明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

広島原爆慰霊祭に参列したG7外相たちを見て思う事

2016-04-12 20:00:57 | 今日の話題
アメリカのケリー長官は哀悼の意を示したが謝罪しないと明言した。原爆は無差別大量殺人兵器である。昔源平合戦が屋島で行われた時、水手は戦士ではないから殺さないという不文律を源氏の武士たちは破りそして戦いに勝利したという。戦いは長い間、一対一の名前素性を明らかにして勝ち負けを競うスタイルが続き、勇者の称号と部族の尊宗を受けたものが民を統治した。一度怪我をしたら生きることが難しい時代には、人は皆怪我や死という最大のリスクを負う戦いを恐れ回避した。その中で圧倒的な腕力や武器のスキルや敏捷性を持った戦闘力の高い人間が、部族の中の一番の栄誉と富を獲得したのである。古くはギリシャ・ローマの時代から十字軍・三銃士をへてフランス革命に至るまで、戦いの大筋は変わっていない。戦いとは富を奪い合うことである。

世界中で起きているあらゆる戦争行為は、ただ一つの事を目的として起きている。それは富の収奪である。他者の持つ富を武力で奪う行為である。だからこの論理を突き詰めていくと、奪うべき富を持つ他者がいなくなるまで戦争は無くならない。インド亜大陸に進駐したギリシャの重装歩兵の軍団も、中東の砂漠を制圧し地中海を越えイベリア半島まで版図を広げたイスラムのラクダ軍団も、モンゴルが西進してヨーロッパを席巻した元の騎馬軍団も、結局は現地の文化と融合して新しい混血文明を作り上げた。元々から住んでいた民族を完全に消し去って自分達の王国を打ち立てるほどには、人数が多くなかったのである。そうなるためには、民族の大移動が必要だった。つまり征服する側も故郷を捨てて、新たな土地を求めて移動してきた流浪の民であった。それは富を生み出す源泉が、土地にあったからである。

土地を奪い子供を育て人口を増やし民族を拡大してゆく。そのようにして人間はフロンティアを目指した。もう地球上には未踏の地は残っていない。そもそも何故人間は土地を求めて争いを繰り返すのか。それは人間が増え続けて来たからである。もとより増え続けるのは人間だけではない。あらゆる生き物には増え続けるための本能が備わっている。食料の限界まで増え続けるようにプログラムされているというか、あらゆる環境という環境に適合した生命の無限の形が無差別に発生してくるという方が正しい。つまり動物学的な観点からは、増えすぎた種はどこかで壁に突き当たり制限されて一定の量に落ち着く、と言える。

人間も、資源の限界に行き当たるか物理的限界に達するか或いは何らかの生命装置の発動によって自滅するか、いずれは壁に突き当たるであろう。それはそう遠くない未来である。そうなれば、国か民族か宗教かいずれかの集団が他の集団を圧倒し殲滅して唯一生き残る道を選ばざるをえない時が来る。そうなった時に人類皆兄弟的な理想主義の末路は明らかである。そうならないためには、人口が適正数値を保つように調整しなければならない。すでに限界を超えている人類は、大量の貧困者と大量の餓死者と大量の傷病者・老人・非労働人口を抱えて共倒れの危機にある。日本が子供を増やして人口減少に歯止めをかけるための政策に予算を付けようとするのは、時代の流れを掴まない時代オンチの考えである。日本は人口が減っても仕方がない。人口が減るにはそれなりの理由があるのである。その理由については今は研究しない。だが何らかの飽和に達しているのは確かである。

生き物は競争しているのが正しい姿である。常に戦ってこそ生き残る正義がある。日本は狭い国内で互いに戦い、世界に追いつくことを目標にして、先進国の仲間入りを果たしたその瞬間に敗戦国となって戦うことを放棄した。勝って富を得ることを放棄し、民主的国家を標榜し、支配することを諦めて名より実をとる道を選んだいま、経済大国となって世界有数の力を持つに至った。これ以上の成功を望むことは国として難しいレベルまでに達した今、競争する意義が国民の心から消えてしまったことに気付かないといけない。遮二無二上を目指して突進した昭和の企業戦士は皆高齢者の仲間入りをし、世界平和や人類の未来を考えるより自分の生活に汲々として小金を貯める小市民となった。もうライジングサンの日本ではないのである。戦う意欲をなくした日本人は、ヨーロッパの文化と北欧の平和を求めている。

