明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

常磐線の優先席で思った事

2018-12-01 20:00:00 | 今日の話題
いつも乗っている常磐線で上野から柏へ帰る途中、優先席に座って音楽を聞いていたら北千住で結構人が乗ってきて、中に一人相当年配の女性が「私の座席の横のパイプ」につかまってきた。優先席を人当たり見回し全部の席が埋まっているのを確認して、そのままじっと目をつぶって立っていた。私は席を譲るべきかどうか迷ったが、ある考えから敢えて席は譲らなかった。私は3人掛けの一番左端、右のは30台と思しき若い男性、誰が見てもその「若い男が席を譲るべき」シチュエーションだ。だが私が席を譲らなかったのは、そんな「こいつが譲ればいい」というような他人に責任をなすりつけようという気持ちからではない。

以前私が調布に住んでいた頃、同じように優先席に座っていて眼の前に「初老の男性」が乗ってきた事があった。「どうぞ」と声を掛けて席を立った私の申し出に、「いや、そんな年寄りじゃ無いから」と言って断ったその男性の行動に無性に腹が立って、散々に悪態をついて無理やり席に座らせたことを思い出したのだ。私はとにかく頭に来ていた。私は頭にくることがあると「自分の怒りを正当化する理屈」を必死に探して、見つかると安心し怒りがスーッと消えるというのを「怒り対処法」にしている。この時も色々考えて私のほうが正しかった、と結論づけた記憶があるが今回はどうだろうか。

その時の理屈は、だいたい次のような理論だった。

1 私は優先席に座っているが、「優先されるべき人」が来たら迷わず席を譲る用意がある。

2 この男は私よりだいぶ年齢が上で、優先席の前の吊り革につかまっているから、座りたいのだ。

3 で、私が席を譲ったら自分は若いからと断ったが、じゃあ公衆の面前で断られた私の善意の立場はどうなる?。もし私が黙っていたら、誰が見てもこの初老の男性が座りたいのに私がどかないので困惑している、と見えるだろう。例えこの男性が座るつもりがなかったとしても、傍から見ている人には「そう見える」。

4 それにお年寄りに席を譲るという行為が相手に断られる事によって、その恥ずかしさから次回に同じようなシチュエーションになったとしても今度は「譲らない」ことにしよう、となる若者がいると言うのも事実である。

5 つまりこの初老の男性の行動は、自分一人の問題ではなく、お年寄り全体の問題に「悪影響」を及ぼすのだ。

6 それに優先席となっている以上は「見た目に優先すべき理由」が明確である場合、本人の意思に関わらず優先される「義務」がある。でなければ、毎回「優先席の権利を行使しますか?」と聞かなければならない。

7 この初老の男性は自分じゃ若いつもりなのだろうが、そう思っているのは本人だけで、見た目は完全に老人である。早くそういう事を自覚すべきだ。

8 そんな初老の男性がわざわざ優先席の前に乗り込んで立っていれば、座席に座っている若い人は「席を譲らざるを得ない」ことは明白じゃないか。

9 そういう分かりきった行動をしておきながら、席を譲った私に対して「そういうつもりはない」と断るなんて「ふざけるな!」と怒るのも無理は無い。断るなら「最初っから優先席の前などに立つんじゃない!」。

というのが、私の怒りの分析である。

私はその当時、この理屈が正しいと信じて気分は晴れた。だが今回この老女が、松戸で向かいの席の人が降りた後に座ると思っていたサラリーマン風の男性に「わざわざ振り向いて席を勧められた」時、思わず見せた表情に感謝が溢れているのを目ざとく見つけた私は「やるなぁ」と思ったのである。このサラリーマンはさり気なくさも当たり前のことのように行動していたが、実に清々しい態度である。こういう行動をサラッと目立たず行える人というのは、度量の大きい「本当の大人」だなぁと感心した。いちいち善意に理屈をつける私とは、偉い違いである。

そこで私はこの優先席の問題を、もう一度考えて見ることにした。まずこのシチュエーションで取るべき行動とは何か?

