空観方程式

「色」と「空」の一体化によって可視化され、相互作用で共感・共鳴が生じ、新たなる思いや生命力が実体化される。

人の命は定められたもの それにあらがってどうする

2022年07月09日 | 読書・TV感想
人の命は定められたもの。それにあらがってどうする。
あまんじて受け入れ、好きなように生きる。
神仏にすがり、おびえて過ごすのは時の無駄だ。  
NHK「鎌倉殿の13人」より




人間の不安と対立は無くならない。 
(変えられないものと折り合い合いながら生きる)


できるときにはできるように、
できないときはできないように。
そして
ある時はあるように、ない時はないように。

我らは生と死とが同居している世界に生きているので、
二元の状態も片方だけにこだわらないことだ。



ところで
「空」から「色」への変化は以下の様になっている。
片方だけでは存在できない二元である
時空、表と裏、生と死、プラスとマイナスなどの
重ね合わせ状態から
禍福、闇と明るさ、悲しさと喜び、そのような
二元の状態が50対50で次々に休みなく現れる が、
受け入れる側でその比率は変化する。
こうして
片方だけでも存在が可能な状態へと変化する。



だからあるがままでもいいし、
あるがままでなくてもいい。

片方だけでも存在が可能な
低次元の中で、何かにしがみついたり、
何かにこだわってしまっているのは、
コップ(想像上の秩序)の中で
泳いでいるようなものだ。

いい時もあれば悪い時もある。
それは変えられない人生の舞台だ。
悪いことの回避だけに邁進するのではなく、
いい時もあれば悪い時もある。それが
高次元の存在を知ることから生まれる
囚われからの解放だ。


要は
「合成よりも分解を少しだけ先回りさせる」即ち、
負けても構わないと思うと勝つことに
繋がったり、
このような世界だからこそ生きていられる
と感じたりする人間原理。
    動的平衡状態(福岡伸一)より

二元の比率が変わってしまう
低次元の世界にこだわったり、しがみつかない。
自分の心(心の反応ではなく)を変えてみる
変えられないものを自覚して、それを変えようとしない。

あるがままにと思った(合成)途端に、
あるがままでなくなる。
あるがままを捨ててこそ(分解)、
あるがままとなれる。

繰り返しになるけれど、
「こうでなければならぬ」「こうすべきだ」
を捨ててこそ、
「こういう世界だからこそ生きていられる」
が生まれてくる。



ところで
慈善活動と新興宗教は
自己都合を捨てられない人たちの活動かも?

あまり恵まれた状態にないと感じていると、
意味のある人生だということを確認してみたくなって、
あるいは
役に立っている人間だということを確認するために、
人を助ける活動に入りたいと考える。
(合成を優先的にしてしまう)

そこから
あなたはかわいそう!助けてあげる!
その自己都合の虜となって、

慈善活動に入る人

新興宗教に入る人

のめり込むと言われている。



「何かをしなければ」との思い(合成)から
始めることは、
できる時はできるように、できない時はできないように、
といった意識からは離れてしまった状態であり、
囚われからの思い込みである。

だから結論は
囚われや計らいは捨て、回り舞台の風景によって
できる時であればできるように!
となる所以である。



人の命は定められたもの。
それにあらがってどうする。あまんじて受け入れ、
好きなように生きる。(できる時はできるように)
即ち「分解を合成より少しだけ先回りさせる」生き方だ。


身を捨ててこそ身をも助けめ  西行
無義の義  親鸞
はからいを捨ててこそ本当の自分に出会う





















あとがき:参照記事
「人は『正しい』と信じてブレなくなった時に
手に負えなくなる。
自分たちが絶対的に正しいと思っているから、
従わないものを迷わず虐待したり排除したり
できるようになる」という――。
カルトに与えられた答えによって
「正しさに依存」すると、
この決断の責任を自分で取らなくてもよくなる。
今は苦しいがもっと大きな幸福へ向かう
過渡期にあるのだと説明されたら、
それを信ずればよいことになる。
カルト宗教の心地よさ
PRESIDENT Online(2022/07/29 10:00)
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宇宙が加速膨張していても、 回り舞台の回転速度は一定だ

2022年06月17日 | 読書・TV感想
こうした世界だからこそ我らは
生きている。

誕生間もない初期の宇宙は
温度が非常に高く、
「対称性」の保たれた均一な世界だった。
やがて、
宇宙が膨張して冷えはじめ、
ある温度以下になったとき、
粒子に「質量」を与えることになった。
種々の粒子がこの世に出現して、
原子や分子が誕生した。
それら原子や分子が
さまざまに結合することで
各種の物質が生まれ、
いつしか有機物が登場する。
やがて生命が誕生し、
私たち人聞が存在するようになった。





物理学者のナッシム・ハラマイン氏によると、
「宇宙空間は虚空ではなく、
エネルギーに満ちている」と。
何もないとは真空であるが、
眼に見えなくても
エネルギーに満ち溢れている世界。
しかも普通の物質は
宇宙の膨張とともに薄まるが、
そうした真空エネルギーは薄まらない。
従って、真空のいたるところで
多数の粒子がひんぱんに出没している。

