
諸々の煩悩、迷い等を一つ一つ色々な苦行で浄めていくようなものです。
例えば燻っている煙(煩悩、迷い)を手でいくら払っても煙は消えないのです。
煙(煩悩、迷い)の元を消さないと煙は消えないのです。

煙を幾度も手で払うことが、キャベツの一枚一枚剥いでいく方法と同じことなのです。
煙の元を消すのが、キャベツを一刀両断に切り分けることなのです。




釈迦如来が今まで四十年間説いた教えはすべて方便の教えであり、本当の教えは今から説く、人間は『如来のいのち』がここに生きている、『無限のいのち』そのものであると説いてあるのが『法華経』なのであります。
その法華経のなかにある観普賢菩薩行法経に

一切の業障海は、皆妄想より生ず、
若(も)し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念え。
衆罪は霜露(そうろ)の如し、慧日能(よ)く消除す。

一切の悪しきにみちた世界はみな『あるものを(実在)』を無いと思い、
『無いもの(虚妄)』を有ると思うサカサマ(転倒)の心より生じたものである。
今までの誤った転倒妄想の心を洗い浄めんと欲せば、無心になり、
正しい姿勢で座ると妄心がなくなり実相十全の姿があらわれ、
霜、露は朝陽があたると消え去るがごとく、
太陽のごとき仏の広大無限なる智慧がもろもろの覆い隠した罪を消して実相の円満完全なる満徳を顕現させてくれるのである。




キャベツの葉を一枚一枚剥いでいかなくとも、キャベツを一刀両断に切り分けることが『この身このままで素直に心の姿勢を正し、無心になりさえすれば今、ここに、我が胸の内に、歓喜に到る道(極楽世界)が開くのであります。

『注』
業障(ごつしょう)―…悪の行為によってよって生じた障害。
              成仏をさまたげる悪業。
妄想(もうそう)―…ないものをあるとする想い。真実でないものを真実であると誤って考えること。
懺悔(ざんげ)―…今までの一切の迷い誤ったことを洗い浄めること。
慧日(えにち)―…太陽のごとき智慧。仏の智慧の無限広大なことを日光にたとえていう。
衆罪(しゅざい)―…もろもろの蔽(おお)い隠した罪。 


苦難から歓喜へ至る道 その①・・・・・苦難の重荷をおろすために

2016年01月08日 00時47分26秒 | 真理の言葉
苦難から歓喜へ至る道 その①・・・・・苦難の重荷をおろすために

   心の重荷を神に全托しましょう。

苦難から歓喜へ至る道は二つの道があります。
キャベツの芯(真実)をみるためには一枚一枚剥いでいく方法と
キャベツを一刀両断に切り開いて芯(真実)見る方法があります。


義経の八艘飛び如く、苦しみ、悩みの世界から飛び越えて幸福の世界へと到るには
自分の重荷(悩み、苦しみ、怒り、憎しみ、病気等)を降ろして身軽にならなければ飛ぶことが出来ません。
それには悩み、罪、苦しみ、怒り、憎しみ、病気等は実在(本当のもの)ではないことを知ることが必要であります。
夢のなかで悪魔に押さえられて苦しんでいても覚めてみれば
現実の世界では悪魔に押さえられて苦しんでいる自分はいません。
夢の中で自分の自らの心で自分自身を押さえているに過ぎません。
本当は無いもの(罪、悩み、苦しみ、怒り、憎しみ、病気等)を自分の心で、自ら脚本して創り上げた映画のようなものです。
この映画を自らの心で夢中に観て、苦しんでいるに過ぎないのであります。
このように悩む心、苦しむ心、憎しむ心、罪、病気などは客観的には実在しないのであります。
神は人間を苦しめるような『罪、苦しみ、怒り、憎しみ、病気等』は創らないのであります。
人間の心は認識したものが現実に現れる『唯心所現』と云う世界があります。
映画館で映画を上映する時には、映画の画面が焼き付けられた『ネガフイルム』に光を当てて回しますとスクリーンに見事な名画が上映されます。人間の心は此の『ネガフイルム』のようなものであります。『ネガフイルム』に焼き付けられた『様々な心、因縁』が現象世界の光をあびることにより映画のように『様々の心、因縁』が現実世界に展開されます。
心で思ったことが、現実の世界に映画のように展開されます。
例えば幸福を思えば幸福が現れます。
苦しみを思えば苦しみが現れます。
病気を思えば病気が現れます。
谷間で向こうの山に有り難うと叫ぶと有り難うと返ってくる『山びこ』のようなものです。
思ったことが、思った通りに現れることを『唯心所現』と云います。




罪、苦しみ、憎しみ、怒り、妬み、劣等感等の悪感情により病を現します。

この悪感情のもとは自分と他人とは別々の存在であると云う相対的観念より生じます。
イエスが汝の隣人を愛せよと言ったようにすべての人々は神の同じ胎から生まれた『同胞』であり『神の子』であります。
自分と他人は一心同体であります。



またイエスは『思い悩むな』と言っています。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だがあなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは鳥よりも尊い価値あるものではないか。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ神はこのように装ってくださる。・・・・・
天の父はみなあなたがたに必要なことはご存知である。
なによりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。

                              マタイによる福音書6―26~34