1、裁判員制度の勘違いは直らないの?
このところ裁判で裁判員を務めた一般の市井の人が、テレビに出て感想を述べるなんて映像が流れていたりする訳だが、如何にも素人の感想で、裁判員制度をよく分かっていないというのが如実に出ていた。彼らはそもそも裁判員制度をどう思っているのだろうか。こないだ、新幹線殺人事件の小嶋被告の裁判があってニュースでは、裁判官が「犯人に反省がない」と不満気だったように報道されていた。これは私見だが、裁判官が被告に「反省や謝罪を求める」のは時代遅れの考えだと思う。犯人が反省しようが罪を悔いて涙ぐもうが、または小嶋被告のように「遺族の気持ちを逆撫でするような暴言」を吐こうが、勝手である。裁判所は、社会教育や再発防止を考える場所ではない。起きた事象を法に従って粛々と審理し判決を下す場所である。いちいち犯人の心情を情状酌量して刑罰を考慮するから間違いが起きるのだ。働かなくて飯が食える刑務所で一生暮らせるのだから楽、と考える確信犯のコソ泥老人もいるらしい。中国ならあっという間に死刑だから、飯が食えるどころでは無いのだが、中国の刑法も「こういう点では」いいかもね。
最初に裁判員制度が導入された時には、裁判に「市民の報復感情」を実現させる制度と考えている人がいて、それに警鐘を鳴らす意見が多数寄せられた。あんな酷い事をした犯人は死刑にすべきだ、というのであれば、もう裁判ではなくて「リンチ」である。本来裁判員制度というのは、裁判の中で一番重要な「証拠を判断して黒白つける」ところに「一般常識」を持ち込む事で裁判を公正化しよう、という目的でできた制度なのである。裁判官というのは皆さんが思っている以上に「社会生活と無縁の頭の固い判断能力の弱い人」が多いのである。なぜかというと、司法試験という「日本の試験の中で最も難しい試験」に受かるために、子供の頃から一般人とは掛け離れた「試験勉強漬け」の生活を送って来たために、ようやく受かった頃には「霞を食べている仙人」のような裁判官が出来上がる、という寸法なのだ。色んな事実を総合的に判断する能力を養う「常識」が欠けているために、実はとんでもない思い違いをしている例が極めて多いのである。例えば痴漢の裁判なんかでは「清楚な女子高校生が嘘をつく筈がない」などと妄想して判決している訳だから、冤罪なんてゴマンと量産されても何の不思議もない。昔の冤罪事件の証拠の採用の仕方などをネットで調べてみると、その「いい加減さ」に呆れるばかりである。だから裁判員が入って常識的な判断をしないと「とんでもない判決が出ちゃう」のだ。つまり、冤罪防止である。
では裁判員は量刑には参加しなくて良いのだろうか。基本的には「NO」である。しかし、一人殺せば懲役10年だが2人殺せば死刑だとか何とかいう永山ルールなどの「訳の分からない区別」はもう「そろそろ」やめてもらいたい。もっとシンプルに、殺す意図があったのかなかったのかに関わらず、殺人は30年。嘱託殺人とか大量殺人とか無差別殺人は、死刑。これで良いのではないだろうか。もし裁判官が死刑判決に自信が持てないというなら、一事不再理の要件を除外にして「一旦無罪」もあり得る。要は、犯人の後悔や改心を考慮せずに犯した罪で判断すれば、罪刑はシンプルになる訳である。情状酌量というのは、刑務所での反省などを考慮して、後から刑期を短縮すれば済む。今回、元事務次官の息子殺害についてニュースで取り上げていたが、殺した以上は「30年」で十分ではないだろうか。引きこもりの長男に殺すとDVされて、止むに止まれず殺したというのだから、どのような刑であっても本人は受け入れる筈である。人間の命を奪うということは、それだけ重い罪だ。それでも周囲の人々の温かい支援で何とか立ち直り、息子の供養に生涯を捧げるというのであれば、3年位で出て来て余生を「坊さん」にでもなって社会貢献して過ごせば良いのではないだろうか。量刑は30年、服役は3年というのもアリである。何も裁判の場で全てを決着しなくても、刑務所でじっくり後悔と反省をすれば良いと思う。人生は長いのだ、考える時間はたっぷりある。
