明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

ニック・ハノーアーという選択肢

2020-07-02 12:53:00 | ニュース
この間の選挙は希望の党が惨敗し立憲民主党が大躍進、自民党が漁夫の利を得た。こういう結果である。だが私は考えた、何故自民党がいつも勝つのか?これは根本的な問題である。また政治家はいったい何のために当選を目指して必死になるのか、私は前からずっと不思議だった。
テレビのワイドショーを見ていると、選挙に負けた人達を「屍」と評した政治家がいて、皆それには疑問を思う人は誰一人いなかったのだが、変である。民主主義社会にあっては、賛同者の数の多い方の意見が採用される。だから落選した候補者は残念であるが「単に支持者が少数派だった」わけで、本人が悪いわけではない。だが本人の「人気が無い」から負けたと思っているとすると、日本の選挙って何なんだろうか?人気投票なんだろうか。選挙は有権者の声を国会に届けるメッセンジャーを選ぶためのものである。それが代表と言うことであるから、一番物事の道理を理解し、的確な判断力と責任感を持った清廉潔白な人を選ぶ必要は、「ない」と言える。普通の人で構わないのではないか、と私は思っているが、「世間では立派な人格者・リーダーシップ」を求めすぎているのじゃないだろうか。
それは、我々有権者に対して政治家が「請負業と化している」からである。何かを期待して投票し、結果がでなければ「次の立候補者に相手を替える」という投票行動は一見正しそうに見えるが、実は問題があると言える。私は議員の「国会における賛成反対の投票」は、自分の選挙区に戻って有権者の意見を聞き、その民主的大多数の意見を集約して「自分が代表としての自覚」を持って投票するのが「考え方としては正しい」と思う。実際にやるのは大変だとということを無視して考えると、これは「毎回国民投票している」のと同じである。言うならば、原理は「これが代議員制度」である。今の制度は「実行可能」な方法を模索した結果に過ぎない。まあこの「常に国民投票」については別の機会に議論を展開するとして、有権者の意識と政治家の意識の違いについて考えてみよう。
政治家にとって使命感は「必須」だと思うが、では何を自分の使命と考えているのか。政策の対立軸が作れなかったという政治家がいる、不思議だ。対立軸は「有権者が作るもの」ではないのか。有権者の側に対立軸がないなら、別のことで戦うしかない。では別のこととは何か?それは政治というものを「利益対立の戦い」という考えである。対立する利益者集団がそれぞれ戦っているのなら、対立軸は「理論ではなく集団」であり、具体的で鮮明である。だが今の日本でこのような対立は、不思議なことに明確になってない。何故かというと「利益相反のロジック」が無くなったからである。自民党の理想とする資本主義と、国民一般の中間・低所得者層の理想とが「敵対しているのでなく、むしろ一致して」いるからである。だから「大筋と違う細かいところで対立するしかない」のが現実である。つまり「中身は全部(共産党以外だが)自民党」状態になっているのが今の日本である。これでは国会で議論がなされないのも道理ではないか。
人生は努力と運であり、自分の所得が低いのは「運が無かったから」だ、と日本人全員が考えている。それを阻害しているのが「お友達優遇」とか「労働者使い捨てのブラック企業」とか「規制に守られた業界」とか「投資家優先の金融政策」とかであって、つまり利益の配分構造ではなくて「仕事環境を、本来の正しい自由競争にする」ことで競争がフェアに機能すると皆が思っているのだ。しかし高額所得者や金持ちを「悪」とする声は、余り出ていない、利益再配分の声は「自分が高額所得者になる」という夢に掻き消されて、ほとんど聞こえてこないのだ。皆が「金持ちになり贅沢したい」という社会で「自由競争」のルールは「絶対正しい」のである。誰もが勝者と敗者に二分される社会である。だが果たして「お金を目指して競争する」ことが、現代の生き方として理想なんだろうか。