要は、人間の眼に見えない
感じることしかできない
高次の世界によって、
次々に作られる世界だ。




宇宙が加速膨張していても、
真空エネルギーにより
回り舞台の回転速度は今でも
遅延することなく一定だ。

そして仏教の「空」も、
「感じることしかできないが
存在しているもの」(佐々木閑)である。
その満ち溢れたエネルギーにより
人間は自発的に現れる時空や粒子、
即ち「色」を初めて目の前にする。

いわば我らは回り舞台の上に
立たされているようなものだ。
どうすることもできないことと
折り合いを付けながら生きている。
つまり、
目の前に現れてきた「色」という
回り舞台の上で、
どのように振る舞うかという
ことになるわけだ。

いうなれば
与えられたものが回り舞台で、
課せられたものが振る舞いだ。

そこで
V,E,フランクル)によれば、
「それでも人生にイエスという」より
生きるとはいつでも
課せられた仕事なのである。
私たちの可能性は制約されている。
が、こういう事実のおかげで、・・・
どのような態度をとり、
どうふるまうのか、により
人生に意味がある。(意味が生まれる)


従いそれは次から次へと際限なく
目まぐるしく変化する回り舞台だ。
その回り舞台の回転速度は一定だ。
モットモットと思っていても、
舞台の方はそれには構わず、
次から次へと変わってゆく。

舞台の風景がすっかり
変わってしまっているのに、
モットモットのままでは
破綻するのは明白だ。





例えば、
もっと崇高な生き方は?といわれたって、
比較しているひまなど少しもない。

できる時にはできるように、
できないときにはできないように。だ!

ある時はあるように、
ない時はないように。だ!

自然には逆らえないと
よくと言われるように、この世の
真空エネルギー、あるいは回り舞台
には逆らえない。
「柳は緑 花は紅」
これ以上の(比較する基準がないから)
生き方は存在しなし、目的もない。



ところで科学の発達によって、
人間は必ず間違った見方をするものだ
ということも解ってきた。
人間は言語や文字の伝達能力を獲得したが、
その代償として悩める存在となった。
即ち苦を自覚しながら(悩みながら)
生きることとなった。そこから
死や老化の自覚からの逃避により、
あるいはまた象の鼻が長くなったように、
人間は目先のことを優先する脳となった。
将来のことよりも現在の状態、
他人の事より自分の事を優先する特性だ。
その為に自分中心(自己都合)という
思い込みするようになった。
そこからモットモットが幅を利かす。
いうなれば生きる為の、
パニックにならないための防衛手段
という進化だ。


人間も
何かに最終的に到達することを
目指して生きているわけではない。
生きるために
いろんな事をしなければならない。
生きるための目的ではなく、
生きることが目的である。
即ち生きるために生きる。(更科功)

自己都合とは異なる回り舞台の上で、
こうした無常の世界だからこそ我らは
生きていられる。







参照:「天の扉開き」
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我らが感じられないところに高次元の世界がある

2022年06月01日 | スクラップブック
電子スピンはコマのように
自転していて、
それは永久に止まることはないし、
止めることも出来ない。
その電子スピンの向きによって
磁性が現れる。
しかし
電子は粒子でもあり波でもあるという
現実により、大きさの概念がない。
従い電子の姿は感じたままの想像図
となる。




電子スピンは
トップスピンとダウン(ボトム)スピン
それに重ね合わせのスピンの3種である。
トップどうし、ダウンどうしの
重ね合わせは存在できない。
また、トップスピンとダウンスピンが
隣り合うと、重ね合わせの状態となる。
ただし
重ね合わせの姿・形も観察ができない。



磁性が現れたり磁性がなかったりするのは
電子スピンによって決まる。
そしてスピンの向きは外的要因により
簡単に変えることができる。




ボトムスピンとトップスピンが
同数であったり
スピンが重ね合わせの状態であれば
磁性は現れない。



金属原子一個当たりの
スピン配列により磁性が現れる。
下記に鉄原子の例を示す。








従って金属の結晶構造によって
決まった磁性が現れる。







要は
人間の眼に見えない電子の
重ね合わせの分布によって
磁性の状態が決められて
現れているということだ。







ところで
最近流通していると思われる
般若心経「空」の表現のなかに、
「感じることしかできないが
存在しているもの」佐々木閑
というのがあった。
より高次元の世界が
我らが感じられないところにある。
というものだ。

これはまるで
量子の重ね合わせの世界のようだ。
量子世界の重ね合わせとは、
英語ではsuperpositionといって
やはり高次元の世界だといっている。

重ね合わせの姿は
想像図や数式においては
シュミュレーションとしての
表現が可能であるが、
実体として見ることはできない。
そもそも電子自身が
「粒子でもあり波でもある状態」
であり、これも
実体として見ることはできない。


ブラックホールも
「感じることしかできないが
存在しているもの」である。
人間はそこから自発的に現れる時空、
即ち関係性の縁起やら関係者を初めて
目の前にする。
それが「色」というもので表現される。
具体的には重力波が観測されている。
その時空の世界の複素状態、
時空のゆがみと時空の変化とが
ふたたび重ね合わせとなった状態が
元の「空」なのであろう。






