日曜日はテニスで大坂なおみが優勝。たどたどしい日本語でインタビューに答える姿がなかなか愛らしい。一方、ラグビーでは日本代表がロシア撃破で盛り上がっているらしく、松島幸太朗って選手が大活躍だそうだ。だが彼らは少し前までは、日本人と言われれば「?」という反応が返ってくる存在だったのではないだろうか。いま日本人の「民族意識」に、何らかの変化が起きていることは確かである。では彼らは純粋な日本人ではないのだろうか?
例えば陸上ではサニ・ブラウンやケンブリッジ飛鳥、テニスでは大坂なおみ、野球ではダルビッシュ有、それにバスケットの八村塁と、種目も色々で多彩な顔ぶれが揃ってき出した。でも、なんか違う?って違和感が、我々の心の奥底に蠢いているのは否定できない。さらに言えば今までの私の「日本人のイメージ」からは、彼らを見て大手を振って「俺たち日本人!」という感情は湧いてこなかったのである。彼らは「日本人である」と言ったって、肝心の卓抜した運動能力は「日本人以外の遺伝子が持ってきたもの」なのは間違いない。だから、彼らを日本人と持ち上げることには、内心は少し抵抗があるのだ。それが冒頭の質問に対する素直な回答である。大坂なおみは「ハイチ人の誇り」だろうし、八村塁は「ペナン人の誇り」だ、そう考えるのが妥当である。そういう流れで言うならば、今回のラグビー日本代表で爆発的なプレーを披露してハットトリックを決めた松島幸太朗は、「ジンバブエ人の誇り」であることは間違いない(勿論、一部は日本人の誇りでもあるのだが複雑だ)。何れにせよ彼らの類まれな運動能力を日本人が「自分たちのものだと独占して良い」という話ではないと思う。
前に大坂なおみ選手の時にも書いたが、テニスで世界一になったとかの「いい話」の場合は日本人として持て囃し、何も良いところがないごく普通のハーフの場合は「心のなかでは黒人として外人扱いをする」人がまだまだ多いと私は感じている(だから私は彼らを「注釈なしの日本人」と言うのには躊躇しているのだ)。突然駅で「この電車は〇〇に停まりますか?」などと流暢な日本語で質問された時、その人が見た目にアフリカ人みたいな風貌だったとしたら一瞬身構えて、「つい英語をしゃべろうと」狼狽える、なんて笑い話が現実に起きてくるのである。
アメリカのように元々が雑多な移民で国の基礎が成り立っている国、つまり「土着でない、他所からやって来た人々」が作った国家の場合は、自国民の意識は「何を基準として」いるんだろうか。自分から「自分は何〇〇人です」と言わない限り、その人が民族的に何人かはっきりしないアメリカという国は、我々日本人からすれば「尋常ではない世界」である。勿論〇〇系という判断は彼らにもある。だが、それ以前に相手のことを先ず「アメリカ人」と認識して受け入れているのが日本と違う点だ。日本では、〇〇人とはすなわち「〇〇民族」を意味する。国家=民族、と思って疑わない。というか、「民族しかない」のである。国の意識がないといっても良い。アメリカのように民族より「国家意識を優先する国」を、未だに正しく理解するということが日本人は出来ていないんじゃないか。これが私のずっと燻っている疑問である。
民族意識が個人のアイデンティティを決める根本であるならば、「日本人である」ということは「遺伝的情報に依存する人種的特徴」ということになるだろう。だから「日本的」と評される文化的様式的な部分と「日本人種的」と考えられる身体的運動能力的な部分とは、本来別なものとして考えるべきである。それで私はこの複雑で根本的な問題を解くにあたり、平易な外見的特徴から考察を始めたいと思う。先ずは彼らの見た目から考えよう。
1、容貌・体格
サニ・ブラウン、大坂なおみ、ダルビッシュ有、八村塁、そして松島幸太朗は、何れも外見は「一般的な日本人の特徴」は、残念ながら持っていない。みんなと卒業式の集合写真を撮れば、必ず「この人は〇〇人みたいだけど?」と質問される。別に人種差別的な意味で質問しているのではないことは分かっているが、それでも一々説明するのもウザったいであろう。
2、身体能力
サニ・ブラウン、大坂なおみ、ダルビッシュ有、八村塁、そして松島幸太朗は、俊敏な跳躍力・爆発的な筋力・圧倒的な加速力という点で「日本人離れ」している。日本人もアジア人としては足が速いほうだが、世界の中で見れば「より持久力に優れている」と言えそうだ。つまり身体能力は、「一般的な日本人の特徴」は、残念ながら持っていない。
3、言語
大坂なおみ以外は、流暢なというよりも「日本語がネイティブ」である。但しこれは、日本で生まれ育ったということを意味しているだけで、何人であろうが「日本で育てば日本語が母国語になる」のは当たり前だとは言える。
4、生活習慣