だから裁判員は裁判官が被告を「犯人と判断するかどうか」というところに、持ち前の「常識を働かせ」てくれれば良いのだ。よく「一人の人間を死刑にする」というのは大変重い判断でした、なんて裁判員がいるが、とんでもない間違いである。死刑かどうかは裁判官が「過去の事例に基づいて公平に判断」して決めることであり、裁判員がどうこう言える立場でも「知識もない」のだ。だから真剣に証拠を見て、疑いようの無い合理的な結論を出せば良いのである。それほど難しいことではない。日本人は、犯人に「反省の言葉を言わせる」事に物凄く執着する癖があるが、実は犯人が「どう思っているか」は、事件の審理とは「全く関係ない」と思わなければならない。裁判とは「論理ゲーム」である。これを徹底しなければ、日本から冤罪はなくならないのだ。つまり冤罪をなくすためには、真犯人を野放しにする方を選ぶ、これ、私の持論です。
2、私はしゃっくり持ちで、一度始めると1時間は余裕でしゃっくり「しまくる」癖がある。寝る前なんか急に出始めると仕方なく「収まるまで待つ」しかない。私は特にしゃっくりが大きくて、会社にいた頃周りの女子から「あなたのしゃっくりは汚い」と酷評されるほどであった。昨日も突然しゃっくりが出て「またか」と思ったが、何故かその時に「前触れのような感覚」があったのである。「これに違いない!」と、しゃっくりしながら私は得心がいった。「しゃっくり」はゴルフで言うところの「シャンク」みたいなもので、出てしまったらもう、自分では「どうしようもない」のである。ところが昨日は「しゃっくり」の予感があったのである。
それは「空気」を、意識せずヒョイッと吸い込み、それが「喉の奥の食道あたりにスポッと」入り込んだ瞬間、しゃっくりが起きると分かったのだ!。しゃっくりは、副交感神経だかなんだかのエラーに触発されて、どこかの不随意筋が痙攣することで起きる、と「ものの本」で読んだ記憶がある(これは確かではない)。不随意筋だから自分の意志ではどうにも止まらない。「何なんだ、いつもいつも全くぅ!」と怒って見ても、矛先の向けようがない。しかし今回は「原因」が分かったのである!。空気の塊が原因だ。
原因さえ分かれば「予防だって出来る理屈」である。要は、食道への「予想外の空気の塊」が痙攣を呼び起こしているのだから、それを防げば良い。つまり、
a. 息を吸い込む時には「驚かない」こと。特に不用意に冷たいものを食道に送り込んだ時なんかは「びっくり」しやすいので、注意する。
b. しゃっくりが始まったら、23分様子を見て少し落ち着いた頃を見計らって「いまだ!」とばかりに水を一杯ぐらい、「下を向いて喉の上側・奥側」を通して飲む。
以上。これで大体は収まるはずだ。それで収まらなければ・・・、つまり「諦める」しかない(何だよ!)。
とにかく、しゃっくりは一種の生理現象だから、簡単にどうにかなるものではないが、一つ原因らしきものが分かった事で「しゃっくり持ち」にも一筋の光明が差してきたと言うわけである。目出度し目出度し。
3、アメリカでの社会貢献の広がり
町山智浩の「USAなんちゃら」という番組で、アメリカのLGBT運動を起こした人の話をやっていた。その人の名前は失念したが(如何にいい加減にテレビを見ているかがわかる)、要はアメリカでは、どんな些細なことであろうとも(LGBT運動が些細なことだと言っているわけではない)、社会のために尽くした人の「功績」を皆んなが尊敬し、街の人その他のいろんな階層の人々が褒め讃えて、しっかりと生活の中に組み込んでいることに感心したのである。