さて、
合成と分解の動的平衡状態から
生命が生まれ維持される。
重ね合わせとは異なり
互いに対抗する複素状態が
順次入れ替わり発生する状態だ。
このような状態の中で
少しだけ「分解」の方を
先回りさせる(福岡伸一)だけで、
生命は変えることのできない
エントロピー増大の法則と
折り合うことが可能となる。

一方、重ね合わせの世界では
動的平衡とは異なり
対抗する複素状態が順次現れてくる
とは限らないのだが、
動的平衡状態と同様
生命はどうすることもできないことと
共存しながら生きている。

要するに
人間は動的平衡状態から生まれて、
重ね合わせの状態から出現する
人生とか運命のような
どうすることもできないことと
折り合いを付けながら生きている
ということだ。
自然には逆らえないと
よくと言われるように、
量子の重ね合わせには逆らえない。




人間が高次元の世界、つまり
変えられない世界を相手にするとき、
目の前に現れてきた「色」という
舞台の上で、
我らがどのように振る舞うかという
ことになるわけだ。即ち
共存する法則とどのようにして
折り合うのかということだ。



人間の日常も
成功や失敗、喜びと悲しみ
の変えられない世界、即ち
重ね合わせから生まれる。

そうした「空」と「色」の
変えられない関係から、
ミスや悲しみのない世界だけを
追求したのでは破たんする。
変えられないことを
変えようとしてしまえば、
死ぬまで苦しむことになる。
無くしてしまえと思わないことだ。
量子のスピンや重ね合わせは
無くならない。
ミスや悲しみとは
乗り越えようとするのか、
(バックアップしておく)
折り合いを付けようとするのか
のいずれかだ。

成功や失敗、喜びと悲しみ
の繰り返しの世界で生きている。
そのことに気が付けば、
いつまでも
悲しみに暮れていても始まらない。
成功や喜びも同様に生まれている
ことが認められれば、次には
チャレンジしようという意識が
生まれる。



どうすればよいのか?
動的平衡状態の時と同様に、
少しだけ
心の老廃物の分解を
先回りさせればいい。
それは
重ね合わせの状態を知ることから
始まる。
superpositionといって
変えることのできない
高次元の世界を知ることから始まる。

そしてそこから新たに生まれてくる
秩序やら意識から希望が生まれる。
そして少しずつ、楽しいことを
増やしていく。

低次元の中で、何かにしがみついたり、
何かにこだわってしまっているのは、
コップ(想像上の秩序)の中で
泳いでいるようなものだ。

いい時もあれば悪い時もある。
それは変えられない人生の舞台だ。
悪いことの回避だけに邁進するのではなく、
いい時もあれば悪い時もある。それが
高次元の存在を知ることから生まれる
囚われからの解放だ。


「あるがままに」と思ったとたん、
あるがままではなくなる。
「あるがまま」を捨ててこそ、
あるがままになれる。
それが
少しだけ「分解」の方を
先回りさせるということだ。

自分というものを捨ててこそ、
本当の自分というものになる
ことができるということか。

親鸞も
「無義の義」といって、
こうでなければならぬ!や、
こうあるべきだ!を捨てたところにこそ
本当のあるべき姿が現れる。


西行も
「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな
身を捨ててこそ 身をも助けめ」
と詠んでいて、いささかこじ付け的ながら
量子の世界と共通するところがある
ように思えた。











スピンの想像図

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空海の総持と量子ビットの重ね合わせ

2022年05月18日 | スクラップブック
量子スピンは
左回転と右回転を同時に
併せ持つ
重ね合わせの状態にある。
人間はこの状態を見ることが出来ない。
人間がたまたま見ることが出来るのは
左回転の量子か、右回転の量子か、
いずれかの状態である。


その概念を利用して、新たに
量子コンピュータが生まれた。


また、量子は粒子でもあり
波動でもある状態を
同時に併せ持っている。
人間はこの状態を見ることが出来ない。
人間がたまたま見ることが出来るのは
粒子の状態か、波動の状態かの
いずれかの状態である。

電子の場合にも、粒子として一つずつ
二重スリットに打ち込んだとき、
それが多数になれば波動の干渉縞が
現れる。





結晶構造でも
電子顕微鏡において
透かし画像(透過像)か
逆格子像かのいずれかである。
双方からのシュミレーションとして
結晶構造を見ることになる。
人間はそのままの実体結晶構造を
見ることは出来ない。



最近二種類の二次元結晶を重ねると、
そこから光起電力効果が新たに現れたとの
論文が発表されている。






さて、密教思想を「総持」という。
空海は言葉や文章ではなく、
「総持」の世界から現れる
金剛界と胎蔵(界)の
二つのイメージとしてそれを表現した。

ところで鶴見には禅寺で知られる総持寺がある。
「総持」には「双方に所有」の意味を持つとある。
したがい「双持」とも表現される。
これはとりもなおさず
「量子の重ね合わせ状態」である。
いわば
真理や存在の双方を同時に持つ状態だ。
あるいは
「現実と理念の相矛盾する存在を保持する」
という。
人間はこの状態を見ることは出来ないが、
それぞれの存在を認め合い
互いに折り合う形の秩序として
新たな意識となって人間の心に現れる。


