煽り運転裁判のニュースを見ていたら、新事実が出て来て驚いた。進入路に停車している加害者の車に、被害者が「邪魔だ、ボケっ!」と言った、というのだ。これで加害者被害者双方の印象が「ガラッ」と変わったからである。売り言葉に買い言葉で石橋容疑者がキレたのは、どうも間違いなさそうだ。最初ニュースでは「被害者が注意した」と報じていたが、ちょっと注意したと言うより「罵倒した」とも受け取れる。被告が被害者の車を高速道路で追い回して停車させたのは事実であるが、「ぶっ殺してやる云々」の言葉にさほどの真実味があるようにも思えない。これは脅しの常套句とみるのが正しいようだ。つまり明確な殺意は感じられない。被害者が死亡したのは「第一義的にトラックによる追突」で、事故に分類されるべきものと考えるのが妥当だろう。ただ「高速道路上の追い越し車線」ということを考慮すると、被告の行為により「追突される危険」が重大な結果をもたらすことは、容易に予測できたはずである。同乗する女性が一緒に降りていることからも、この男女ともに「生命を脅かす危険な状況だ」ということが「充分認識出来ていなかった」ことは一目瞭然である。これらから分かることは、石橋容疑者・同乗者ともに普段から粗暴な性格であるということだ。石橋被告の頭の中には「いきなり罵倒された」以外の意識はなく、自分の不注意で進入路に停車していたのは悪いことかも知れないが、「ボケ!」は言い過ぎだろう、という思いがあるのだろう。逆恨みである。この手の粗暴な人間にはよくあることで、「自分に非はない」と今でも思っている筈だ。私は石橋被告がどのような罪になるのか分からないが、「煽り運転云々」というよりも「暴言を吐いた被害者を何とか謝らせたい一念」で車を追い回し「停車させた」という行動から考えると、もっと冷静であれば追い越し車線上で停車させるのではなく、「パーキングエリアで停車」させるという方法もあった。または「被害者が指示する」ところで、より安全な状況で被害者を問い詰める方法もあったと思う。何より高速道路上で騒いでいたのは石橋被告の方なのであるから、追突したトラックが石橋被告を轢いている可能性も大なのだ。何はともあれ、被害者が「言い逃げ」のような形で走り去ったことが、この事件の全ての発端である。
そこで、私の考えたことを書こう
1 ルール違反またはマナー違反の相手が「もし知人だったら」どういう言い方になるか?
答えは「そこで停車してると邪魔になりますよ」である。これは、相手が社長や上司など目上の人、または取引先など礼儀を必要とする相手の場合も同じである。多少の言い方、つまり敬語の使用方法で違いがあるが、本質的には「相手に間違っていることを伝え」ることで、終わる。大抵の場合は「相手も自分の間違いに気付く」ので揉め事は起きない。
2 同様に相手が「部下や友人など」の目下の者の場合はどうかというと、目上の人と違って言葉は荒くなるが、基本姿勢は変わらない。相手に間違いを気付かせるのが目的であるから、言い方自体は多少キツくなったとしても、相手の人格まで否定するような「言い方(つまり言葉や表情や態度)」はしないのが普通である。もし仮に「邪魔だ、ボケ!」と怒鳴ったとしても、言ったのが粗暴な上司であれば「すみませぇーん、です!」位で済ませるであろう。何しろ粗暴なのである。私は特別知っているわけではないが、映画などで見る限りでは「ヤクザや半グレ」のような集団では、あり得ないことではない。いつも喧嘩している「家族」なども、この範疇に入るだろう。
3 では見ず知らずの人が相手の場合はどうなのか。この場合は注意する側の心理に、「a. 間違いを正す)場合と、「b. 相手を罵倒する」場合の2つが考えられる。
a. の場合、「知人の時」と同じになりそうである。特に問題になりそうな部分は、ない。
b. の場合、注意する側の心理には、
「1 何でこんなところに停まっているんだ?」、と疑問が先ず湧いてくる。次は
「2 ここは進入路なんだから、停車したら周りの車に迷惑だろうが!」、と怒りの感情が出てくる。その次には
