明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

酒とピアノの日々

2015-12-27 12:00:00 | 今日の話題
(23)ピアノ調律師の話 : もう一つのショパンコンクール

1955年の第5回ショパンコンクールは審査員のミケランジェリがアダム・ハラシェビッチの優勝に異を唱え、ウラディミール・アシュケナージの優勝を主張して席を立ち、帰ってしまった事件があった。今にして思えば、ミケランジェリは正しかったと言える。1960年の第6回はマウリツィオ・ポリーニが圧倒的勝利、前回の不祥事を一掃した。1965年の第7回はマルタ・アルゲリッチ、錚々たるメンバーだ。1980年第10回はそのアルゲリッチがイーヴォ・ポゴレリッチ騒動で審査員を辞任するという事件があり、結局ポゴレリッチはベストテンにも入らなかったが、これもアルゲリッチの主張が正しかったと証明された形である。ちなみに優勝はダン・タイソン、僕は彼のモーツァルトの協奏曲全集を持っている。まぁ、いろいろあったけど、世界最高峰のコンクールであることは間違いない。

内田光子も1970年第8回で2位になっていて(日本人最高位)、その時の優勝はギャリック・オールソン、余り知らないピアニストだ。内田光子ももう少し顔立ちが芸術的だったらなと惜しまれる。ピアノコンクールと言ったってなにも技術ばっかりを競うわけじゃなかろう、フォトジェニックな顔立ちと魅力的な体をしてれば、少々技術がなくたって観客受けは抜群に良いはずだが。「舞台で映えるって、大事よね!」って?、内田光子に失礼でしょう。私は彼女の「モーツァルト・ピアノソナタ全集」を買おうかどうか散々迷ったが、最終的に彼女のカリスマ性が足りないという結論に至り、買うのをやめた経験がある(何だよ、結局は顔じゃん!)。まことに申し訳ございません。

で、本題の調律師の話。ミケランジェリの調律師は日本人の村上輝久だったってのは有名な話。ミケランジェリの調律師って、想像するだけで恐ろしくないですか?ところがその村上さんがリヒテルのピアノの調律もやっていたと言うのはさらに驚きです。同じくヤマハだと言うだけでピアノの演奏から普段の人付き合いまで全く違う二人だったが、音に対するこだわりは変わらないってことなのかな。偉大なピアニストの二人に調律師として向き合った村上さんはエピソードをいろいろ本に書いているので、興味のある方は読んでみて下さい。

さてショパンコンクールは5年に一度の開催だが、2010年の第16回大会から、コンクール側は選考で使用する4台のうちの1台をイタリアのファツィオリというピアノメーカーにした。その他は、定番のスタインウェイ、ヤマハ、カワイの三社である。そして今年2015年、そのファツィオリの調律を任されたのが100万人に一人の耳を持つと言われる越智晃である、と、ここからテレビ番組はスタートする。

有名なベーゼンドルファーは、ヤマハの傘下に入りコンクールには出品していないそうだ。バックハウスはベーゼンドルファー好きだったようで、残念なことであるが、一応ヤマハということで同じピアノメーカーが合併したらしい。私の会社の同僚がこないだ、き大阪の事務所のビルの一階にベーゼンドルファーのショールームが入ったという生情報を送ってきた。さすがにフルコンサートモデルは超かっこいいらしい、羨ましい。

越智は当初、一人もエントリー奏者を獲得できないという大ピンチに遭遇する。さあ、クラシック界で後発メーカーの調律師という難題を、越智はどうやって乗り越えたのか?