これも大坂なおみ以外は日本人そのものである。本人が自身を日本人以外の〇〇人だと考えていれば別だが、自分で日本人と思って育ったのであれば、何処を切り取っても「もう日本人だ」としか言えないであろう。日本海の荒波を見て故郷を思い出す人もいれば、瀬戸内の穏やかな風景に幼い日々を懐かしむ人もいる。こういう言い方が許されるならば、彼らは「後天的日本人」である。きっと畳に正座することも普通に出来ているのであろう。
結論として、ここまで来ると「外見がアフリカ系」というだけで、中身は個人も公的な権利も、日本人と呼ぶのに異論がある人はいないであろう。大坂なおみの場合は言語が難点だが、親が外国勤めで幼少期を海外で生活した「帰国子女」というのがいる。彼らは何処から見ても完璧な日本人なのだが、ただ唯一「日本語が上手くしゃべれなかったり」する。我々はこういう場合、普通誰でも簡単に出来る事が「たどたどしくしかしゃべれない」彼等に対して、「外国にいたからしょうがないね」と、驚くほど寛容だ。何故なら実体は「日本人だと知っている」からである。
つまり、外見や身体能力や言語や生活習慣が異なってはいても、「実体が日本人なら」日本人として受け入れるのである。何となく日本人と認定するロジックが分かってきた。つまりは「実体が日本人かどうか」である(これって結局、何にも進んでいないではないかというご指摘はさておいて)。
結論が出たようだ。結局は彼等が日本人と認められるためには、日本人が心の奥で「この人は日本人だ」と思う必要があるのである。外見や言葉などの条件は色々とあるかもしれないが、要は「同じものを見て同じような感情を共有することが出来たら」、それはもう「俺たち仲間だ、日本人だ」となるのである。普段何の変哲もなく社会の中で不自由なく生きているが、この共感は「とても重要な」感覚ではないだろうか。突き詰めて言えば、「その人の匂い」とでも言うしか無い感覚である。その感覚があって、お互いを「同じ民族」と感じるのだ。例えばドイツ人が、世界をあちこち渡り歩いて旅をしているとしよう。そんな旅の途中に偶然「ドイツ人に会ったとすれば」、言いようのない懐かしみを覚えるのではないか。これはイギリス人でもコンゴ人でもチリ人でもモンゴル人でも、みな同じだと思う。
人はみな、個人の他に「民族としてのアイデンティティ」を持って生きている。色々な人の中から、自分と同じアイデンティティを持った人を見つけてホッとするのは「DNAレベル」の本能である。それは群衆の中にあっても「一瞬で気が付く」何かなのだ。日本人は、その本能が非常に「範囲の狭いDNA」の中で発揮されるのである。こんなことで答えになるかどうか分からないが、私的には「回答が出た」ようだ。つまり、彼等が日本人かどうかは「我々」が決めるのではなく、大坂なおみや八村塁や松島幸太朗自身が、「自分の心に問いかけて、日本人として生きていくことに誇りを感じるかどうか」、で決まることではないだろうか。それを我々は、じっと待っているのである。
ようやく回答を得ることが出来て、私はすっきりした気分である。父親と母親が民族が違う場合はこれからも増えていくことであろう。私が一時お世話になった相模原のサービス付き高齢者住宅の職員に、ジャマイカ人と結婚した女性がいた。彼女は屈託なく「息子は足が速いに違いない」と笑顔で言い切っていたが、昔で言うところの「国際結婚」という負い目は微塵も感じられなかった。もう白人とか黒人とか黄色人種とか言う感覚は、過去のものになりつつあるのかもしれない(若い人に限る)。要するに、本人が日本人だと思えば日本人なんだし、俺はナイジェリア人だという「しょうゆ顔の男」が出て来ても何の不思議もない。外見もいつかは整形技術が発達して、見た目は如何ようにも変えられるようになり、何が何だか分からなくなる日もそう遠くはないだろう。その時は〇〇人などという呼び方も既に「無くなっている」かも知れない。実際、ヨーロッパなどでは両親の両親のそのまた両親という風に遡って混じり合っている場合も多くて、例えば現在フランス人といっている人の「元を辿っていけばロシア人」だった、という事もあり得るのである。それにフランスは今でこそ大国だが、将来はアフリカのジンバブエなんかが「IT大国」になっていて、裕福な人で溢れ返っていても何の不思議でもない。そういう意味では「今居心地のいい所が自分の居場所」と、自分に言い聞かせて生きていく、というのが正解かも知れない。結局、「日本人がまた勝った!」なんて姑息な民族意識は、綺麗サッパリ捨て去ることに尽きると言えよう。
そう、我々はもっともっと「世界に大きく心を開くこと」が必要である。・・・うん、決まったな。
最後に良いことを言って記事を書き終わったのだが、ふと私は「英語がしゃべれない」ことに気がついた。やっぱ英語ぐらいは話せないとダメだよね、ホント。明日早速スピードラーニングの試聴版を申し込もう!