「3 車を停めたいのなら、他でしろ!ボケっ!」とエスカレートして車を寄せ、窓を開けて怒鳴ってしまった、
と想像したのだが、それほど違ってはいないだろう。私も2までは「しょっちゅうある」から、この被害者の思考パターンには馴染みがあるのだ。要は、「こんな簡単なルールが何故分からないのか、このボケっ!」である。ルールというのは全員が守って初めて機能する。ルールを守らない人が一人でもいると、「ルールを守ろうとしないこと」に対して怒りがこみ上げてくるのである。ルールを知ってはいるが「それほど厳格に守る必要もない」と考える人や、ルール自体を軽視しあるいは気付かない人、など全て「ルールを生活の基本」として捉えていない人々である。例えばゴミ出しの問題、例えば混んだ駅の通路での歩きスマホの問題、例えば列の割り込み問題、例えば公共の場での喫煙問題、数え上げれば切りがない。全ては大勢の人が生活の上での行動を円滑に且つ公平に行うために守るべき規範であり、規範を守ることでしか「社会生活が円滑に送れない」最低限の約束事を表すもの、それが「ルール」であると私は思っている。中には面倒くさいものも含まれているが、より良い方法に変更するにしても「変更するまでは」現状のルールに従うべきである。皆んながそのルールに従っていることがルールの前提であるから、いくら素晴らしい方法であっても、自分一人しか知らない方法では「ルールとは言えない」のだ。逆に「誰でも知っている筈」のことが出来ない場合や、「誰でも分かる事」を勝手に解釈して迷惑を掛けている場合や、ルールの運用を間違えている例もある。
地元の問題で恐縮だが、近くのセブンイレブンの横に「高島屋のタワー型駐車場ビル」がある。この駐車場の出入り口は「三叉路の、横断歩道のある信号」の眼の前についている。そこから出てくる車両を信号の直前まで移動して待機させるもんだから、信号が赤になって車道を通る車が止まり、初めて駐車場から出てきた車が車道に出られるまでの間、ずっと歩道を「通せんぼ」のまま停まっているのだ。私が「赤になるまで駐車場で待っていないのはおかしい」と係のおじさんに文句を言ったら、「道路交通規則には、駐車場から車道に出る時には一旦道路際まで出て停まって待つ」と書いてあるのでそのとおりにしているだけです、と一方的に言い放つだけで、まるで「規則を知らないオマエが何を言っているんだ?」と言わんばかりの応対であった。規則は「駐車場からいきなり車道に合流すると、歩道を通行してくる自転車・歩行者と衝突しかねない」から、一旦停まって安全を確保してから合流しろ、と言っているのである。この場合は信号が赤になるまで車は切れ目なく通っているので、「駐車場内で信号が変わるタイミングで」出ていくのが正しい。そのことは「誰が考えても当然」なのに、この係は規則に書いてあることを杓子定規に真に受けて「歩行者無視」の行動を正当化しているのである。「このようなアンポンタンは、警察から直接指導してもらうしか無い」のであるが、法の適用というのはまず「その法の目的」を知ることが肝心なのだ。この係は「そこが抜けていた」のである。ちょっと横道にそれたが要するにルールの目的を知り、ルールの正確な適用方法を会得することが市民全員には求められているということだ。で、問題の「煽り運転事件の被害者」は、どのような注意の仕方が正しかったのか、検証してみよう。
1 まず被告の行為がルールに反していることを告げる。例えば「そこに停まっているとルール違反ですよ」と言うことである。
2 それに対して被告の側は3種類の対応が考えられる。
1つ目は「そうでしたか、気が付きませんでした。どうもありがとう」という答え方、紳士である。というか、紳士であると同時に馬鹿である。「そんなことも分からないのか、このタコ!」といいそうになるがグッとこらえれば、注意する立場の人は合格である。
