明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

全英オープンは今年はカーヌスティンである

2018-07-20 22:21:23 | スポーツ・ゴルフ
全英オープンが始まったが1日目から松山がピリッとしない。全英オープンの難しさ面白さはショットの落としどころが1mずれたら傾斜でグリーンから出ていってしまったり、バンカーに入ったりする予測不能のゲーム性である。勿論そのような場所を避けて安全なところに落とせばいいのだが、その人のショットの球筋によってはスピンが効きすぎたり高さが出すぎたり距離が中途半端だったりして、どんな条件でもそれにピッタリの球を打てる選手というのがいれば別だろうが、そうもいかないのがゴルフなのだ。だから全英オープンと言えばそれまでである。まあそれが見ている方からすれば楽しいのだが、それにしても松山はよくないねぇ。

今年の全英オープンはいつものようには松山には期待が持てないようだ。舞台のカーヌスティンはフェアウェイもバンカーも自然のままのようにみえて実は巧妙に作られていて、ラフが深いので打ち込んだらアウトかと思いきや、マキロイなんかは平気でラフからグリーンに乗せてくるあたりは「ゲームとしては程々に出来ているコース」である。そのかわりと言えば変だが、バンカーは入れないようにアイアンでティショットしてるにも関わらず、転がって転がってしまいにはバンカー、ということになっている。選手も分かっているので「またか」って感じの顔してるのが面白くていい。出ている選手の次から次へと繰り出されるカッコいいスイングを見ていたら、ちょっと自分のスイングのヒントにならないかと思ってクラブを取り出して振ってみた。そしたら2、3度振るうちに練習場に行きたくなってしまい、そそくさと支度して炎天下をいつもの練習場に出かける(♪好きだよね♪、と沢口靖子を口ずさんだ)。

早速今見た通りを練習するが、バックスイングを上げるときは前傾姿勢を崩さずに上半身をヒネって、その時「腰は前にださない」ようにするのが「ポイント1」である。腰を出してしまうと前傾姿勢がほどけて棒立ちになる。切り返すと同時かちょっと前に「左に体重移動」をするが、小さく早く動くのが「ポイント2」である。そしてダウンからインパクトにかけては「左肩越しにボールを見る」形を特に気をつけた。この時に左股関節を曲げて体重を乗せるようにするのが「ポイント3」である。絶対に左腰を前に出さないように気をつけなければならない。そうしないとインパクトでヘッドがボールより「遠くを打つ」ような軌道になって、左へ巻き込む当たりになるからだ。そのまま胸を右に向けたままで目をボールから離さず、インパクトの瞬間に左手を目標に向けるように返しながら右手を曲げた状態でヘッドを押し込み、その勢いを一気に開放してフィニッシュまで振り抜く。とまぁ、イメージはそうである。300球ほどウッド・ユーティリティ・アイアンと打ち分けてから、スーパーに寄って酒とつまみを買い家に帰った。今日は既にイメージトレーニングが出来ていたせいか、結構ナイスショットが打てたので満足である。

それで風呂に入ってから2日目を録画でみることにした。ゴルフ中継はしょっちゅう見ているが、やはり全英オープンは格別だ。今回ゴルフネットワークで39時間完全生中継と大々的にぶち上げているが、その宣伝に相応しい「ダラダラと映像を流し続ける」番組で、これといって盛り上がることの余りない平坦な放送である。しかしこの放送を見ていて、スポーツ中継の一つの典型を見たと感じた。広々としたコースを18組が同時にプレーしているから、お目当ての選手を追いかけるためには「イギリスまで行かなければ」ならない。だから放送ではそのうちの「ほんの一部の選手」を映しているに過ぎないのだ。で、見ている視聴者は何が楽しいのかと言うと、映っている選手の一打一打を「のんびりと」あるいは言葉を変えて言うなら「漫然と、お菓子を食べたり飲み物を飲んだり」して、時にはちょっとした用事を済ませたりしながら「見る」のである。