例えば陸上ではサニ・ブラウンやケンブリッジ飛鳥、テニスでは大坂なおみ、野球ではダルビッシュ有、それにバスケットの八村塁と、種目も色々で多彩な顔ぶれが揃ってき出した。でも、なんか違う?って違和感が、我々の心の奥底に蠢いているのは否定できない。さらに言えば今までの私の「日本人のイメージ」からは、彼らを見て大手を振って「俺たち日本人!」という感情は湧いてこなかったのである。彼らは「日本人である」と言ったって、肝心の卓抜した運動能力は「日本人以外の遺伝子が持ってきたもの」なのは間違いない。だから、彼らを日本人と持ち上げることには、内心は少し抵抗があるのだ。それが冒頭の質問に対する素直な回答である。大坂なおみは「ハイチ人の誇り」だろうし、八村塁は「ペナン人の誇り」だ、そう考えるのが妥当である。そういう流れで言うならば、今回のラグビー日本代表で爆発的なプレーを披露してハットトリックを決めた松島幸太朗は、「ジンバブエ人の誇り」であることは間違いない(勿論、一部は日本人の誇りでもあるのだが複雑だ)。何れにせよ彼らの類まれな運動能力を日本人が「自分たちのものだと独占して良い」という話ではないと思う。
前に大坂なおみ選手の時にも書いたが、テニスで世界一になったとかの「いい話」の場合は日本人として持て囃し、何も良いところがないごく普通のハーフの場合は「心のなかでは黒人として外人扱いをする」人がまだまだ多いと私は感じている(だから私は彼らを「注釈なしの日本人」と言うのには躊躇しているのだ)。突然駅で「この電車は〇〇に停まりますか?」などと流暢な日本語で質問された時、その人が見た目にアフリカ人みたいな風貌だったとしたら一瞬身構えて、「つい英語をしゃべろうと」狼狽える、なんて笑い話が現実に起きてくるのである。
アメリカのように元々が雑多な移民で国の基礎が成り立っている国、つまり「土着でない、他所からやって来た人々」が作った国家の場合は、自国民の意識は「何を基準として」いるんだろうか。自分から「自分は何〇〇人です」と言わない限り、その人が民族的に何人かはっきりしないアメリカという国は、我々日本人からすれば「尋常ではない世界」である。勿論〇〇系という判断は彼らにもある。だが、それ以前に相手のことを先ず「アメリカ人」と認識して受け入れているのが日本と違う点だ。日本では、〇〇人とはすなわち「〇〇民族」を意味する。国家=民族、と思って疑わない。というか、「民族しかない」のである。国の意識がないといっても良い。アメリカのように民族より「国家意識を優先する国」を、未だに正しく理解するということが日本人は出来ていないんじゃないか。これが私のずっと燻っている疑問である。
民族意識が個人のアイデンティティを決める根本であるならば、「日本人である」ということは「遺伝的情報に依存する人種的特徴」ということになるだろう。だから「日本的」と評される文化的様式的な部分と「日本人種的」と考えられる身体的運動能力的な部分とは、本来別なものとして考えるべきである。それで私はこの複雑で根本的な問題を解くにあたり、平易な外見的特徴から考察を始めたいと思う。先ずは彼らの見た目から考えよう。
1、容貌・体格
サニ・ブラウン、大坂なおみ、ダルビッシュ有、八村塁、そして松島幸太朗は、何れも外見は「一般的な日本人の特徴」は、残念ながら持っていない。みんなと卒業式の集合写真を撮れば、必ず「この人は〇〇人みたいだけど?」と質問される。別に人種差別的な意味で質問しているのではないことは分かっているが、それでも一々説明するのもウザったいであろう。
2、身体能力
サニ・ブラウン、大坂なおみ、ダルビッシュ有、八村塁、そして松島幸太朗は、俊敏な跳躍力・爆発的な筋力・圧倒的な加速力という点で「日本人離れ」している。日本人もアジア人としては足が速いほうだが、世界の中で見れば「より持久力に優れている」と言えそうだ。つまり身体能力は、「一般的な日本人の特徴」は、残念ながら持っていない。
3、言語
大坂なおみ以外は、流暢なというよりも「日本語がネイティブ」である。但しこれは、日本で生まれ育ったということを意味しているだけで、何人であろうが「日本で育てば日本語が母国語になる」のは当たり前だとは言える。
4、生活習慣
これも大坂なおみ以外は日本人そのものである。本人が自身を日本人以外の〇〇人だと考えていれば別だが、自分で日本人と思って育ったのであれば、何処を切り取っても「もう日本人だ」としか言えないであろう。日本海の荒波を見て故郷を思い出す人もいれば、瀬戸内の穏やかな風景に幼い日々を懐かしむ人もいる。こういう言い方が許されるならば、彼らは「後天的日本人」である。きっと畳に正座することも普通に出来ているのであろう。