ここでスタインウェイについて少し時間をとってお話ししよう。時は1836年に遡る。1848年にショパンがが亡くなるまで、弾いていたのはプレイエルだったそう、スタインウェイは弾いてないのですね。スタインウェイはそれまでのサロンに向いたピアノから、大ホールでのコンサートに最適のピアノを目指して構造に革新的な変更を加え、新しい「音」を創り出したらしいです。どんどん力をつけていったスタインウェイはアメリカのニューヨークへ本拠を移し、第一次・第二次世界大戦でライバルのドイツの名門が全滅する中、ピアノの製造を一手に独占する大企業になったのです。それでショパンコンクールの公式ピアノも、第一回以来ずっと使用されています。スタインウェイ抜きにはクラシックは語れない、これ常識ですね。「スタインウェイのDモデル」っつーのが一番いいって話をずっと信じ込んでいたのだが、単に一番大きいコンサートグランドの意味だそうで「エライ恥かいた」私でした(アホ!)。とにかくピアノっていうのは楽器なだけに、全部音が違うんだそうだ。ヴァイオリン並みに音色が違って、その音の違いを作っているのが調律師と聞けば、いかに調律師が重要かわかるでしょう。

2015年、ショパンコンクール優勝者の使用ピアノはスタインウェイ、2位がヤマハ。ファツィオリはファイナリストにも残らなかった。越智さんの戦いはようやくスタートに立ったところ、これから本当の戦いは始まる。ちなみにヤマハとスタインウェイでは、年間製造数に10倍の開きがある。やっぱ日本はすごいね。ファツィオリはと言えば120台に過ぎない。まだまだである。

ところで音楽を、というか音を音符として書く作曲家と、言葉のように感情を込めて「しゃべる」作曲家がいる。ただ音を音符として作曲するのは、一般的だが私は好きではない。前者の代表がベートーベン。一方、後者のグループにはモーツァルトやシューベルトやショパンがいる。見分ける方法は「語るように歌い、歌うように生きる」ことですか。ベートーベンはどうしても音楽という「対象」で、自分とは別のものと感じる。これは単なる好き嫌いではないように思う。ショパンの音楽には作曲家の「憧れやため息」が聴こえてくるし、シューベルトには「嘆きと祈り」が聴く者の涙を誘います。そして生まれながらの語り手モーツァルトは、全ての曲で「会話して」いる。愛し・泣き・笑い・怒り・悲しみ・悩み、そして最後に許しを乞うまで、全て彼の言葉で音楽を綴っているのです。パブロ・カザルスは「モーツァルトは言葉だ」と言っていたそうです。名言ですね。


(24)天皇の話 : 太上天皇という方法

宮内庁は恐ろしく頭の固い連中の集まりだが、それにしても歴史というものを学ばないのだろうか。天皇が終身だというのは案外新しく設定されているルールであり、歴史を紐解けば平安時代の藤原道長の頃から生前譲位という形が多かった。一つは死んでからだと天皇位の継承で争いが起きるのを防ぐため、二つ目は政治的な意図から無理やり退位させられる場合である。現天皇はどちらも該当しないが、しかし超老齢である。

憲法上は天皇は国の象徴と学校で習ったような気がするが、世界第三位の経済大国である日本の象徴がヨロヨロ歩く老人というのは如何なものだろうか。皇太子ですらそろそろ高齢者の仲間入りしそうな昨今、アメリカ並みの40代50代の若い天皇が欲しいと思わないか?

天皇自身いみじくも言っている様に、現天皇の血には韓国の王族の血が混じっているそうだ。これは問題ではないか。第一、歴史がどうであれ今の韓国・北朝鮮から学ぶものは何も無い。韓国の血が混じったのは桓武天皇の時だと思うから1000年以上も前の話だが、未だに口に出るところを見ると余程気になっているに違い無い。この際一気に純血に戻って、新天皇でいくというのはどうだろうか。韓国のケチのついた血統なんか、日本人がありがたがって押し頂く義理もヘッタクレもありゃしない。

というわけで現天皇にはサッサと太上天皇に退いて頂き、新天皇には背の高い細マッチョなイケメンを国民投票で決める、というのはどうだろう。もちろん、品行方正・学問優秀・武芸全般・歌と踊りはEXILE級と、選考基準は国立競技場の比では無いのである。ミスワールドの選考以上に盛り上がることは私が保証する、もしかしたらオリンピックより盛り上がるかもしれない。

オリンピックという一兆八千億もかかる超馬鹿げた大赤字イベントに国民の血税をつぎ込むぐらいなら、せいぜい100億もかければ視聴率75%は堅い物凄いショーが出来る天皇選びの方が、今の日本にとってよっぽど価値があると思いませんか?