日本では野口英世やノーベル賞を貰った誰々や何々を発明した人といった風に、偉大な功績をあげて「世界」に認められた人「だけを」褒めそやすことは精一杯やるが、それに比べて「巷間の平易な善行」を見知っても殆ど粗末に扱う風潮があって、この点はアメリカの方が数段上だな、と彼我の差を感じた次第である。昔、小学校で煩いくらいに良く言われた「公徳心」などもこの口で、ごくごく些細なことみたいに扱われている。しかし、塵も積もっての例えの如く、歳を重ねて「より大きな事」で社会に貢献することが実は、バックボーンは結局は公徳心と「同じ精神」であることが多いのだ。
桜を見る会だの天皇による叙爵など、個人の功績に対して、国や国家は盛大に表彰しているように一見見えるが中身は大した事がなく、何故か民衆の生活の中に根ざした善行が「すっぽり抜け落ちている」ように思えてならない。例えば農業生産の増大に努力したとか、民衆の生活の質を向上させる啓蒙運動に努力したとか、差別されている人や介護の必要な人を幸せにするために私財を投げ打って施設を開いたとか、または近所で迷子の子供を救って家に返してあげたとか、一見自分には関係ないことのように思える貢献を「皆んなで評価する」ことで、社会をよりよくしていくことが出来るのではないか。そういう地道な努力を政府や自治体は評価し、皆んなの社会貢献への参加の仕方を「草の根から積み上げて」いかなければいけないのである。
世の中、お金が全てではない。それを教えてくれるのが、アメリカの素朴な田舎暮らしに根付いている「いい人」の伝統である。人種差別に象徴されるように、差別や偏見はアメリカの深い部分に横たわっている害悪なのだ。しかしそれと同時に人間のもつ無償の善意というものもまた、人々の心の中に素朴に残っているのがアメリカである。日本のように「上から押し付けられた価値観ではない」アメリカの民衆の底力には、まだまだ日本人は学ぶべきである。
このところ裁判で裁判員を務めた一般の市井の人が、テレビに出て感想を述べるなんて映像が流れていたりする訳だが、如何にも素人の感想で、裁判員制度をよく分かっていないというのが如実に出ていた。彼らはそもそも裁判員制度をどう思っているのだろうか。こないだ、新幹線殺人事件の小嶋被告の裁判があってニュースでは、裁判官が「犯人に反省がない」と不満気だったように報道されていた。これは私見だが、裁判官が被告に「反省や謝罪を求める」のは時代遅れの考えだと思う。犯人が反省しようが罪を悔いて涙ぐもうが、または小嶋被告のように「遺族の気持ちを逆撫でするような暴言」を吐こうが、勝手である。裁判所は、社会教育や再発防止を考える場所ではない。起きた事象を法に従って粛々と審理し判決を下す場所である。いちいち犯人の心情を情状酌量して刑罰を考慮するから間違いが起きるのだ。働かなくて飯が食える刑務所で一生暮らせるのだから楽、と考える確信犯のコソ泥老人もいるらしい。中国ならあっという間に死刑だから、飯が食えるどころでは無いのだが、中国の刑法も「こういう点では」いいかもね。
最初に裁判員制度が導入された時には、裁判に「市民の報復感情」を実現させる制度と考えている人がいて、それに警鐘を鳴らす意見が多数寄せられた。あんな酷い事をした犯人は死刑にすべきだ、というのであれば、もう裁判ではなくて「リンチ」である。本来裁判員制度というのは、裁判の中で一番重要な「証拠を判断して黒白つける」ところに「一般常識」を持ち込む事で裁判を公正化しよう、という目的でできた制度なのである。裁判官というのは皆さんが思っている以上に「社会生活と無縁の頭の固い判断能力の弱い人」が多いのである。なぜかというと、司法試験という「日本の試験の中で最も難しい試験」に受かるために、子供の頃から一般人とは掛け離れた「試験勉強漬け」の生活を送って来たために、ようやく受かった頃には「霞を食べている仙人」のような裁判官が出来上がる、という寸法なのだ。