参考資料:
「総持」と「止揚」の比較




現代物理における量子の重ね合わせ状態と
空海の「総持」が同じ状態なのであれば、
これには驚くほかにない。







そもそも仏教には
現代物理における量子の重ね合わせ状態
と思われる概念がいくつか伝承されてきた。
例えば
「相即」
「二つの対立するものが実は相互に融合し合い、
一体となっていること」広辞苑
これも量子ビットでの重ね合せ状態と同じだ。
いわば西田哲学の「矛盾的自己同一」だ。

同様に「色即是空」の「即」においても、
「即とは相反することがそのまま同等で差別のないこと」広辞苑
無分別概念の表現だ。

また「空」とは
「単なる空虚(void)ではなく、そこから力と創造が出てくる」
「空とは、すべての個々のものが全体性を持ったまま、畳み込まれ
融和して完全に一体化した状態である」宗教研究家志水一夫
これも量子ビットでの重ね合せ状態と同じだ。



存在はするが眼に見えない状態を「空」として
何も存在していない状態は「無」と表現し、
「空」から眼に見える、あるいは感じられる状態が
出現することが「色」であるとしている。
そうした途中での行程が「縁起」とされる。
また、「無」から出現する状態を「渇愛」といって
対立の原因としている。

このような表現が現代の量子物理学と酷似している。
つまり
量子ビットで言えば、右回転と左回転が
重ね合わせとなった状態「空」と、
右回転あるいは左回転のいずれかが観察される「色」で、
「空」と「色」は一体の関係となっている点だ。

他の具体例では、眼に見えないブラックホールの合体により、
重力波という人間が観察できる歪みとして現れる現象だ。


時空の歪みは重力レンズとして観測され、
時空の変化は
宇宙の加速膨張として観測されている。




ところで
ホモサピエンスは他者に共感することで、
近づく意識と離れたままの意識の二つが
重ね合わせとなることで群れの状態が
新たに生まれてくる。
  

群れである集団の大きさは技術革新に比例する。
これは「想像上の秩序」といわれるものであって、
ホモサピエンスの特性だ。
これによって
ホモサピエンスは最強の生物となった。
しかし同時にそれは
対立に傾きやすい性質にもなっている。
一方、
対立に傾きやすいその性質に逆らう能力
併せ持つことが知られていて、
これも一種の重ね合せ状態である。

ホモサピエンスの集団脳は人間の進歩の源泉だ。
古来より仏教として伝えられてきた「空」と「色」の関係。
そこから新たに生まれてきた
その特性を意識することでも
一人の天才に依存するのではなく、
試行錯誤を繰り返して新たな道具を実現してきた。

   

「対立」は避けられないものかもしれない。
しかし「空」と「色」の道具によって「対立」する習慣が少しでも
避けられるようになることが期待される。

たとえ対立があっても、
互いに共感・共存していく道具は眼に見える形で既に存在している。
















マンドラゴラ
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動的重ね合わせと般若心経

2022年04月02日 | 記事のコメント
重ね合わせにある1個の量子ビットの
右回転でもあり左回転でもある状態を
人間は観察することはできない。
唯一偶然によってのみ、
右回転か左回転かのいずれかが
観察される。
それによって高速の演算が可能となる。
量子を見るまでは右回転か左回転か存在しないが、
素粒子のような微視的世界では実証されているが、
人間スケールの巨視的世界ではこれまで未解決だ。


ところで天使と悪魔がいて
双方が逐次出現する場合を動的平衡という。
禍福はあざなえる縄のごとしである。
しかし悪いことは重なるものだと
言われることがあるように、
コインの様に表と裏が回転して
順次現れるとは限らない。
競技においても、一度ミスしてしまうと
ズルズル点差が開いて引き離される。
逆に
一旦勝つことでイケイケどんどんとなって
勝ち進む。
従い天使と悪魔は、コインの様に順次現象が
入れ替わる動的平衡とは異なり、重ね合わせが
実在のようだ。しかし
人間は重ね合わせの一体となった状態を
観察できないから、
たまたま天使か悪魔かを観察できたとしても、
それは偶然の結果である。
しかもそれは人間の意識上のものだ。

重ね合わせの状態にある天使と悪魔のイメージ図


さて、「電子は波でもあり粒子でもある」
その重ね合わせされた状態は観察できないが、
”粒子”である電子を一個ずつ
二重スリットに向けて打ち込むと、
多数の蓄積が進むにつれて
スリットを通過した位置のスクリーンには
電子の重ね合わせ状態によって生まれた
波の”干渉縞”が現れ、観察が可能である。




重ね合わせは自体は眼に見えないものだが、
例えば疎水性と親水性が
重ね合わせの状態にあるとすれば、
そのことで、
自発的に細胞膜が合成されている。
その状態のイメージを下図に示す。




親水性と疎水性の重ね合わせの状況は
観察できないが、現れた物質の細胞膜は
眼で見ることは可能である。
親水性と疎水性の重ね合わせの上図は
想像図であるが、
問題は自発的にしかも動的に細胞が合成されて
現れる状況だ。

同様に時間と空間の重ね合わせの状態は
見ることができないが、それによって生まれた
人生や運命も重ね合わせの結果なのであろうか。
もしそうであれば、
動的重ね合わせで作られ決められた運命に
逆らってみても思い通りにはならないわけだ。