こう言うと早速反対する人がいるが大体言うことは分かっている、万世一系を絶やすことは神が許さない、とね。でも万世一系なんて、あなたはまだ信じているんですか?百歩譲って万世一系が守られてるとして、それがどうしたんです?2本あるうちの一本のDNAが同じと言うだけで、何の特別な意味もないじゃないですか、しかも貴方のDNAとは何の関係もないというのに。と、ちょっと熱くなりすぎましたね。

ここで冷静になって沈思黙考、日本人の伝統的なものの考え方が頭をもたげてくるのですね。「貴い血統」という考え方です。日本は、イザナギ・イザナミから綿々と皇統が一度も絶えることなく続いて、神武天皇以来125人目の現天皇が統べる畏れ多い皇国である、とか何とか言って、、、。

天皇制論議はあちこちに問題が生じるので、この辺でやめましょう。兎に角私は現天皇に太上天皇へと退かれ、皇太子に譲位される事をお勧めします。あとは京都御所に引っ越しして、楽しく余生を過ごされては如何でしょうか。和歌など読まれて日本の伝統的文化を花開かせる、というのもアリだと思いますがね。


(25)文明と文化の話 : 古代ローマのコンクリート

日本がまだ邪馬台国と言っていた時に、古代ローマでは巨大な建造物が次々と建てられていた。それが驚くなかれコンクリート製だと言う。超ビックリ!、コンクリートだよ。ローマ人は本当に建造物にかけては世界一だ。日本なんて掘立柱に茅ぶきの時代に、あのパンテオンがすでに建てられていたというのだから恐れ入る。もちろん建築材料は身の回りにあるものから出来ているから、ローマでは大理石などの岩であり、日本は木を使う。それにしても、人類の歴史は分散して発達しお互いに影響することは無い、て事かな。日本は島国で中国・韓国から文物を取り込むことに汲々としていた。世界はその間にエジプト・ギリシャ・ローマ・サラセン・トルコ・ゲルマン、ちょっと多過ぎてわかんないよ。とにかく、現代にあるテクノロジーが全て同じような段階を踏んで、一斉に進化してきたわけでは無いという事だけは、言えるんじゃ無いかな。だってベルサイユ宮殿にはトイレがなかったって話は、あんまり信憑性がないけどすっかり定着しているから本当かも。やはり百聞は一見に如かず、雑学も生活のスタイルを知る上で大事ということかな。人生何事も勉強だね。


(26)振り込め詐欺の話 : いつまでやってるの!

去年一年間で423億円の被害があったという。一体いつまでこういう事をやっているのか、政府の対応は不可思議としか言いようがない。被害にあってるのは一人暮らしのお年寄りで、ATMから振り込んでいるとターゲットは絞り込めてるのだから、対策は簡単じゃないかと思うのだが如何だろうか。被害に遭うのは本人が馬鹿だからと言うのは正しいが、これだけ続くと笑い話ではすまない。

私の案はこうだ。

1、年齢が60歳以上の高齢者

2、仕事を持ってない一人暮らし、または同居人に働いている人がいない

3、現金か預金を200万円以上持っている

以上の条件に合致する人は強制的に口座の残高管理を国が行う事とし、引き出すときは書類を提出して審査する。ただし、3万までは常備資金として手持ちして良い。これで振り込め詐欺は防止できると思いますが。あとは実行するだけである。反対意見は物凄い数が来るであろうが、たとえ自分が大丈夫であっても「被害に遭う人が後を絶たない」現状は、なんとかしなければいけないであろう。