広島原爆慰霊祭に集まったG7のメンバーは、日本を除いて世界を牛耳って来た自負がある白人の国ばかりである。白人は支配することを生来の特質として成長した肉食民族である。土地を耕し穀物を育てて生活の糧とする草食民族と異なる環境の中で、生き延びるようにプログラムされた民族である。他の生物を捕食して生命を維持する民族的特徴から、競争して勝つ事が最大の善と考える精神構造を持っている。これを究極に推し進めると「個人主義」に辿り着く。個人が幸福を求めて最大限の努力をする自由を、何よりも優先する民族的コンセンサスが長い間育まれ蓄積されてきた。その考え方を共通認識とするグループのリーダーの集まりが、G7先進国財務相会議である。だから日本も個人主義・自由主義・競争主義の考え方を尊重する。だが本当に日本は個人主義なのだろうか。

原爆は戦争を終結させるためにやむを得なかった。これがアメリカの答えである。もちろん正しい。だがこれがヨーロッパの何処かの国に起きた事件なら、決して彼らはこの結論を受け入れないであろう。そもそもヨーロッパの国同士の戦争で、原爆が使用されるとは思わない。それは余りにも破壊的なために、個人主義の生き方に反するからである。人道的とは畢竟「個人主義的人間主義」のことである。原爆は、戦いに負けた方のみならず、勝った方もその土地・人民の富を使う事が出来ない。だから、すべてを死滅させる兵器は、勝者の生きる資源をも奪ってしまう。だから「止むを得ず」使用したというのだ。マンハッタン計画に参加している科学者・軍部は、実際に試して効果を確認してみたいという気持ちもあったはずである。どちらにしても後悔してはいない。もし日本人が先に開発していれば、何の躊躇もなくニューヨークに原爆を落としていただろうことは間違いないのだ。

日本人は、原爆をニューヨークに落としていたかも知れない現実を直視し、その民族的な特性を真摯に批判する精神を、とうとう持ち得なかったまま現在まで至っている。世界唯一の被爆国と主張する事が、果たして何らかのアドバンテージを示しているのだろうか。イスラエルの「被害者」意識は、過去のユダヤの暗い歴史をすべてを吹き飛ばして、まったくの善としてイスラエルを正義の象徴に祭り上げた。そのプロパガンダに近年は陰りが見えてきている今、日本の「原爆被害者」意識も見直す時が来ている。それは、原爆を落とされたのは恥ずかしい事だと認識することである。自国民を無差別に殺され、守る事もできず、一億総玉砕と叫び続けた人の精神的子孫が、日本人の中に確実に生き続けて今も大量に存在している事実。日本民族の潔く散る美学は、今もなお一人一人の心の片隅に厳然と残っている。太平洋戦争当時の零戦を、今なお日本民族の美学と絡めて賛美する人がいる事実は、被爆したことをも日本民族の優秀さを示す例にしてしまう倒錯したナルシシズムに他ならない。

少なくとも我々日本人は「美しく散る」などと言う、誰かの為に死ぬことを美しいと考えるような間違った考えを否定しなければならない。我々は自分の為に生きるのである。そして他人が生きる権利を奪ってはならない。その両者がぶつかった時にどう解決するか、そのことを相手を倒す事で解決するのではなく、両者が共存できる道を見つける努力をしていく事が、これからの日本が求められている事ではないだろうか。「平和維持の具体的な方法」、それが世界唯一の被爆国である「恥ずかしい日本」が実践し研究してゆくべき道である。それは日本が平和のリーダーになるのではないし、また、なれる理由もない。広島原爆慰霊祭は、ただの記念行事である。阪神淡路大震災や東日本大震災の慰霊祭と同じである。亡くなった人々への想いを忘れないでいたいという気持ちと、世界平和をどうやって実現するかという事とは別である。世界平和の共同声明など、無意味だと思う。

原爆を落とされた馬鹿な国民として出来る唯一の事は、平和の達成によって得られる繁栄と幸福を世界に示す事である。戦後70年、ひたすらに努力してやっと得た繁栄は、これからが正念場である。世界貢献というのは何も正義のために武力を使うという事ではないはず。 もちろん完全な正義というものも世の中には無い。武力に代わる新たな方法を見つけること、それは個人主義であっても競争主義ではない新しい生き方を模索することではないだろうか。肉食民族には出来ないことを、これから草食民族が達成する。人類の未来を戦争に委ねるか、平和と協調のルール作りに努力するか、日本の役割は大きいと思う。

と、ここまで書いてきたが、結論めいた事は残念ながら出ていない。結論は、平和を実現する方法が見つかった時にもう一度続きを書こうと思う。平和は、戦争と対比して選択するものではない。平和は生存の唯一の方法である。それが世界唯一の被爆国である日本が得た最初で最後の答えだ。続きはいつの事になるのか、楽しみである。

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