今日春彼岸で水戸に行ってきた。柏から特急で行ったが、普段はスカスカなのに今日は満席状態、弁当を広げている家族連れもいてさすがに春の三連休、偕楽園の梅もさぞかし綺麗だろうなと気持ちも軽い。しかし弁当の匂いはやはり電車の中では「はた迷惑」である。日本独特の習慣だが、狭い車内の締め切った空間だという事を考慮すると、余り良いことだとはオススメできない。嬉しそうにパクついてる本人を横目で見ながら「まったくしょうがないなぁ、周りの迷惑に気付かないのかな?」と思うが、その事はすぐ忘れてしまうのだから実害はないとも言えるけど、少なくとも上品な態度とは言えないであろう。見ず知らずの他人からマイナス評価を知らないうちにつけられていると思えば、食事はちゃんとした店で食べた方が大人と言うもんである。もちろん行楽専用列車なら、飲めや歌えやも許されるだろうけど。
ほどなく1時間位で水戸に着いた。以前は調布の自宅から車で中央道・首都高・常磐道のルートを通り、水戸南で下りてお寺に向かったのだが、運転免許を医者の意地悪で返納する羽目になってから、車は諦めて専ら電車で行くことになった。今は免許は持っとくべきだと後悔している。それにしても薮医者の嫌がらせには頭に来るぜ、まったく。
そんなつまらないことを思い出してせっかくの気分を台無しにしそうになったが、今日は春彼岸に相応しい暖かさだ。駅南のパン屋で供物のカレーパンと一階の花屋で花束を買い、タクシーを拾って寺に向かう。そう言えば母はチューリップなんか好きじゃないって言っていたな。私はいつも通り百合の花と鈴蘭を選ぶ。どういうわけか私が墓参りする時は、いつも青空が抜けるように美しく出迎えてくれる。父も母もどうしてるかな?
お寺では和尚さんが忙しそうに、台帳と首っぴきでお金を出し入れしていた。私は墓地管理費が15000円と卒塔婆代3本で18000円、合計33000円を払って御挨拶した。先代の和尚さんも鬼籍に入ってだいぶになる。皆な寿命が来てあの世に行くのが世の習いだから、父も母も姉も順番通りではなかったが墓に入ってしまった。お線香に火をつけてもらってジョウロに水を汲み、墓に行くと花立てには何もなく、実に殺風景な五輪の塔の表面の彫った梵字が薄れかかっている。私もこの2年間病気でご無沙汰していたが、それにしても何となく寂しい気持ちになった。
「ごめんね、これなくて」。
私は軽くお墓を水で拭いて、花と線香とカレーパンを供えた。カレーパンは母の好物というわけではなく、私が食べたかっただけである。他所の墓も皆花が綺麗に飾ってあり香の匂いが漂って賑やかである。1年で4回、春秋の彼岸とお盆と正月は毎年墓参りをしていた。この時期は皆ご先祖に会いにお寺に来て、自分の家の墓をそれぞれ飾り立てるので、あとを見るものも無く誰も墓参りに来ずに荒れ果てるままになっている墓は、無言で立っているだけなおさら寂しさが増すばかりで悲しい。この2年間、父も母も同じように寂しい思いで他所の墓の家族連れなど眺めていたのかと思うと、病気で入院していたとは言え、申し訳なかったなと思った。
そう言えば母が亡くなる一週間前の日曜日、いつものように調布に行って母としばらくおしゃべりし、そろそろ帰ろうとして準備を始めた私に隣の部屋から母が、「今日は泊まってくんだろう?」と言ったことがあった。「だめだめ、明日は会社に行かなきゃならないんだから」と私は返事して帰り支度を急いだ。ちょっといつもより強い口調だったかも知れない。その当時、母は元気で声もはっきりしていたし、ちょっと時々曜日を間違える程度で何の不安もなく、来週また来るんだからとサッサと帰るつもりだったのだ。階段を下りる私に、部屋から母が「またドライブ行こうよ」という声が聞こえた。「うーん、そうだね」と生返事をして私は家を出た。
それが私と母の交わした最後の会話だった。その次の週、母は帰らぬ人となった。
いままで泊まって行けなどと言ったことがなかった母が、何か哀願するかのような声で喉の奥から絞り出すように出した言葉の調子に、普段と違う何かを感じ取るべきだった。それに気が付いたのは、亡くなってしばらく経ってからのことである。私はどうも他人の感情の裏に潜んでいる本当の気持ちというものに鈍感すぎるところがある。歳を取れば皆そうだが、私は後悔という感情は、通販でつまらないものをついつい買ってしまった時ぐらいしか普段余り感じたことがない。けれど、あの時の母にもう一度会ってやり直せたらな、と時々夢想することがある。
私の人生でただ一つの後悔、そして取り戻すことの決して出来ないこと、それはあの言葉をやっと絞り出した母に、優しい言葉をかけてあげられなかった事である。あの日に帰れるものなら帰りたい。もういちど帰って「もちろん泊まるよ」と言ってあげたい。そしてその言葉を聞いた時の、母の安堵したような可愛い笑顔が、もう一度見たい、と。だがそれは叶わぬ夢でしかない。私は帰りの混雑した特急の座席に座って、背もたれを倒しぼんやりと窓の外を眺めながら心の中で一人つぶやいていた。
「お母さん、また来るね」。
ほどなく1時間位で水戸に着いた。以前は調布の自宅から車で中央道・首都高・常磐道のルートを通り、水戸南で下りてお寺に向かったのだが、運転免許を医者の意地悪で返納する羽目になってから、車は諦めて専ら電車で行くことになった。今は免許は持っとくべきだと後悔している。それにしても薮医者の嫌がらせには頭に来るぜ、まったく。
そんなつまらないことを思い出してせっかくの気分を台無しにしそうになったが、今日は春彼岸に相応しい暖かさだ。駅南のパン屋で供物のカレーパンと一階の花屋で花束を買い、タクシーを拾って寺に向かう。そう言えば母はチューリップなんか好きじゃないって言っていたな。私はいつも通り百合の花と鈴蘭を選ぶ。どういうわけか私が墓参りする時は、いつも青空が抜けるように美しく出迎えてくれる。父も母もどうしてるかな?