大丈夫な人と危ない人はどう見分けるか。こういう問題が発生すると必ずと言っていい意見が「見分け方」であるが、そういう考え方が振り込め詐欺をいつまでものさばらしているというのが事実である。この際見分けるのではなく、まず振り込め詐欺を無くすことに全力を注ぐべきじゃないかな。もし危険度を見分けて「貴方は振り込め詐欺にかかりやすい」と言われたら、俺は大丈夫と言って預金管理を拒否するんじゃないですか?そんな人が続出して結局は引っかかって泣く人が出る。もう、いい加減にやめませんか、こんな事。

働いてないんだから3万円もあれば一週間ぐらい持つでしょう。そしたら又、市役所に3万円もらいに行けばいいんです。どうせヒマなんだから、市役所のネーちゃんと仲良くしつつ、帰りに居酒屋で酒でも引っ掛けて帰れば、景気浮揚にも貢献しますよ。ちなみに振り込め詐欺被害額を年間500万円位まで減らせれば、成功ですね。買い物はアマゾンで十分できます。1000万円ものお金は、老人には必要ないと思いますけど。

あっ、それと言わずもがななので恐れ多いのですが、お金を3万以上使う時に書類を出すのは「場所を公の機関で行う」のが大事なんであって(つまり市役所の中ってこと)、便利だからって別の場所で行ったら一気に詐欺の危険度が増してしまいますからね、ご注意を。まさか市役所のカウンターの中の人は、振り込め詐欺の片棒を担いだりはしないでしょうから。面倒くさいと言う人は、振り込め詐欺の犯人に協力する人と言う事で「逮捕しちゃうぞ!」です。理屈じゃなく、こういう「実効ある対策」を実施できるかどうかで、政府の実行力が問われているんですよ、安倍さん!


(27)ファッションの話 : ボトムラインの時代の流れ

今年はズボンが細くピッタリしたのが流行っているようだ。これはここ数年の傾向で、去年スキニーパンツと言っていたのが今年は何も言わずに定番になった。女性だけじゃ無く男性用にもこの流行がやって来て、今やファッション界は男女を問わずピタパンが席巻している。この間ハリウッドの古い映画を見たら気がついたのだが、昔は上から下までストレートだった。太ももから足首までストレート、お尻もゆったりなら唯の田舎親父だが、そこはハリウッドの伊達男、ダブルの上着の裾周りは腰回りにピッタリのスッキリタイプで超オシャレなのだ。昔は上着がピッタリでパンツはだぶだぶ、今は上着もパンツもピタピタ、流行は繰り返さないようだ。ダイエットブームは男も部外者ではなくなった。いまや仕事が出来る男は、スーツもピタパンが当たり前の時代に突入である。

ピタパンが全盛のお陰でスカートも超ミニ、脚が太い女性は行き場がなくなり、どうしようもない状況が続いているのだ。いまや顔が可愛いとか胸がふくよかとか、「残念だね」って言われるために存在する位、みじめである。いつからこんなになっちゃったのか、ホント女性に生まれなくて良かったよ。しかし足というのは差が出るね~。魅力的な顔立ちで脚がぶっといのと、顔はへちゃむくれなのに脚が超キレイだったら、間違いなく後者を選びますね私は。理由は、前者は脚が太いということで「劣等感ありあり」なのに、後者は脚がキレイということで「優越感バリバリ」だから、二人並ぶと必ず後者が勝利するって事。顔は「所有物」ではないので比較の対象とは意識されにくく、「顔以外」の部分が比べられる、つまり「劣等感と優越感」の戦いで勝負ありなのだ。