ただ、よく乗り越えるべき人生とか、
定められた運命とかいわれるところを見ると、
あらかじめ時間と空間の重ね合わせによって
自発的に且つ動的に作られているように思える。
あらかじめ作られた人生が目の前に現れるので
ラッキーか、アンラッキーなものか、そしてそ
れを乗り越えようとすることは可能だが、
逆らったり無かったことにすることはできない。

であれば、
何のために生まれてきたのかって?
生きる理由は時間と空間の
動的重ね合わせの原理に聞いてくれ!
動的重ね合わせで現れた運命から聞いてくれ!
ということになる。


「人間が人生の意味は何かと問う前に、
人生のほうが人間に対し問いを発してきている。
だから人間は、本当は、
生きる意味を問い求める必要などないのである。
人間は、
人生から問われている存在である。
人間は、
生きる意味を求めて問いを発するのではなく、
人生からの問いに答えなくてはならない。
その運命を受け入れる事だ。」
ヴィクトール・E・フランクル

自分が死んでも自分は困らない。
生きる理由は自分にないから。
子供のように
海とか山とかのつながりから
自分は生きている。
養老孟司



誕生直後の宇宙における
空間のみの膨張をインフレーションという。
インフレーションが終わると、
宇宙の温度が上昇し、ビッグバンが起こる。
そして、素粒子、光、熱が生まれた。

そもそも初めから現在まで
すべてが自発的(自律的)であり動的である。
そして現在でも宇宙の加速膨張が続く。
その原因は、ダークエネルギーとダークマターだ。
人間が観察できないのは、それぞれが重ね合わせの
状態だからなのかもしれない。

アインシュタインの方程式に依れば、
時空のゆがみと時空の変化が物質の分布、
即ちエネルギーに相当するという。
このダークエネルギーが見えないのは
時空のゆがみと時空の変化が重ね合わせの状態
になっているのかもしれない。
しかし、ダークエネルギーから合成によって
人間が観察できるものも絶え間なく自律的に
出現される。
近年、ダークエネルギーからの合成によって
(二つのブラックホールの合体時に)
重力波として観測されている。

宇宙の中の圧倒的な割合で存在する
ダークエネルギーとダークマターは、
ビッグバン直後では素粒子の合成が主だったが、
今では巨視的なものも自律的に合成し続けている。
それらのそれぞれの合成の結果で
人間たちの運命(人生)が創られる。



また、いささかこじつけ的であるが、
具体的には
時間と空間の重ね合わせによって生まれた
闇と明るさについても同様だ。
自律的に生まれる事象なので、
そこにどうしても出会ってしまうモノだ。

西洋では数多くの争いの中から生まれ、
そしてよく言われる。
闇はあらゆる所から、
そしてあらゆる方向から迫ってくる。
しかし明るさも必ず生まれているので、
少しでもその明るさによって対抗すべきであると。


目の前に現れた人生や運命が
ラッキーかアンラッキーなのかは
眼で見ることで自分の意識によって変化する。
せいぜい天使が見えてくるように
意識を誘導することは可能だ。

天使か悪魔かわからなければ人間は
「気分よく過ごすと、天使のように意識され」
逆に
「心配、不安、恐れ」そういう感情を持つと、
悪魔がやってくる意識が働く。
要は
天使だろうが悪魔だろうが
両方合わせたモノが実在の全体だ。

人間は重ね合わせの中でしか生きられないので
重ね合わせの状態を外から観察できない。
唯一神だけがこの重ね合わせの状態を外から
見ることができるのかもしれない。





波動方程式の解やオイラーの公式にも
重ね合わせの状態が数式上に見られる。
  





ところで
般若心経にある「空」も
量子ビットで言う重ね合わせに近い。
いわば
電子が波でもあり、粒子でもある状態と同じだ。
それはダークエネルギーと同様に
人間は見ることのできない世界である。
人間はそこから自発的に現れる時空、
即ち関係性の縁起やら関係者を初めて
目の前にする。
それが「色」というもので表現される。

眼に見える「色」には古来より、
意識により状態が変化する善悪二元と、
変化しない陽陰二元が知られている。
変えられないものを変えようとしない事だ。
また、
仏教では二元の境界について、無分別や
一体化などと、これもよく知られていて、
ここから「空」の概念が導入されてくる。


ここでは、その時間と空間とがふたたび
重ね合わせとなった状態になれば元の
「空」である。



「空」は量子ビットと同様に
空間のゆがみと時間の変化の
重ね合わせであれば、
人間にとって
観察することができない状態であるが、
現実には存在しているものであって、
したがい「無」とは異なる概念だ。


加えて、
「色即是空」と「空即是色」もちょうど
量子ビットの右回転と左回転に対応している
重ね合わせの状態だ。
「色即是空」これが真理だ!
とこれだけに固執するならば、
真理には到達しない。量子ビットと同様に
重ね合わせの状態であって、
「色即是空」であるとともに
「空即是色」であり多様的だ。

同じく妄想をさらに拡大させれば、
ダークエネルギーとダークマターに
対応しているとも考えられる。
「色即是空」と「空即是色」のそれぞれの
重ね合わせの状態は
やはり見ることができないので
想像するしかない。
それによって例えば群れが自発的に作られる。
その重ね合わせから作られた群れが実態として
初めて観察される。
群れの動的な多様性は人間の意識として
創りだされた結果である。



