ぶらぶら美術館が7年目に突入した。随分と長くやっているんだなと感心した。美術館巡りという地味な番組ながら、山田五郎の雑学とおぎやはぎのボケ突っ込みが、一般的な芸術紹介番組の枠を超えて魅力あるものにしている。この前は7年目という事で過去の名シーンを紹介していた。面白い場面や珍しい作品などズラッと見ていたが、ゴッホやルノワールやモネといった印象派の作品に混じって、セザンヌの静物画が画面に映し出された。よく知っていて、学校でも授業で取り上げる名画である。絵画というものは、ある程度距離を置き離れて見ないと、全体の構図や色調のバランスが分からない、と教えられ自分でもそう思っていたが実はそうじゃ無いのかなと思えてきた。
セザンヌの静物画をアップでよく見ると、水差しや西洋梨やリンゴまたテーブルクロスなどの輪郭が薄く白っぽく、禿げているのか何なのかわからないがきっちり塗られていないようなのだ。これがルソーになるとはっきり色分けされて明確な意図で物体が描き分けられているのだが、セザンヌは、絵の経年劣化なのか、絵の全体が「荒れている」ように見える。個々の部分がバラバラに劣化しているのではなく「全体に均一に荒れている」ようなので、画家の意図がテクスチャーとして表されていると考えられる。絵画を対象物の構図と配置による寓意性、光と影や色調と質感による躍動感、遠近法による奥行や視点の誘導などのテクニックを中心に評価してきたが、それらも勿論の事として、新たな「テクスチャーの存在感」というものが重要な意味を持っている事がわかってきた。
本屋ではたくさんの名画の写真集を置いてあるし、私の母も絵をやっていたので多くの画集を買って本棚に置いていたが、やはり絵画は「現物を展覧会で見る」というのが正しいと思うようになった。写真で分かる事は表面的なものであり、セザンヌの描いた静物画の中のそれぞれが「人間の認識としての静物」でなく、「名前を与えられる以前の始原的な存在」としてのもの、そういうものが見えてくるのは現物を通して見る以外には無いのではないかと感じられたのだ。
いままでの絵画観を大幅に変更する出来事が起きた。ぶらぶら美術館というテレビ番組の何気ないワンショットが、私の芸術に対する見方を根底から変えることになるとは、やはり「真実は偶然から始まる」だね。
セザンヌは印象派の本流ではないかもしれないが、大きな流れからいえば二つの世界大戦の間の束の間の平和に花開いたパリの芸術運動の、「芸術の転回点の一つの中心」である事は間違いない。18世紀末に音楽が頂点を極めてから19世紀ロマン派へと人間のレベルに降りてきたように、絵画はイタリアルネサンスの潮流がカラバッジオからルーベンスと流れフェルメールで頂点に達した、人間の存在感を描き出すレベルが、セザンヌによって自然そのものの存在の根源へと動き出し、その方向性が現代絵画へと続いている。この時点で、私は自分の絵画観・芸術観の作り直しを迫られているのを感じた。芸術はその主体となる人々がシャーマンから部族長そして王侯にと移り、貴族層からフランス革命を経てブルジョワジーへと転回するに従ってテーマや嗜好が移っていった。私はそう考えてきたが、どうもそれだけではなく、人々が絵画に求めるもの以上に「絵画自体がその内包するムーブメントを発展させてゆく独立した生き物」なんじゃないか、という考えに到達しそうな状況になってきている。
絵画はもともと好きな絵を飾って楽しむだけの趣味のものと思っていたが、単なる部屋を飾るというユーザーの意図を超えて、画家は何かを追い求めているのだと思えてきた。それはセザンヌの静物画を「あらためて見る」ことから始まったが、人生のこの時点で分かったというのは決して遅過ぎないと思う。65才でも、まだやれる事はいっぱいある。少なくとも、歩けるうちはどんどん展覧会に出かけて行って現物をじっくり見て、何を感じ取れるかの勉強である。感性は鈍っているかもしれないが、好奇心は果てしない。
残念なことに日本画家は探究心の対象になってないが、これも一瞬で変わるかもしれないから人生は分からない。写真のようにリアルに描く画家や細かい部品を丹念に描く細密画家は好きではないが、その理由は「すごいね」という評価に表される、努力に対するご苦労様的な一種の感心に尽きる。誰でもできる事を誰にもできないくらいに熱心に継続した事への「ふーん」である。私は、そういう「米粒に字を書く」ような努力には何の関心もない。それらの技術は所詮はコンピュータが簡単にボタンひとつでやってのけてしまい、技術革新の波に翻弄され忘れ去られる過去の技術である。目に見えるものを「いくら目に見えるように描いても」人は感動しない。