毎日がジェットコースターのようなハデハデしい事件の連続でも無い限り、通常は色々なイベントの中で「今週はゴルフ」というスケジュールがあって、ゴルフに相応しい一日を楽しむのである。今日はサッカーだったり自転車だったり、またはクラシックコンサートだったり、あるいは友人との会食・飲み会だったりする、その中でのゴルフである。のんびり一日かけて眺める中継というのがあってもいい、と私は思えた。ゴルフはサッカーのように「劇的なシーン」が90分の中で何度も見られるといった「手に汗を握る試合」では、全然ない。むしろ10秒間もの静寂のあとにロングパットの長い長いボールの転がりがあって、やっと「カップイン」という歓喜が小さくやってくるゲームである。年寄り向きのスポーツといわれる所以である。サッカーのように90分という凝縮された時間の中に展開するドラマを、4日間72ホールという長い時間をかけて「ゆっくり演じる」ゲームなのだ。

全英オープンに出てくる選手は、誰もが美しい完璧なスイングを持っている。スローモーションで映し出される映像は「なるほど理に適っている」と思わせる「真似したいスイング」だ。この素晴らしいスイングで醸し出される高い技術の連続が、39時間という生中継を「真剣なゲーム」というレベルに保ってくれる唯一の鍵である。時折間に挟まるCMで「アマチュアのヘボゴルファーがクラブの宣伝に出てくる」のを見るたびに、我々のスイングと彼等のスイングの「まさに異次元」ともいうべき違いを感じざるを得ない。どんなスポーツでも、あるいはコンサートや絵画展でも同じだが、我々は「最高のもの」を見たいと思って足を運ぶわけである。それが90分で燃焼するサッカーと、4日間かかるゴルフとでは違うのだ。ゴルフは言わば「生活=ライフスパン」のゲームである。

木々の深い緑、広野を吹き渡る風、うねったフェアウェイを覆う長いラフと壁のようなバンカーに囲まれた(時には流水が行く手を阻んでいる)超高速のグリーン。個性あるコースを攻める楽しさは、一日を仲間と共に充実したゲームの中に過ごす喜びである。勝ち負けは当然選手にとっては最重要であるに違いない。だが我々ゴルフファンにはまた別の楽しみ方、つまり「今日は楽しい一日だったね」と言えることが大事ではないかと思うのである。勝負はもちろん大事だろうが、それも毎年行われている大会の一つのイベントの記録に過ぎない。我々にとっては「今日の一日」が、長く続く人生の一部であることに喜びを感じているのだ。楽しい一日をどれだけ重ねられるかが我々には最も大切である。そう思って選手たちの美しいスイングの戦いに目を戻せば(まだ1日目だからであるが)、真剣にアドレスに入ってショットに集中する有名選手達の厳しい一打ごとに「凄いなぁ」と十分楽しめている自分がいる。

実に平静だ。この状態が私には心地よい。思えば何かに興奮し競争して、戦いの中に自分から入り込む生活をこの何十年と続けてきた。勝利は少なく敗北の日々が連綿と連なり、挫折と虚無の渕をさまよう青春は、いつのまにか平凡な安定した生活に成り下がってしまった。今や一般人が到達することなど考えもしなくなって久しい遥かな遠い別世界を、「テレビ観戦」するようになっているのである。つまり当然のことだが、女王蜂になれなかった蜂は凡庸の働きバチとして一生を終わる「その他大勢」の存在に過ぎないわけである。それが哀しい落伍者の末路ととるか、自分に与えられた有意義な人生ととるかは、その人の自由である。どっちが楽しいと比較することには全然「意味がない」のではないか、と、この頃は考えるようになって来た。人にはそれぞれ別の役目があるのである。自分の事をどうこう考えるのではなく外の世界に目を向ければ、いくらでも新しい世界が我々を待っている。それもこれも私が年を取って「自分が何物であるかが分かって来た」からである。己を知ることが幸せになるための第一歩ではないか。寿命が伸びて、己を知るための時間に余裕が出来たのは、人類にとっては幸福なことである。

そんなどうでも良いことを全英オープン2日目の中継を見ていて考えていた。去年はジョーダン・スピースの「怒涛の大逆転」があり、一昨年はヘンリック・ステンソンとフィル・ミケルソンが「まさに神がかった死闘」を繰り広げた記憶がある。毎年大いに盛り上がる全英オープンなのだ。今年は「平穏無事なスタート」を切った一日目だが、果たしてどんなドラマが選手達を待ち受けているやら。徐々に気持ちがハイになって「ワクワクして」いるが、松山がどうとかすっかり忘れてしまい「またいつものジ・オープン」を楽しんでいる。やはり「最高のゴルフとは、これだ!」と言えるのは、全英オープンしかないと私は思うのだ。ちなみに私はマキロイを応援しているがどうなるか。

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