色んな事実を総合的に判断する能力を養う「常識」が欠けているために、実はとんでもない思い違いをしている例が極めて多いのである。例えば痴漢の裁判なんかでは「清楚な女子高校生が嘘をつく筈がない」などと妄想して判決している訳だから、冤罪なんてゴマンと量産されても何の不思議もない。昔の冤罪事件の証拠の採用の仕方などをネットで調べてみると、その「いい加減さ」に呆れるばかりである。だから裁判員が入って常識的な判断をしないと「とんでもない判決が出ちゃう」のだ。つまり、冤罪防止である。
では裁判員は量刑には参加しなくて良いのだろうか。基本的には「NO」である。しかし、一人殺せば懲役10年だが2人殺せば死刑だとか何とかいう永山ルールなどの「訳の分からない区別」はもう「そろそろ」やめてもらいたい。もっとシンプルに、殺す意図があったのかなかったのかに関わらず、殺人は30年。嘱託殺人とか大量殺人とか無差別殺人は、死刑。これで良いのではないだろうか。もし裁判官が死刑判決に自信が持てないというなら、一事不再理の要件を除外にして「一旦無罪」もあり得る。要は、犯人の後悔や改心を考慮せずに犯した罪で判断すれば、罪刑はシンプルになる訳である。情状酌量というのは、刑務所での反省などを考慮して、後から刑期を短縮すれば済む。今回、元事務次官の息子殺害についてニュースで取り上げていたが、殺した以上は「30年」で十分ではないだろうか。引きこもりの長男に殺すとDVされて、止むに止まれず殺したというのだから、どのような刑であっても本人は受け入れる筈である。人間の命を奪うということは、それだけ重い罪だ。それでも周囲の人々の温かい支援で何とか立ち直り、息子の供養に生涯を捧げるというのであれば、3年位で出て来て余生を「坊さん」にでもなって社会貢献して過ごせば良いのではないだろうか。量刑は30年、服役は3年というのもアリである。何も裁判の場で全てを決着しなくても、刑務所でじっくり後悔と反省をすれば良いと思う。人生は長いのだ、考える時間はたっぷりある。
だから裁判員は裁判官が被告を「犯人と判断するかどうか」というところに、持ち前の「常識を働かせ」てくれれば良いのだ。よく「一人の人間を死刑にする」というのは大変重い判断でした、なんて裁判員がいるが、とんでもない間違いである。死刑かどうかは裁判官が「過去の事例に基づいて公平に判断」して決めることであり、裁判員がどうこう言える立場でも「知識もない」のだ。だから真剣に証拠を見て、疑いようの無い合理的な結論を出せば良いのである。それほど難しいことではない。日本人は、犯人に「反省の言葉を言わせる」事に物凄く執着する癖があるが、実は犯人が「どう思っているか」は、事件の審理とは「全く関係ない」と思わなければならない。裁判とは「論理ゲーム」である。これを徹底しなければ、日本から冤罪はなくならないのだ。つまり冤罪をなくすためには、真犯人を野放しにする方を選ぶ、これ、私の持論です。
2、私はしゃっくり持ちで、一度始めると1時間は余裕でしゃっくり「しまくる」癖がある。寝る前なんか急に出始めると仕方なく「収まるまで待つ」しかない。私は特にしゃっくりが大きくて、会社にいた頃周りの女子から「あなたのしゃっくりは汚い」と酷評されるほどであった。昨日も突然しゃっくりが出て「またか」と思ったが、何故かその時に「前触れのような感覚」があったのである。「これに違いない!」と、しゃっくりしながら私は得心がいった。「しゃっくり」はゴルフで言うところの「シャンク」みたいなもので、出てしまったらもう、自分では「どうしようもない」のである。ところが昨日は「しゃっくり」の予感があったのである。