人間は物を見ているようで実際は「認識済みの記号」を見ている。そうではなく、目に見えても「まだ認識できない何か」を描いてこそ、画家ではないかと思う。その意味でもセザンヌは深く謎に包まれた到達点であり、何かの新しい始まりの人であると思う。私は近いうちに国立西洋美術館にでも行ってみようかと思ったりしてウキウキしている。
セザンヌの静物画をアップでよく見ると、水差しや西洋梨やリンゴまたテーブルクロスなどの輪郭が薄く白っぽく、禿げているのか何なのかわからないがきっちり塗られていないようなのだ。これがルソーになるとはっきり色分けされて明確な意図で物体が描き分けられているのだが、セザンヌは、絵の経年劣化なのか、絵の全体が「荒れている」ように見える。個々の部分がバラバラに劣化しているのではなく「全体に均一に荒れている」ようなので、画家の意図がテクスチャーとして表されていると考えられる。絵画を対象物の構図と配置による寓意性、光と影や色調と質感による躍動感、遠近法による奥行や視点の誘導などのテクニックを中心に評価してきたが、それらも勿論の事として、新たな「テクスチャーの存在感」というものが重要な意味を持っている事がわかってきた。
本屋ではたくさんの名画の写真集を置いてあるし、私の母も絵をやっていたので多くの画集を買って本棚に置いていたが、やはり絵画は「現物を展覧会で見る」というのが正しいと思うようになった。写真で分かる事は表面的なものであり、セザンヌの描いた静物画の中のそれぞれが「人間の認識としての静物」でなく、「名前を与えられる以前の始原的な存在」としてのもの、そういうものが見えてくるのは現物を通して見る以外には無いのではないかと感じられたのだ。
いままでの絵画観を大幅に変更する出来事が起きた。ぶらぶら美術館というテレビ番組の何気ないワンショットが、私の芸術に対する見方を根底から変えることになるとは、やはり「真実は偶然から始まる」だね。
セザンヌは印象派の本流ではないかもしれないが、大きな流れからいえば二つの世界大戦の間の束の間の平和に花開いたパリの芸術運動の、「芸術の転回点の一つの中心」である事は間違いない。18世紀末に音楽が頂点を極めてから19世紀ロマン派へと人間のレベルに降りてきたように、絵画はイタリアルネサンスの潮流がカラバッジオからルーベンスと流れフェルメールで頂点に達した、人間の存在感を描き出すレベルが、セザンヌによって自然そのものの存在の根源へと動き出し、その方向性が現代絵画へと続いている。この時点で、私は自分の絵画観・芸術観の作り直しを迫られているのを感じた。芸術はその主体となる人々がシャーマンから部族長そして王侯にと移り、貴族層からフランス革命を経てブルジョワジーへと転回するに従ってテーマや嗜好が移っていった。私はそう考えてきたが、どうもそれだけではなく、人々が絵画に求めるもの以上に「絵画自体がその内包するムーブメントを発展させてゆく独立した生き物」なんじゃないか、という考えに到達しそうな状況になってきている。
絵画はもともと好きな絵を飾って楽しむだけの趣味のものと思っていたが、単なる部屋を飾るというユーザーの意図を超えて、画家は何かを追い求めているのだと思えてきた。それはセザンヌの静物画を「あらためて見る」ことから始まったが、人生のこの時点で分かったというのは決して遅過ぎないと思う。65才でも、まだやれる事はいっぱいある。少なくとも、歩けるうちはどんどん展覧会に出かけて行って現物をじっくり見て、何を感じ取れるかの勉強である。感性は鈍っているかもしれないが、好奇心は果てしない。
残念なことに日本画家は探究心の対象になってないが、これも一瞬で変わるかもしれないから人生は分からない。写真のようにリアルに描く画家や細かい部品を丹念に描く細密画家は好きではないが、その理由は「すごいね」という評価に表される、努力に対するご苦労様的な一種の感心に尽きる。誰でもできる事を誰にもできないくらいに熱心に継続した事への「ふーん」である。私は、そういう「米粒に字を書く」ような努力には何の関心もない。それらの技術は所詮はコンピュータが簡単にボタンひとつでやってのけてしまい、技術革新の波に翻弄され忘れ去られる過去の技術である。目に見えるものを「いくら目に見えるように描いても」人は感動しない。
人間は物を見ているようで実際は「認識済みの記号」を見ている。そうではなく、目に見えても「まだ認識できない何か」を描いてこそ、画家ではないかと思う。その意味でもセザンヌは深く謎に包まれた到達点であり、何かの新しい始まりの人であると思う。私は近いうちに国立西洋美術館にでも行ってみようかと思ったりしてウキウキしている。
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