ダークエネルギーとダークマターの
重ね合わせで、宇宙に満ち溢れている
有機物の群れが自発的に現れ、その中から
遺伝子の4つの塩基も創られる。

こうした重ね合わせは誰も見たことはないので
否定する証拠はなく、無敵である。



時間と空間(関係性)の重ね合わせと同様に
概念の重ね合わせも創造される。
「諸行無常」と「諸法無我」も重ね合わせ
であれば目で見ることはできないが、
「涅槃寂静」が自発的(自律的)かつ動的に
に創り出される。
それは社会の多様性に対処できる。
そこが動的重ね合せの原理である。

例えば「諸行無常」が青で、「諸法無我」が赤である。
「涅槃寂静」が純粋実空間に対応する。
「諸行無常」と「諸法無我」の事象の上に
成り立つ概念であって、動的なものであり且つ
涅槃と寂静が時間と空間の複素空間のように
やはり重ね合わせとなっているように見える。
悟りと安らかの状態として表現されてはいるが、
重ね合わせの状態であれば観察はできない。
しかし
それによって自発的に合成されたものは
柔軟性や多様性などの自己肯定の姿となって
目に見えてくるものだ。





参考:
弁証法で知られる止揚論については、
対立したり矛盾したりする概念によって創られる。
双方を合わせ、どちらも切り捨てることなく
より高次の次元での概念を導くものであるが、
動的なものではなく静的である。





唯識論
「客観と主観との両者を含めたあらゆる存在はすべて、
ただ表されたもの、知られたものに過ぎない」
という意味。
唯識説は、あらゆる存在は認識された姿として
立ち現れているだけであって、
認識された姿の背後に実体的に何かが存在すると
予想しない。
人間の目には見えない重ね合わせから立ち現れてくる
現象と同様だ。



エントロピーの法則に逆らう生命現象も動的である。
合成と分解とが常に逐次繰り返されている。
分解を少しだけ先回りすることで
持続的な秩序として生命が生まれる。
福岡伸一博士が提唱した「動的平衡状態」と呼ばれていて
大変有名である。





ダマスカス鋼
ダマスカス鋼はその強靱さ、錆びにくさ、
表面に浮かぶ優美な波紋から神秘性をもち、
その製法はいまだ謎に包まれている。
溶解させた鋳鉄を
坩堝の中でゆっくり凝固する際に、
内部結晶作用により融点の違う鋼が
別々に結晶化したことにより模様が
発生した鍛鉄をいう。
この溶解させた鋳鉄の状態が量子ビットの
重ね合わせの状態に近いものだ。
見ることができないから想像するしかないので
神秘性のイメージとなる。
自律的に結晶化して現れたものが観察される。

ところで現代のダマスカス模様は
異種金属を多層に重ね合わせることで、
この模様を形作っている。従い
量子ビットの重ね合わせとは異なるものだ。
この多層に重ね合わせ、素材を鍛えることは、
日本刀の技術で知られるように、
非常に優れた刀身を生み出す。
これは多層の素材を圧延し鍛える過程で、
現れる模様である。







空観方程式での問題の解決では
重ね合わせの状態にすることだ。
即ち、これらは量子ビットのように
両方の状態をいつも同時に持つことである。


あるときはあるように
ないときはないように。

できないときはできないように
できるときはできるように。

ありのままでもいいし
ありのままでなくてもいい。



「やればきっとできる」という自己効力感は
成長するにしたがい、さまざまなネガティブな
経験によって低下してしまいがちだ。それは
正しいか正しくないかだけの物事に固執してしまう。
再び高めるためには柔軟性を持つことだ。
「何があっても受け入れる」という柔軟な心。

何が起きるかわからない世界で生きるには、
重ね合わせの状態によって、多様性へ備え
「いいときも悪いときもありのままの自分を信じ、
自分は何を選んで、何を大切にしていくのか」の
目の前に現れてくる実態としての前向きな気持ち、
自己肯定を常に持ち続けることだ。









重ね合わせとは
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量子コンピュータの原理と三法印

2022年03月16日 | 読書・TV感想
量子コンピュータの原理の一つに
「重ね合わせ」の原理がある。
象徴的には、
電子が波でもあり粒子でもあるという
二つの状態を同時に共存していることだ。
いわばコインを空中に放り投げて、表と裏が
同時に共存している状態であって、
地上に落ちれば、裏か表かが初めて確定する。
同様に量子ビットでも
時計回りと反時計回りの回転を
同時に共存する状態を使って、
重ね合わせのままで計算する。




オイラーの公式では
指数関数はSIN関数とCOS関数の
「重ね合わせ」となっている。







     
仏教での三法印においても
涅槃(悟り)と寂静(安らぎ)の二つの状態が
同時に共存していることにある。
いわば「重ね合わせ」の状態である。
涅槃=SIN関数
寂静=COS関数