2つ目は言われたほうが「テメエに言われたくねえよ、このカスが!」と逆ギレする場合である。テメエに言われたくないと言っているので、一応このルールがあることは知っていて、自分がその適用対象であることも分かっているのだ。だがこの「オマエに言われたくない」という考えが世の中にはとても多いのである。自分と相手との人格・優劣・社会的身分・腕力の差などなどで自分より格下と見える相手に、「注意される事」が耐えられないというのだ。ルールというのは万人共通の決まりごとである。例え相手が小学生でも「ルールの適用範囲を知っているなら」、知らなかった貴方より上であり先生である。「なんだこの野郎、子供のくせに生意気な」と息巻くのはルールを知らないクズで、ご法度である。もちろんルールを知っているというだけで、この小学生が貴方より「上位の人間」になるわけではない。とかく人間(動物全般そうなのだが)は、勝った負けたに拘り過ぎる。勝負は「そんな小さい事でやるものではない」のだ。偉大な人物は「小さいことには拘らないもの」である。
3つ目は、ルールに反していると言われていても全く意に介さず「俺がルールとかに反してるって?、ええ?、どの口がそんな偉そうなことをくっちゃべっているんだ?ああ?」と、恐ろしいほど覚めた目付きで絡んでくるタイプだ。こういう輩はそもそも「ルールは俺様」という生き方を選んで肩で風を切っている反社会的勢力の人であるから、無闇に注意したりせずに「警察に任せたほうがいい」だろう。お金にもならない事で人を殴って暴行罪で刑務所に行くのは彼らにしても割が合わないので、大人しくしてれば怪我することは無いと言える。触らぬ神に祟り無し、である。
結局今回の事件は被害者の側が「相手にルールを教える、または気付かせる」ことだけを考えていれば、少しは違った結果になっていたであろう。「邪魔だ、ボケ!」という言葉がどういうやり取りの末に出てきた言葉なのか、または言葉自体が誤報なのか、詳しく知るすべもないので「仮に、通りすがりにこの言葉を投げつけて走り去った」とすれば、少しは被害者側にも落ち度があったと言えるのではないだろうか。あるいは追いかけて来て車を停めさせた石橋被告が自分の車から降りてきたタイミングで「車を発車させて逃げ、PAなどに入り警察を呼ぶ」など、大事に至らない方法もあったと思う。江戸時代には「ケンカ両成敗」というルールがあった。例えどんなに片方が悪くて誰が見てももう一方が正しい、と言う場合でも「ケンカしたら両方を成敗する」という武家諸法度の一つである。これは刀を持った武士が争えば、どちらかが死ぬまで止めないだろうと見越しての法律である。武家にとっては「私闘」が最大の禁止事項であるということの証拠でもある。赤穂義士で有名な松の廊下の刃傷事件は、吉良上野介がお咎め無しなのに比べ、浅野内匠頭は申し開きなど一切聞かずに即刻切腹させられている。これは吉良が刀を抜かずに一方的に切られたことが評価された、と歴史家は言う。浅野内匠頭の言い分がどうであれ、城内で刀を抜いたのだから切腹は免れない、それがルールである。今回の被害者に落ち度があったとするなら、最初に石橋被告を注意した時、石橋被告が「ルールの指摘を受けても納得していない」表情であれば、ルールをしっかりと説明するために「車を停めて話をすべき」であった。もし、高速道路の進入路のような人がいない場所でそういったトラブルに巻き込まれる事態が想定されるなら、本来は注意すべきではあるが「今回は黙って通り過ぎる」方が自分の安全のためには適切であると判断しても良かったのではないか。そういう覚悟がなければ「注意」というのはするべきではない。世知辛い世の中になったと嘆くのは仕方ないにしても、自分が怪我をしたら元も子もないではないか。警察に任せるのが最適である。中には逆恨みする人もいるから、「逆恨み」で犯罪を犯したら普通の場合より「重い刑罰」にすることも必要である。「ルールを守り、ルールに反した人を注意する立派な市民」が怖い思いをする位なら黙っていたほうがいい、とならない工夫を警察もするべきである。