では胸の膨らみと脚ではどうかというと、脚は思いっきり露出が可能なのに比べ、普段ポロっと出せない分、胸は半歩脚の後塵を拝している。もちろん顔も足も胸も全てが魅力的なら問題ないが、そういう人はそういう人で悩みが多いものである。どれも三流のナイナイ女史は、今世は諦めて来世に望みをかけるとしましょう。世の中上手く出来ているとつくづく納得するのが恋愛で、そう言う三流女史が実は心が綺麗だったりするから困っちゃうのだ。結局トータルではイーブンてこと。ピタパンはしばらく続きそうなので皆さんボトムはなるべく暗い色目にして膨張しないように工夫し、上着で派手目のコーディネートを心がけましょう。


(28)夫婦別姓の話 : 同姓でも別姓でも

今の世の中、変な事で大騒ぎするようだ。結婚して苗字をどうするかを大真面目で議論しているという。

戸籍上の苗字は、その人の実体を法律上定めた「アイデンティティ」である。それを結婚という生活のスタイルをどうするかという問題とセットするのは、その人の「社会的なID」をその人の「個人的なID」よりも優先する悪癖であり、女性の人間性の否定であると言いたい。

山田さんという女性がいるとする。結婚して佐藤さんに変わっても、会社では山田さんのまま通称で通せるから不都合はないと経団連の会長が発言したそうだが、冗談じゃない。人間の苗字つまり人間の実体を、会社が不都合かどうかという他人の都合で判断するという「会社の所有物」みたいな考えだから、いつまでたっても日本は女性の人権が低いのである。この経団連の会長は頭がバカなんじゃないだろうか。いや、この人だけではない、裁判官からして相当なバカである。人間の苗字というのは結婚なんかで簡単に変わるものじゃない。大体、結婚はせいぜい30才から70才くらいの40年間、人間としての一生は今や100才くらいはザラである。

小学校の友達を30年後に探そうと思っても、女性の場合は難しいという話をよく聞くが、個人は自分の生活のあらゆる所で戸籍上の苗字による関係を築いてきた。結婚する年齢がより高齢化している現代は、より密接で身体の一部にさえなっているのが現実である。現代では個人と社会とがつながっている、家と社会ではない。個人を表す苗字を変えるという事は「社会とのつながりを絶つ」事である。苗字を夫の苗字に変えるというのは「過去を絶ち、夫の家に入る」ことを女性に強要し、その事を当たり前に思って疑問視してこなかった男性側の論理であり、旧態依然とした明治の馬鹿げた風習である。

平成の世の中、女性が男性と同じ人間としての「権利と自覚」をもって社会に貢献できるかどうかはまず、人間個人としてのアイデンティティを「一生付き合っていく自分のID」として固定する事から始めようではないか。自分のIDを他人からどうこう言われて変えるの変えないのって、そもそも大きなお世話である。第一遺伝的には、山田さんと山田さんの奥さんとは「全く関係ない」のである。夫には夫の父や母また祖父や祖母の長~い家族の歴史があり、同様に母には母の歴史がある。どちらが大事ということはないのである。

私の考えでは

1.戸籍上の苗字は、結婚によって変える必要はない。

2.社会的に夫婦同姓が都合がよければ「通称」を変える

3.ただし法律上有効な苗字は、戸籍上の苗字1つと通称1つの計2つとし、銀行口座やクレジットカードの苗字はどちらを使っても良い

4.官公庁などの登録は原則、マイナンバーを使う

以上だ。

変えるのは通称であって戸籍上の苗字はいじらない、この発想が重要だ。女性も働く時代、男女が平等な立場で意見を戦わせる世の中にしていかねばならないこの時に、まだ個人より家や社会通念を優先させる風習こそ、真っ先に改革すべきである。その覚悟があるのかないのか、政府・経団連・裁判所を含め日本人の「個人一人一人」が問われている、私はそのように感じるニュースでした。

追記:夫婦の財産は今まで一緒として扱っていたが、個人のIDが変わらないので今後は「財産はあくまで個人の物」となる時代が来ると確信しています。その代わり、離婚後の生活補助など女性に優しい制度は、今後はより弱者に有利な適用が求められる事になると思います。いろいろ変わらなきゃいけないですね。