そうした状態が量子ビットと同様に
問題の解決に役立っている。

空観方程式でも
両方の状態をいつも同時に持つことであり、
二つの状態の連立方程式となっている。

涅槃=空間(関係)
寂静=時間

即ち、
あるときはあるように
ないときはないように。

できないときはできないように
できるときはできるように。

戦える時は戦い、
戦えないときは戦わない。







参考:弁証論について
対立したり矛盾したりする概念の
双方を合わせ、どちらも切り捨てることなく
より高次の次元での概念を導く。



とんかつとカレーライスを
どちらも切り捨てることなく
高次な次元に導くと
カツカレーが生まれる。

子供に必要な勉強とゲームの場合
どちらも切り捨てることなく
高次な次元に導くと
学習ゲームが生まれる。

キリストが生誕した時の祝日名
メリークリスマスは非キリスト教徒には
当てはめられない。そこで双方の合議により
ハッピーホリデーという名称による
祝日が生まれる。


以上のような合議は止揚論として使われるが、
いずれも静的な事例や概念によるものである。


一方の
量子ビットの場合はどちらも切り捨てることなく
高次な次元に導くと「重ね合わせ」という
動的な概念として導入されている。






弁証論

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命を懸けても守るべきものがある・・・

2022年03月07日 | 読書・TV感想
ウクライナが多くの犠牲者を出しながら、
ロシアの軍事侵攻を阻止している。
国民も色々な立場、考えがあり、
逃げるのも踏みとどまるのも自由。
しかし「命が大切だから降伏しよう」
だけでは、降伏後に法律が無視されて
大量殺りくされる可能性もある。
従って、一方では
「座して死を待つより、戦って死ぬ」
という価値観も現実に存在する。


軍事力ではロシアと比べて大きく異なる。
命を懸けて守るべきものがある場合には、
守れそうなら守る。
命の方が大事になれば戦いを止める。

突き詰めれば、
「命よりも大切なものがある」だけでもダメ。
「命が一番大切だ」だけでもダメ。
双方が混在しているのが真の姿だ。

自分の命より大切のものがある。
命を掛けてでも守りたいものがある。
家族や社会が守れないなら戦う。
大きな犠牲をもとに大切なものを守るのも
事実なので、多くの命が犠牲になり、
国家・社会が消失するのなら戦いを止めることも
必要な考え方だ。


指揮官は戦争状態にあれば、
国民の命を守るために何でもありで、
最後まで戦うと発言するのも当たり前。
善良で慈悲深い指揮官だけでは早晩
没落するだけだ。

要は軍事的決断には、他国との連帯と
これらの状態を把握して制御できる
精神状態であるかどうかだ。
「座して死を待つより、戦う」といった
勇ましくかっこいいものだけに
熱中してしまわないことだ。
バランスを維持するためには
悪魔とも手を結ぶ。
これが外交の基本である。

なによりも
ウクライナが大国ロシアと闘う姿を見せたことで、
NATO諸国がばらばらに進めていた天然ガス
対応では、一致団結した経済制裁という
「群れの形」を世界に示すようになった。
さらには世界企業がロシアから引き上げたり、
世界の人の心がロシアから離れてしまうという
新たな「群れの形」が生まれた。

権威主義は専制主義ともよばれ、
強権的な政治体制のもとで市民の権利を
制限して統治するやり方だ。現実には
権力が一人や一党に集中する独裁主義である
場合が多く、2019年時点では
民主主義国・地域は87、非民主主義国は92と
民主主義は少数派となっている。
特にコロナ禍では、人の動きを強権的に抑える
権威主義国のやり方が効果を発揮している。
また中国のように著しい経済成長をも実現する。
しかし今回、オリンピック期間中に発覚した
ドーピング問題や、プーチン大統領が行った
突然の、誰も予期できなかった
ウクライナへの侵攻は、
専制主義が潜在して抱え持つ暴挙として
民主主義国の同盟を一層強固なものに
していった。


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象の鼻はどうして長いのか

2022年01月25日 | 記事のコメント
人類の至宝といわれる
オイラーの公式より

SINだけでもダメ、
COSだけでもダメ、
両方混ざった状態、あるいは
実と虚の二項、二元で形成される
複素空間が良い状態だ。

三角関数だけでもダメ、
指数関数だけでもダメ、
両方が交ざった状態で解決される。


三方よし
売り手よし、買い手よし、
売り手だけでもダメ、
買い手だけでもダメ、
両方の「よし」が混ざった状態で
「世間よし」が生まれている。

ビジョンだけでもダメ、
ハードワークだけでもダメ、
両方混ざった状態が良い状態だ。
それだけ大きな喜びが生まれる。

癒しだけでもダメ、
モットモットだけでもダメ。
どうなるかだけでもダメ、
どうするかだけでもダメ。
ミッション(役割)は何か?だけでもダメ、
パーパス(志)が何か?だけでもダメ。
両方混ざった状態で解決される。

  

なぜ生きるのか?どう生きるのか?だけでもダメ。
片方だけではいつまでたっても解決しない。
同様に、こうでなければならぬ!だけでは
ダメなのだ。
あるときはあるように、ないときはないように、
両方混ざった状態が良い状態だ。即ち
今のままありのままで生きる、と
やればできるの両方だ。