結論:今回は被害者側にも「暴言を吐き、言い逃げ」の落ち度があり、「煽り運転」の嫌がらせをしたというより、追いかけて「一言文句を言い、脅かして謝らせたい」という気持ちで頭が一杯になったていたのは間違いない。頭に血が上っている石橋被告は高速道路の追い越し車線であることを「すっかり忘れて」停車させ、車から降りて被害者の胸ぐらを掴んだ、という一連の行動を取ったのである。石橋被告の行動は充分危険ではあるが「危険運転致死傷罪」に当たるというのは拡大解釈の要素も有り得ると私は思っている。まあ、追い越し車線である、という点が争点になるか、というところだろう。今回の被害者側の発言の事実が明らかになったことで、石橋被告の「逆恨み」罪とトラックの追突事故という2つのファクターが見えて来たのである。
だが私は石橋被告が2、3年の軽い刑で済ませることには賛成しない。被害者が怒りを誘発したのは確かだが、それを我慢もせず追いかけて「正真正銘のケンカ」に発展させた石橋被告は、被害者とその妻が死亡し幼い子供が交通遺児となった責任を取るべきであろう。ここは「ケンカ両成敗」で懲役20年、というのが妥当と考えるが如何でしょう。罪はないが責任はある、という判決である。
こういう風に、21世紀の大岡裁判があっても良いのではないか、私の意見である。
そこで、私の考えたことを書こう
1 ルール違反またはマナー違反の相手が「もし知人だったら」どういう言い方になるか?
答えは「そこで停車してると邪魔になりますよ」である。これは、相手が社長や上司など目上の人、または取引先など礼儀を必要とする相手の場合も同じである。多少の言い方、つまり敬語の使用方法で違いがあるが、本質的には「相手に間違っていることを伝え」ることで、終わる。大抵の場合は「相手も自分の間違いに気付く」ので揉め事は起きない。
2 同様に相手が「部下や友人など」の目下の者の場合はどうかというと、目上の人と違って言葉は荒くなるが、基本姿勢は変わらない。相手に間違いを気付かせるのが目的であるから、言い方自体は多少キツくなったとしても、相手の人格まで否定するような「言い方(つまり言葉や表情や態度)」はしないのが普通である。もし仮に「邪魔だ、ボケ!」と怒鳴ったとしても、言ったのが粗暴な上司であれば「すみませぇーん、です!」位で済ませるであろう。何しろ粗暴なのである。私は特別知っているわけではないが、映画などで見る限りでは「ヤクザや半グレ」のような集団では、あり得ないことではない。いつも喧嘩している「家族」なども、この範疇に入るだろう。
3 では見ず知らずの人が相手の場合はどうなのか。この場合は注意する側の心理に、「a. 間違いを正す)場合と、「b. 相手を罵倒する」場合の2つが考えられる。
a. の場合、「知人の時」と同じになりそうである。特に問題になりそうな部分は、ない。
b. の場合、注意する側の心理には、
「1 何でこんなところに停まっているんだ?」、と疑問が先ず湧いてくる。次は
「2 ここは進入路なんだから、停車したら周りの車に迷惑だろうが!」、と怒りの感情が出てくる。その次には
「3 車を停めたいのなら、他でしろ!ボケっ!」とエスカレートして車を寄せ、窓を開けて怒鳴ってしまった、
と想像したのだが、それほど違ってはいないだろう。私も2までは「しょっちゅうある」から、この被害者の思考パターンには馴染みがあるのだ。要は、「こんな簡単なルールが何故分からないのか、このボケっ!」である。ルールというのは全員が守って初めて機能する。ルールを守らない人が一人でもいると、「ルールを守ろうとしないこと」に対して怒りがこみ上げてくるのである。ルールを知ってはいるが「それほど厳格に守る必要もない」と考える人や、ルール自体を軽視しあるいは気付かない人、など全て「ルールを生活の基本」として捉えていない人々である。例えばゴミ出しの問題、例えば混んだ駅の通路での歩きスマホの問題、例えば列の割り込み問題、例えば公共の場での喫煙問題、数え上げれば切りがない。全ては大勢の人が生活の上での行動を円滑に且つ公平に行うために守るべき規範であり、規範を守ることでしか「社会生活が円滑に送れない」最低限の約束事を表すもの、それが「ルール」であると私は思っている。中には面倒くさいものも含まれているが、より良い方法に変更するにしても「変更するまでは」現状のルールに従うべきである。皆んながそのルールに従っていることがルールの前提であるから、いくら素晴らしい方法であっても、自分一人しか知らない方法では「ルールとは言えない」のだ。逆に「誰でも知っている筈」のことが出来ない場合や、「誰でも分かる事」を勝手に解釈して迷惑を掛けている場合や、ルールの運用を間違えている例もある。