ニック・ハノーアーというアメリカの超大富豪が語る「新資本主義」という理論がある。ネットを見ていてたまたま見つけたのだが、シアトルのグラビティ・ペイメント社という会社が社員の平均年収を4万8千ドルから7万ドルにすると決定した、とニュースにでていた。CEOのダン・プライス氏は100万ドルから皆と同じ7万ドルへと給料を下げたのだ。アメリカのCEOの平均年収は、平均的な労働者の350倍以上ある。これを一気に縮めて「一緒に」してしまったのだ。驚くことだが、こういう理論は何も目新しい物ではなく、ニック・ハノーアーという億万長者が提唱している理論なのだ。「賃金引き上げの擁護者」で有名なニック・ハノーアー氏は、昇給を「慈善事業ではなく、投資」だという。魚を取りすぎれば資源が枯渇してしまうのは当たり前である。労働者というものを今までは消費者と別の人々と考えていたが、世界が均一化して消費者=労働者となって、賃金が上がらなければ消費も増えないと言うことが分かってきたのである。社員の給料を2倍にしても役員の報酬を100分の1にすれば、総人件費は変わらない。だから会社の経費に影響は出ないのだ。プライス氏は会社の業績がアップしたら給与を上げるつもりだという。国の経済が国民の消費に大きく依存する大国であるアメリカだからこそ、受け入れられる理論だと言えるかもしれない。しかし日本もこのまま進めば、徐々に同じ状態になるかも知れない。日本も消費を促すためには、労働者の賃金を上げなければいけないのだ。だが現実は逆である、所得格差がどんどん加速して、国内ではなく海外でものを売る会社が増えている。これでは今に日本は「労働者供給大国」となって、中国はおろかベトナムやインドネシアと肩を並べる下請け後進国になってしまうのではないか。安倍政権は企業に労働者の賃金を上げるように要請しているが、「役員の報酬を下げる」ようには言ってないのだ。それでは上手く行かない。
若干話がずれてしまったので元に戻すと、今の自民党は高額所得者優遇・大企業優遇・投資家優遇の「金持ち資本主義」で、対立軸は「働いて稼ぎ、消費する労働者層優遇」の社会である。大企業が儲かれば下請けは潤い利益が増えて、その後に我々の賃金も上がる式の「幻想」にいまだに縛られている昭和の働き蜂は、相変わらず自民党に投票するだろうが、これから対立軸を鮮明にした「消費する労働者党」というものが出てくれば、有権者の投票行動が変わり、自分の生活が社会構造そのものに深く関わっているという政治意識を持ってくるに違いないと思うのだ。自民党と全く同じ考えで「利益を得る集団を自分たちに変えよう」という戦略は、所詮は「自分が勝ち組になる方法を」探しているだけの、同じ穴のムジナである。その戦いに参加できない弱者は、投票を諦めて棄権するしかないのではないか。野党団結というのは、「国民の大多数を幸せにする」を目標にしてこそ、達成できるのである。
それで選挙結果を俯瞰してみると、小池ブームに乗った希望の党や筋を通した枝野立憲民主党も含めて、今の野党は「対立した社会構造を旗印に掲げた野党」というのには、全然もの足りないのである。テレビで最近「保守」や「リベラル」という単語を解説する番組が増えた。そもそも右翼や左翼というのはフランス革命から作られた言葉だそうである。近代の基礎となる考え方の殆んどが、このフランス革命から作られたというから凄いですね、「恐るべしフランス革命!」。とにかく日本では、共産党以外は全部保守と思って間違いないのである。政治体制を変えようと言うのではない以上、革新とは言えないのだ。つまり、「保守」とは天皇制国家(象徴か立憲か色々あるが)を信奉し、親米従属を国是とする伝統的価値観を共にする集団であり、「革新」とは(天皇制国家をどうこうするかは別にして)非米独立を国是とする新体制の集団だそうだ。革新という旗印を掲げる以上は、現体制を変革しなくてはならない(但し、憲法9条の改正は「単に防衛上の方法論」と位置付けるようである)。だから今の野党は、「革新」を名乗ってはいないのだ。
