私たちは何かを判断したとき
それは
刷り込まれた信条、考え方のくせ、習慣など
単なる条件反射的な反応に基づいた
“ただ何となく”とか“好き嫌い”といった感覚であって
本当は、それには大した理由などないのかも知れません。
しかし
それではスッキリしないため
自分を納得させるために
あるいは
誰かに対する説明や説得のために
後付けで理由を付けるのかと思います。
ある判断をしたときに
その多くは最初に結論があって
それから「なぜそうなのか?」と
そのとき初めて
それにふさわしい理由を探しているのだと思います。