地元の問題で恐縮だが、近くのセブンイレブンの横に「高島屋のタワー型駐車場ビル」がある。この駐車場の出入り口は「三叉路の、横断歩道のある信号」の眼の前についている。そこから出てくる車両を信号の直前まで移動して待機させるもんだから、信号が赤になって車道を通る車が止まり、初めて駐車場から出てきた車が車道に出られるまでの間、ずっと歩道を「通せんぼ」のまま停まっているのだ。私が「赤になるまで駐車場で待っていないのはおかしい」と係のおじさんに文句を言ったら、「道路交通規則には、駐車場から車道に出る時には一旦道路際まで出て停まって待つ」と書いてあるのでそのとおりにしているだけです、と一方的に言い放つだけで、まるで「規則を知らないオマエが何を言っているんだ?」と言わんばかりの応対であった。規則は「駐車場からいきなり車道に合流すると、歩道を通行してくる自転車・歩行者と衝突しかねない」から、一旦停まって安全を確保してから合流しろ、と言っているのである。この場合は信号が赤になるまで車は切れ目なく通っているので、「駐車場内で信号が変わるタイミングで」出ていくのが正しい。そのことは「誰が考えても当然」なのに、この係は規則に書いてあることを杓子定規に真に受けて「歩行者無視」の行動を正当化しているのである。「このようなアンポンタンは、警察から直接指導してもらうしか無い」のであるが、法の適用というのはまず「その法の目的」を知ることが肝心なのだ。この係は「そこが抜けていた」のである。ちょっと横道にそれたが要するにルールの目的を知り、ルールの正確な適用方法を会得することが市民全員には求められているということだ。で、問題の「煽り運転事件の被害者」は、どのような注意の仕方が正しかったのか、検証してみよう。
1 まず被告の行為がルールに反していることを告げる。例えば「そこに停まっているとルール違反ですよ」と言うことである。
2 それに対して被告の側は3種類の対応が考えられる。
1つ目は「そうでしたか、気が付きませんでした。どうもありがとう」という答え方、紳士である。というか、紳士であると同時に馬鹿である。「そんなことも分からないのか、このタコ!」といいそうになるがグッとこらえれば、注意する立場の人は合格である。
2つ目は言われたほうが「テメエに言われたくねえよ、このカスが!」と逆ギレする場合である。テメエに言われたくないと言っているので、一応このルールがあることは知っていて、自分がその適用対象であることも分かっているのだ。だがこの「オマエに言われたくない」という考えが世の中にはとても多いのである。自分と相手との人格・優劣・社会的身分・腕力の差などなどで自分より格下と見える相手に、「注意される事」が耐えられないというのだ。ルールというのは万人共通の決まりごとである。例え相手が小学生でも「ルールの適用範囲を知っているなら」、知らなかった貴方より上であり先生である。「なんだこの野郎、子供のくせに生意気な」と息巻くのはルールを知らないクズで、ご法度である。もちろんルールを知っているというだけで、この小学生が貴方より「上位の人間」になるわけではない。とかく人間(動物全般そうなのだが)は、勝った負けたに拘り過ぎる。勝負は「そんな小さい事でやるものではない」のだ。偉大な人物は「小さいことには拘らないもの」である。
3つ目は、ルールに反していると言われていても全く意に介さず「俺がルールとかに反してるって?、ええ?、どの口がそんな偉そうなことをくっちゃべっているんだ?ああ?」と、恐ろしいほど覚めた目付きで絡んでくるタイプだ。こういう輩はそもそも「ルールは俺様」という生き方を選んで肩で風を切っている反社会的勢力の人であるから、無闇に注意したりせずに「警察に任せたほうがいい」だろう。お金にもならない事で人を殴って暴行罪で刑務所に行くのは彼らにしても割が合わないので、大人しくしてれば怪我することは無いと言える。触らぬ神に祟り無し、である。