1 優先席に若い私が座ることは当然である。優先されるべき人が座るかも知れない、と言う理由で空席のまま座らないでいる人がいるが、せっかくの座席が有効活用されていないので「間違い」である。そういう人が来たら譲ればいいのであって、わざわざ空けておく必要は全く無い。座らずに目の前に立っている若い人がいるが、むしろ通路を塞いで車内の通行を妨害していることになり、迷惑である。

2 では優先されるべき人が乗り込んできた時に座席に座っている若い人はどうするかと言うと、答えは「何もする必要は無い」である。優先席というのは「本人の座りたいという意思」があって初めて「その意思が優先される」のであるから、座りたい人が「座りたい」と自分の意思をはっきり伝えることから全てが始まる、と私は考えた。だからこの老女は私に「席を譲ってくれますか?」と聞けばよかったのだ。そうすれば何の問題もなく「どうぞ!」と譲ることが出来たのである。

3 もし私の方がこの老女の座りたい気持ちを「勝手に想像して」座りたいんだろうなと思い込み、「どうぞ」と声を掛けるとしたら上手く行く場合もあるが、「調布の時のように上手く行かない」場合もあるのだ。その違いは「立っている人の様子を観察する座っている側の観察眼」の能力にかかっている。ピタリと当たれば「優しい人」だが、宛が外れれば「バカみたい」な痛い人になる。こんな「当てっこゲーム」は人生の無駄遣いでしかない。

4 また老女の側からすれば、何でこの若い人は気が付かないのだろう?と、私の無神経や観察眼の貧弱さに無力感を覚えているかも知れない。もしかすると老人に席を譲らないのはマナー違反だと思っているかもしれない。であれば人の気持ちを推察することが得意な「よく気がつく人」からすれば、私のような「気が付かないボンヤリ」は許し難い社会不適合者に見えるであろう。これは老女の側の気丈な態度が逆に「そんなに大変でもない様子」に見えて、気が付かれないという逆現象を招いている、とも言える。

5 結論:優先席は自由に座り、目の前に優先されるべき人が来て「席を譲ってくれますか?」と言われたら「どうぞ」と譲り、それまでは座ったままで良い、というルールを日本人全員に定着させる。

6 これを「そんなことわざわざ言わなくても分かるじゃん」と、気付きや察しあいを人間の当然な行為のように思っている人は、その考えが「日本を住みにくい国」にしていることに「逆に気付かない」のだと言いたい。眼の前の人が座りたいかそうでないかを「外見や仕草」で判断することは、可能かも知れないが「無駄」である。優先されるべき人というのにも「範囲が不明確」だし、仮に該当していても「調布の時のように本人がその気ではない場合」があり、本当のところは「聞かなきゃ分かんない」のである。

7 じゃあ、毎回聞くのか?というと、私は「それも無駄」だと思う。第一、座る気もないのに「座りますか?」と聞かれるのも、「そんな風に自分は見られているのか」と思えば腹が立つ。つまり無用な一言で平穏無事な社会に波風を立てることになるのだ。肝心なことは「その人が座りたいかどうか」ということなのだから、本人が言うことで「無用なトラブルは皆無」になる理屈である。問題なのは「思っていることを口に出さずとも、察してくれることが最高」の人格者だと勘違いしている日本人の人間観である。何でもかんでも察し合う社会の歪が生み出した悪弊、それが「忖度」であることは今や常識である。

8 社会の成り立ちを考えれば、人と人の交流の基本となることは「自分の意志を正確に伝える」ことである。誤解されるリスクをなるべく減らすための工夫を色々試行錯誤してきたなかで起こった悲劇が、能・浄瑠璃・歌舞伎などになって日本の情念を形作って来た。日本人は誤解するのが普通だからこそ、「分かり合う」ことに美学を見たのだ。曰く「以心伝心」である。だが私に言わせれば「気兼ねなく本音で伝え合う」ことのほうが、「黙っていても分かり合える」関係よりも「より正確に確実に伝わる」と思うのだ。日本人がもっと自分の意見を堂々と口にする機会を増やしていけば、無意味な会議で時間を無駄にすることも無くなるであろう。

9 要は何をしたいのかこちらが気を回して察してあげるのではなく、「席を譲ってもらえますか?」とはっきり口に出すことが生活の第一歩である。そうして何でもかんでも自分の要求を口に出して伝えることから始めれば、行き違いでトラブルことも減るのではないだろうか。これ、私の得た結論であるが意外と日本人の核心を突いていると自負している。

日常のごく些細な事柄から日本人の考え方全般にまで理論を推し進める私の思考方法、意外と「決まってる」と思うが如何だろうか。今回は「立派な大人になるための考え方」を書いてみました。

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