追記2:マイナンバーが個人個人の番号なので、戸籍も考え方をやめて「個人の台帳」とする。戸籍とは元々租庸調の課税単位として作られた台帳であり平安時代の延長であるからそろそろ改めても良い頃である。個人台帳にして、祖父母両親兄弟子供などの血縁者はマイナンバーで関係を表示できるようデータベース化すれば、すべて処理できる。もう現実的に家という観念で個人を拘束できる時代ではないのだ。勿論、家という観念が家族の結束に不可欠だと考える人はそうすればいい。ただ、自分がそうだからと言って「法律で他人を縛る」のは、もう止めようということである。案外これは旧世代・新世代のリトマス紙になるかな。20年くらいすると、当たり前になっているかもね


(29)酒の話 : 八海山

先日アマゾンで、全国新酒鑑評会 金賞受賞酒蔵 呑み比べセットというのを購入した。300mlの5本セットで、越乃寒梅・八海山・ふなぐち菊水・天領盃・鶴齢が組み合わされている。新潟の有名どころを選び、原料米は菊水は不明だが、後は五百万石が主体。呑み比べ初心者には入りやすい。

3日程で届いたので早速八海山から飲んでみた。実は八海山には余りいい噂がなくて期待してなかったのだが、当たりだった。5本で3550円だから1本700円、考えて見れば美味い筈だ。精米歩合60%だから吟醸酒の分類に入るが、ラベルのどこにも書いてないのは味に先入観を持たすまいという親心と私は見た。常温で呑んだが燗にしたらまた良い味が出そうな雰囲気である。円やかな口当たりで口に含むと吟醸香とともに舌先にトロみを感じ、舌の上でしばし転がすとふくよかな柔らかい米の旨みが楽しめる。最後に吞み込む時の喉の奥の方の「通過味」が、しっかりした甘みとアルコールの刺激が相まって心地よい満足感を得られる逸品である。八海山、侮るべからず。

次に越乃寒梅を呑んだが、こちらは味が尖っていてアルコール度数も高い印象である。盃に一杯呑んだだけなので、詳しい分析は後日にしようと思う。期待しててください。この項は、私の友人であり飲み友達のSさんとSさんに捧げることにします。(あれ、二人ともSさんだった、どっちがどっち?)

追加 : 酒を飲む時、うつむき加減に顎を引いて飲むと味が劇的に変わるのを見つけた!今までは豪快に上向きに顎を突き出し加減にして流し込んでいたが、こと日本酒にかんしては「下向き」が宜しいようだ。お試しを。


(30)戦争の話 : 戦争の本当の理由

戦争は人類史始まって以来ずっと継続している行為である。歴史上いくつか平和な時期があったが、永続性はなかった。何故なのか?

国を奪うという事が富の獲得につながる時代は、富が戦争の大きな理由であった。その場合は富を奪い取った後、荒廃した国は打ち捨てられて次のターゲットに向かったと思う。領土を拡張するという事が権力の誇示につながる時代は、権力の奪取が戦争の大きな理由であった。その場合は権力者の死が後継者争いを生み、また新たな戦争の原因となった。

要は、富と権力欲が戦争の理由である。世界の歴史を見てもこの2つが原因の戦争が大半を占めている。これに民族と宗教を加えれば、戦争の原因の全てが揃う。では、これらの「戦争の四大原因」をストップ出来るのか。

富と権力、これらは人間の欲望を表しているが、突き詰めてみると「他人より自分の方が力がある=優れている」ことの表現の違いに過ぎないと言える。才能や技術といった明確な基準のあるものは、誰でも手に入れられるものではないだけに仲間が作りにくいが、富と権力はグループ全体が潤うので勢力が作られ、その勢力が更に富と権力を生む構図を形作り無限ループとなって拡大してゆく。