結局今回の事件は被害者の側が「相手にルールを教える、または気付かせる」ことだけを考えていれば、少しは違った結果になっていたであろう。「邪魔だ、ボケ!」という言葉がどういうやり取りの末に出てきた言葉なのか、または言葉自体が誤報なのか、詳しく知るすべもないので「仮に、通りすがりにこの言葉を投げつけて走り去った」とすれば、少しは被害者側にも落ち度があったと言えるのではないだろうか。あるいは追いかけて来て車を停めさせた石橋被告が自分の車から降りてきたタイミングで「車を発車させて逃げ、PAなどに入り警察を呼ぶ」など、大事に至らない方法もあったと思う。江戸時代には「ケンカ両成敗」というルールがあった。例えどんなに片方が悪くて誰が見てももう一方が正しい、と言う場合でも「ケンカしたら両方を成敗する」という武家諸法度の一つである。これは刀を持った武士が争えば、どちらかが死ぬまで止めないだろうと見越しての法律である。武家にとっては「私闘」が最大の禁止事項であるということの証拠でもある。赤穂義士で有名な松の廊下の刃傷事件は、吉良上野介がお咎め無しなのに比べ、浅野内匠頭は申し開きなど一切聞かずに即刻切腹させられている。これは吉良が刀を抜かずに一方的に切られたことが評価された、と歴史家は言う。浅野内匠頭の言い分がどうであれ、城内で刀を抜いたのだから切腹は免れない、それがルールである。今回の被害者に落ち度があったとするなら、最初に石橋被告を注意した時、石橋被告が「ルールの指摘を受けても納得していない」表情であれば、ルールをしっかりと説明するために「車を停めて話をすべき」であった。もし、高速道路の進入路のような人がいない場所でそういったトラブルに巻き込まれる事態が想定されるなら、本来は注意すべきではあるが「今回は黙って通り過ぎる」方が自分の安全のためには適切であると判断しても良かったのではないか。そういう覚悟がなければ「注意」というのはするべきではない。世知辛い世の中になったと嘆くのは仕方ないにしても、自分が怪我をしたら元も子もないではないか。警察に任せるのが最適である。中には逆恨みする人もいるから、「逆恨み」で犯罪を犯したら普通の場合より「重い刑罰」にすることも必要である。「ルールを守り、ルールに反した人を注意する立派な市民」が怖い思いをする位なら黙っていたほうがいい、とならない工夫を警察もするべきである。
結論:今回は被害者側にも「暴言を吐き、言い逃げ」の落ち度があり、「煽り運転」の嫌がらせをしたというより、追いかけて「一言文句を言い、脅かして謝らせたい」という気持ちで頭が一杯になったていたのは間違いない。頭に血が上っている石橋被告は高速道路の追い越し車線であることを「すっかり忘れて」停車させ、車から降りて被害者の胸ぐらを掴んだ、という一連の行動を取ったのである。石橋被告の行動は充分危険ではあるが「危険運転致死傷罪」に当たるというのは拡大解釈の要素も有り得ると私は思っている。まあ、追い越し車線である、という点が争点になるか、というところだろう。今回の被害者側の発言の事実が明らかになったことで、石橋被告の「逆恨み」罪とトラックの追突事故という2つのファクターが見えて来たのである。
だが私は石橋被告が2、3年の軽い刑で済ませることには賛成しない。被害者が怒りを誘発したのは確かだが、それを我慢もせず追いかけて「正真正銘のケンカ」に発展させた石橋被告は、被害者とその妻が死亡し幼い子供が交通遺児となった責任を取るべきであろう。ここは「ケンカ両成敗」で懲役20年、というのが妥当と考えるが如何でしょう。罪はないが責任はある、という判決である。
こういう風に、21世紀の大岡裁判があっても良いのではないか、私の意見である。
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