結論として、ここまで来ると「外見がアフリカ系」というだけで、中身は個人も公的な権利も、日本人と呼ぶのに異論がある人はいないであろう。大坂なおみの場合は言語が難点だが、親が外国勤めで幼少期を海外で生活した「帰国子女」というのがいる。彼らは何処から見ても完璧な日本人なのだが、ただ唯一「日本語が上手くしゃべれなかったり」する。我々はこういう場合、普通誰でも簡単に出来る事が「たどたどしくしかしゃべれない」彼等に対して、「外国にいたからしょうがないね」と、驚くほど寛容だ。何故なら実体は「日本人だと知っている」からである。
つまり、外見や身体能力や言語や生活習慣が異なってはいても、「実体が日本人なら」日本人として受け入れるのである。何となく日本人と認定するロジックが分かってきた。つまりは「実体が日本人かどうか」である(これって結局、何にも進んでいないではないかというご指摘はさておいて)。
結論が出たようだ。結局は彼等が日本人と認められるためには、日本人が心の奥で「この人は日本人だ」と思う必要があるのである。外見や言葉などの条件は色々とあるかもしれないが、要は「同じものを見て同じような感情を共有することが出来たら」、それはもう「俺たち仲間だ、日本人だ」となるのである。普段何の変哲もなく社会の中で不自由なく生きているが、この共感は「とても重要な」感覚ではないだろうか。突き詰めて言えば、「その人の匂い」とでも言うしか無い感覚である。その感覚があって、お互いを「同じ民族」と感じるのだ。例えばドイツ人が、世界をあちこち渡り歩いて旅をしているとしよう。そんな旅の途中に偶然「ドイツ人に会ったとすれば」、言いようのない懐かしみを覚えるのではないか。これはイギリス人でもコンゴ人でもチリ人でもモンゴル人でも、みな同じだと思う。
人はみな、個人の他に「民族としてのアイデンティティ」を持って生きている。色々な人の中から、自分と同じアイデンティティを持った人を見つけてホッとするのは「DNAレベル」の本能である。それは群衆の中にあっても「一瞬で気が付く」何かなのだ。日本人は、その本能が非常に「範囲の狭いDNA」の中で発揮されるのである。こんなことで答えになるかどうか分からないが、私的には「回答が出た」ようだ。つまり、彼等が日本人かどうかは「我々」が決めるのではなく、大坂なおみや八村塁や松島幸太朗自身が、「自分の心に問いかけて、日本人として生きていくことに誇りを感じるかどうか」、で決まることではないだろうか。それを我々は、じっと待っているのである。
ようやく回答を得ることが出来て、私はすっきりした気分である。父親と母親が民族が違う場合はこれからも増えていくことであろう。私が一時お世話になった相模原のサービス付き高齢者住宅の職員に、ジャマイカ人と結婚した女性がいた。彼女は屈託なく「息子は足が速いに違いない」と笑顔で言い切っていたが、昔で言うところの「国際結婚」という負い目は微塵も感じられなかった。もう白人とか黒人とか黄色人種とか言う感覚は、過去のものになりつつあるのかもしれない(若い人に限る)。要するに、本人が日本人だと思えば日本人なんだし、俺はナイジェリア人だという「しょうゆ顔の男」が出て来ても何の不思議もない。外見もいつかは整形技術が発達して、見た目は如何ようにも変えられるようになり、何が何だか分からなくなる日もそう遠くはないだろう。その時は〇〇人などという呼び方も既に「無くなっている」かも知れない。実際、ヨーロッパなどでは両親の両親のそのまた両親という風に遡って混じり合っている場合も多くて、例えば現在フランス人といっている人の「元を辿っていけばロシア人」だった、という事もあり得るのである。それにフランスは今でこそ大国だが、将来はアフリカのジンバブエなんかが「IT大国」になっていて、裕福な人で溢れ返っていても何の不思議でもない。そういう意味では「今居心地のいい所が自分の居場所」と、自分に言い聞かせて生きていく、というのが正解かも知れない。結局、「日本人がまた勝った!」なんて姑息な民族意識は、綺麗サッパリ捨て去ることに尽きると言えよう。
そう、我々はもっともっと「世界に大きく心を開くこと」が必要である。・・・うん、決まったな。
最後に良いことを言って記事を書き終わったのだが、ふと私は「英語がしゃべれない」ことに気がついた。やっぱ英語ぐらいは話せないとダメだよね、ホント。明日早速スピードラーニングの試聴版を申し込もう!
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