要は、自分が優れているという事を「他人に認められたいという欲望」が、富と権力の根本である。では宗教と民族の場合はどうかというと、形は異なっていても究極のところ「他人より優れている」ということを誰もが認めることに他ならない。ただ自分を他人と分ける線引きが、民族は生まれであり宗教は神の違いであるということ。どちらも、子供の頃に刷り込まれているので、大人になってから選ぶというのは稀である。この「認められたい欲望」は、人間の根本に深く根ざした原罪なのだろうか。人間は一人一人個別の存在であり、現代では宗教や民族を超えて個人のアイデンティティが最優先されるべきである。

戦争反対とか核兵器廃絶とか、誰しもがそうありたいと願うメッセージが実現できないのは、根本原因を止めないからである。オリンピックで日本がいくつ金メダルを取ったかで大騒ぎする人が戦争反対を訴えても何となく説得力がないのは、その同じ人がいとも簡単に戦争を起こす事実を皆んな分かっているからではないだろうか。戦争とゲームは違うと考えている人は、戦争がどれだけ単純な競争意識で始まるか歴史に学べば明らかである。戦争はコストがかかるから自然とブレーキがかかると思っている人は、過去の戦争で勝った方がどれ程儲けたか分かってない。勝った側から考えると、コストが一番かからないのが戦争なのである。

だがそれは国レベルでの話だ。実際には戦争に駆り出され戦いをするのは我々一般国民なのだ。理由はいくらでも後から付けられる、所詮は「他人の褌で相撲を取る偉いさん」が儲かる。それが戦争であり、「自分の方が優れている」ということを他人に認められたいという欲望を満たすためのゲームなのである。個人の才能や技術が他人より優れているか競争するのは最小限の欲望として認めることとしよう。違いは事実でありどちらの方がより優れているかは誰が見ても明らかであるから、人間が生きいく上で生活のあらゆる場面に登場する「比較の優劣」は人間の根本だともいえる。だがその後が戦争と平和の別れ道だと私は思う。

勝ち負けが決まった時、誰もが勝者を称賛する。フィギュアスケートの羽生結弦が世界最高点で優勝した時、日本人として貴方は嬉しくなかっただろうか?羽生結弦と同じ民族である(とされる)日本民族に自分も連なっている「から」、自分もあの世界最高点を生み出す可能性がDNAに少しは混じっているかもしれない、つまり自分はロシア人やカナダ人よりもフィギュアスケートの潜在能力が高いつまり、自分は「偉い」という、言わば風が吹けば桶屋が儲かる式の連想から結論付けた「優性民族意識」の表れなのである。

確かにジャンプ力や敏捷性の点で、日本民族は優秀な人が多いのは事実である。でもそのことと「貴方が優れているかどうか」は100%別次元の話なのだが、それを認めようとしない。人間は弱く不満タラタラの存在であるからこそ、スーパーな存在に自分と連なる何かを見出そうと必死の努力をする。そして最終的に、戦争を完全には否定できない心の鬱屈を生み出してしまう要因ともなっているのである。戦争の芽は、あなた方の「心の弱さ」の中にある。

私はクリスマスの夜そんな事を考えながら、CDでウィーン少年合唱団の聖しこの夜を聞いていた。その時間にもシリアやイラクでは人々が戦争をしていて、まだまだ戦争の無い世の中には程遠い状況である。果たして人々は戦争を止める気があるのかどうか、私には死ぬまで解らない事かもしれないなって思ってこの項を終わる事にした。ただ、個人のアイデンティティを最優先する生き方を貫くのなら、国のために死ぬことは英雄でも何でもなく、ただ戦争を増幅しているに過ぎないのだ。戦争をやめるには、「戦争を生み出す元となる欲望」を捨てなくてはならない。それができるかどうか、である。



それでは最後になりますが、本年はブログにお付き合い頂き誠に有難う御座いました。
来年は、皆様方全員に良いお年を!


⭐️年明けは正月らしく、楽しい話を書きますのでご期待ください。


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