それは「空気」を、意識せずヒョイッと吸い込み、それが「喉の奥の食道あたりにスポッと」入り込んだ瞬間、しゃっくりが起きると分かったのだ!。しゃっくりは、副交感神経だかなんだかのエラーに触発されて、どこかの不随意筋が痙攣することで起きる、と「ものの本」で読んだ記憶がある(これは確かではない)。不随意筋だから自分の意志ではどうにも止まらない。「何なんだ、いつもいつも全くぅ!」と怒って見ても、矛先の向けようがない。しかし今回は「原因」が分かったのである!。空気の塊が原因だ。
原因さえ分かれば「予防だって出来る理屈」である。要は、食道への「予想外の空気の塊」が痙攣を呼び起こしているのだから、それを防げば良い。つまり、
a. 息を吸い込む時には「驚かない」こと。特に不用意に冷たいものを食道に送り込んだ時なんかは「びっくり」しやすいので、注意する。
b. しゃっくりが始まったら、23分様子を見て少し落ち着いた頃を見計らって「いまだ!」とばかりに水を一杯ぐらい、「下を向いて喉の上側・奥側」を通して飲む。
以上。これで大体は収まるはずだ。それで収まらなければ・・・、つまり「諦める」しかない(何だよ!)。
とにかく、しゃっくりは一種の生理現象だから、簡単にどうにかなるものではないが、一つ原因らしきものが分かった事で「しゃっくり持ち」にも一筋の光明が差してきたと言うわけである。目出度し目出度し。
3、アメリカでの社会貢献の広がり
町山智浩の「USAなんちゃら」という番組で、アメリカのLGBT運動を起こした人の話をやっていた。その人の名前は失念したが(如何にいい加減にテレビを見ているかがわかる)、要はアメリカでは、どんな些細なことであろうとも(LGBT運動が些細なことだと言っているわけではない)、社会のために尽くした人の「功績」を皆んなが尊敬し、街の人その他のいろんな階層の人々が褒め讃えて、しっかりと生活の中に組み込んでいることに感心したのである。
日本では野口英世やノーベル賞を貰った誰々や何々を発明した人といった風に、偉大な功績をあげて「世界」に認められた人「だけを」褒めそやすことは精一杯やるが、それに比べて「巷間の平易な善行」を見知っても殆ど粗末に扱う風潮があって、この点はアメリカの方が数段上だな、と彼我の差を感じた次第である。昔、小学校で煩いくらいに良く言われた「公徳心」などもこの口で、ごくごく些細なことみたいに扱われている。しかし、塵も積もっての例えの如く、歳を重ねて「より大きな事」で社会に貢献することが実は、バックボーンは結局は公徳心と「同じ精神」であることが多いのだ。
桜を見る会だの天皇による叙爵など、個人の功績に対して、国や国家は盛大に表彰しているように一見見えるが中身は大した事がなく、何故か民衆の生活の中に根ざした善行が「すっぽり抜け落ちている」ように思えてならない。例えば農業生産の増大に努力したとか、民衆の生活の質を向上させる啓蒙運動に努力したとか、差別されている人や介護の必要な人を幸せにするために私財を投げ打って施設を開いたとか、または近所で迷子の子供を救って家に返してあげたとか、一見自分には関係ないことのように思える貢献を「皆んなで評価する」ことで、社会をよりよくしていくことが出来るのではないか。そういう地道な努力を政府や自治体は評価し、皆んなの社会貢献への参加の仕方を「草の根から積み上げて」いかなければいけないのである。
世の中、お金が全てではない。それを教えてくれるのが、アメリカの素朴な田舎暮らしに根付いている「いい人」の伝統である。人種差別に象徴されるように、差別や偏見はアメリカの深い部分に横たわっている害悪なのだ。しかしそれと同時に人間のもつ無償の善意というものもまた、人々の心の中に素朴に残っているのがアメリカである。日本のように「上から押し付けられた価値観ではない」アメリカの民衆の底力には、まだまだ日本人は学ぶべきである。
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