お寺では和尚さんが忙しそうに、台帳と首っぴきでお金を出し入れしていた。私は墓地管理費が15000円と卒塔婆代3本で18000円、合計33000円を払って御挨拶した。先代の和尚さんも鬼籍に入ってだいぶになる。皆な寿命が来てあの世に行くのが世の習いだから、父も母も姉も順番通りではなかったが墓に入ってしまった。お線香に火をつけてもらってジョウロに水を汲み、墓に行くと花立てには何もなく、実に殺風景な五輪の塔の表面の彫った梵字が薄れかかっている。私もこの2年間病気でご無沙汰していたが、それにしても何となく寂しい気持ちになった。
「ごめんね、これなくて」。
私は軽くお墓を水で拭いて、花と線香とカレーパンを供えた。カレーパンは母の好物というわけではなく、私が食べたかっただけである。他所の墓も皆花が綺麗に飾ってあり香の匂いが漂って賑やかである。1年で4回、春秋の彼岸とお盆と正月は毎年墓参りをしていた。この時期は皆ご先祖に会いにお寺に来て、自分の家の墓をそれぞれ飾り立てるので、あとを見るものも無く誰も墓参りに来ずに荒れ果てるままになっている墓は、無言で立っているだけなおさら寂しさが増すばかりで悲しい。この2年間、父も母も同じように寂しい思いで他所の墓の家族連れなど眺めていたのかと思うと、病気で入院していたとは言え、申し訳なかったなと思った。
そう言えば母が亡くなる一週間前の日曜日、いつものように調布に行って母としばらくおしゃべりし、そろそろ帰ろうとして準備を始めた私に隣の部屋から母が、「今日は泊まってくんだろう?」と言ったことがあった。「だめだめ、明日は会社に行かなきゃならないんだから」と私は返事して帰り支度を急いだ。ちょっといつもより強い口調だったかも知れない。その当時、母は元気で声もはっきりしていたし、ちょっと時々曜日を間違える程度で何の不安もなく、来週また来るんだからとサッサと帰るつもりだったのだ。階段を下りる私に、部屋から母が「またドライブ行こうよ」という声が聞こえた。「うーん、そうだね」と生返事をして私は家を出た。
それが私と母の交わした最後の会話だった。その次の週、母は帰らぬ人となった。
いままで泊まって行けなどと言ったことがなかった母が、何か哀願するかのような声で喉の奥から絞り出すように出した言葉の調子に、普段と違う何かを感じ取るべきだった。それに気が付いたのは、亡くなってしばらく経ってからのことである。私はどうも他人の感情の裏に潜んでいる本当の気持ちというものに鈍感すぎるところがある。歳を取れば皆そうだが、私は後悔という感情は、通販でつまらないものをついつい買ってしまった時ぐらいしか普段余り感じたことがない。けれど、あの時の母にもう一度会ってやり直せたらな、と時々夢想することがある。
私の人生でただ一つの後悔、そして取り戻すことの決して出来ないこと、それはあの言葉をやっと絞り出した母に、優しい言葉をかけてあげられなかった事である。あの日に帰れるものなら帰りたい。もういちど帰って「もちろん泊まるよ」と言ってあげたい。そしてその言葉を聞いた時の、母の安堵したような可愛い笑顔が、もう一度見たい、と。だがそれは叶わぬ夢でしかない。私は帰りの混雑した特急の座席に座って、背もたれを倒しぼんやりと窓の外を眺めながら心の中で一人つぶやいていた。
「お母さん、また来るね」。
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