では「リベラル」はどうなのかというと、もともとが宗教戦争から発生した単語だそうで、こちらも歴史がある言葉である。その意味は「寛容と自由」だそうだ。個人の自由を尊重して小さな政府を理想とする「消極的自由」論者と、政府が個人の領域に関わって大きな政府を作ろうとする「積極的自由」論者の2つに別れるという。徹底して規制緩和して市場に委せる小さな政府は、行き過ぎるとグローバル資本主義となって格差が生まれる。規制や法律で無秩序な競争を無くして皆の幸せを求めるのが「積極的自由=大きな政府だ」ということらしい。アメリカの民主党は積極的に「自由を世界に広める」考えである。彼らには自由とは「独立した価値」なのである。それに反して共和党では自由は「単に制限しない」という意味になる。まあ色々あって分からなくなってきたが、リベラルというのは一見良いことづくめのようで「実際の政治においては、要は運用の仕方次第」であるというのに尽きるのである(私は何でも単純化してものを考えるのが好きなのだ)。
で、それではどうする気なのか?という問いかけには、「待つしかない」と答えるのみである。も一度世界が「リーマンショック以上の金融大崩壊に見舞われ」て、国民の大多数が食うに困って貧民生活に落とされて初めて「人間らしい生活を守ってくれるのは何か」ということを嫌でも考えざるを得ない時が、数年のうちにやってくる、と私は考えている。前回のリーマンショックも、「崩壊前は好景気が続いていた」のである。日本が北欧型の福祉国家を目指すのか、それとも資本主義万能の弱肉強食の世界を突き進んで行くのか、その時にならないと「国民は真剣には考えない」のである、フランス革命の時のように。だが「全ては運用する人にかかっている」のであるから、「価値観」を変えない限り「変革」は起きないのである。そこで私の推奨する価値観とは、「お金を価値とは思わない価値観」である。それを達成するのに「荒療治」が必要なのだ。近々起きるというリーマンショック以上の経済破綻という悪夢が、正夢にならないようにとは思うけどこれも神の思し召し、甘んじて受け入れるしかないだろう。その時がチャンスである。その時まで地道にこの理論をアピールし続けていれば、その時に初めてこの「消費する労働者党」に大衆がなだれ込んでくる、そう信じたい。
話をまたまた元に戻すと、政治家は使命感が必須だと書いた。民衆の声を届けるのが政治家であれば、一つ一つの細かいことが大事になってくる。子育てを切り口にして接戦を戦い抜いて勝った「山尾議員」は、一つの回答である。だが国をどうするかの大きな議論を抜きにしては、細かい議論は出来ないのではないだろうか。党というのはその「大きな議論」で一致しているものが集まっている集団である。その大きな議論が「希望の党の踏み絵」であるならば、小池新党は単なる第二自民党に過ぎないから国民から見放されてしまったのだ、と言うべきであろう。「排除」云々ではないのだ。
今は憲法改革には基本的に国民は反対なのである。アメリカ従属だが戦争は反対というのは理屈が通らないから、当然「安保反対・憲法改訂反対・専守防衛・外交重視」とならざるをえない。これが今後の日本の対立軸である。そして経済的には「中国ASEAN重視・所得制限・資産国有化・中産階級中心・必要なだけ作る」を推し進める新しい党である。個人的には自由な人生設計と福祉を充実させる社会である。お金を「誰が独占するか」ではなく、「お金には、元々の価値はない」という新しい社会、それが「本物の革新」の意味である。私の残り少ない人生、そんな日が来るのを楽しみにしているのだ。

PS:今読み返してみると、我ながらなかなか良いことを書いているように思う。コロナによって偶然にも新しい社会への欲求が高まっている現在、こんな社会が来ればいいのだがなぁ、と思うこの頃である。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