自分になぜ生きるのかと
自問することは、
キリンにどうして首が長いのか?
と聞いているようなものだ。

自分にどう生きるのかと
自問することは、
象にどうして鼻が長いのか?
と聞いているようなものだ。

答えは誰にもわからない。
そんなことはどうでもいい。
象はそのままで生きているだけだ。



自分の「存在意義」だって同じだ。
自分の生き方を自分で決められる、
決められることが正しいか正しくないかではなく、
あるいは
その生き方が正しいか正しくないかではなく、
自分で決められる姿が、キリンや象と同様に
人間の本当の姿だ。
様々な問題を抱えながら、
時々の最善なものを決めながら
キリンや象と同様に
そうした姿で生きている。


人間は、自己都合という追い求める心、
「心の振る舞い」について獲得したが、
その代償として
「悩める存在」となった。

こうしたところが首の長いキリンや、
鼻の長い象と同列なところだ。

光があれば影があるように、
人間は交ざりあった心の中から、自己都合などの
相互作用によって本当の姿(原因)を見ることだ。
そうした動物だから、どちらかだけに
こだわらないことだ。

個人の情熱を傾けられる何かといった、
「こだわり」と「他に思いを馳せる」との
両方の混合とによる一体化だ。

要は二分割思考だけで終始しないことだ。








    



このような
二項対立の混ざった状態の中から
本当の姿が見えてきて、
そこと折り合いをつけることで、
解決が生まれてくる。
例えば
存在意義だけでもダメ、
経済的自立だけでもダメ。
混ざった状態の中から解決が生まれてくる。

やればできるだけでもダメ、
ありのままがいいだけでもダメ、
双方が交ざった状態、
あるいは相互に繰り返す状態が
本当の姿であって、要はここでも
二分割思考だけで終始しないことだ。

できないときはできないように、
  できるときはできるように。

有るときは有るように、
  無いときは無いように。

目標があればあるなりに、
  ないときはないなりに。





西行は
「身を捨ててこそ 身をも助けめ」とうたった。
「身を捨てる覚悟」のようなものが有ればこそ、
むしろ不安から離別できて、
本質、真実が見えてきて、安心につながる。

悟りを捨ててこそ、悟ることができる。

私を忘れることこそが、本当の私になれる。

無義の義(親鸞)

要するに、相互作用に導かれ、
やればできるを捨ててこそ、
できるようになるということか。
それが複素空観での方程式の解答だ。
二分割思考の参考:



双方が交ざった状態がよい
ありのままを捨ててこそ、
ありのままにふるまえる。

あるがままは、我慢していた自分から解放される。
あるいは
出来ない時は、出来ない様に、との意味合いだ。
しかし、
ネルケ禅師も西行法師と同様に、
あるがままに、と思った瞬間、
あるがままではなくなるという。
さらには、
あるがままが強すぎると、
自己都合を振りまく事にも
つながると警告する。

やはり
こうでなければならぬ!
といった一本気、一途さ、純粋さには
自己都合というものが混在する。
怒り、喜び、嫌悪、驚き、期待、恐怖、悲しみ、
と自己都合とが相互作用することでの
「思いの枠」と「悩み」から見えてくる、
自己都合の無い本当の姿とは?

親鸞の「義無きを義とす」であって、
無い無い無いのまっさらな状態しか存在しない。
いうなれば
ありのままでもいいし、
ありのままでなくてもいい。
要は動的二元
Dynamical Dualityから生まれる多様性のように、
交ざった状態から生まれてくる、自己都合やこだわりの
無い無いの状態。
それらが折り合いを付けるという事で調和する。
歪みや変動の無い「真の実在」が見えてくる。






参考:
日本人に「宗教」は要らない
ネルケ無方 2014年2月
「楽しみを目的にしない」より

いつもハッピーでなければいけない
というのは幻想である。
それが現実であり、それに気づかないと
余計に不幸になってしまう。
「苦しいときもあり、幸せでないときもある」
(ハッピーになる事を捨ててこそ、
ハッピーになるということか)と思えたら、
人は意外と安定した人生が送れるものだ。
誰も苦しみの受け入れ方は教えてくれない。
幸せになれ、夢を追え、というが、
夢など見なくても、普通に現実を生きて
いくだけでいいではないか。











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国別新型コロナ感染状況

2021年12月23日 | スクラップブック
新型コロナウイルス感染状況(日毎)を
国別に比較する。

ワクチン接種が不十分であった時期と、
接種が進行した時期との
感染者数(陽性反応者)と死者数を
比較してみる。

感染者数が増加しても
死亡者数が減少しているグループと
感染者数が増加して
死亡者数も増加するグループの
大別して二種類が存在している
事が解る。



感染者数が増加しても
死亡者数が減少しているグループ例



感染者数が増加するにつれて
死亡者数も増加するグループ例




ヨーロッパではワクチン接種が進行し、
前回の波状と比べて
死者数は減少している。









米国やメキシコでも死者数は
減少の傾向である




我国でもワクチン接種が進行した状況で
前回の波状と比べて
死者数は減少している。


一方、インドネシア、ポーランドでは
ワクチン接種が不十分なことにより
感染者増加と死亡者の増加状況は
比例している。





韓国とロシア、ウクライナが
ワクチン接種が進行している
にもかかわらず、
感染者増加と死亡者の増加状況は
比例している。







死亡者数の減少は、
ワクチン接種によるものと、
弱毒化とされるオミクロン株の
置き換えによるものが
考えられている。
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2021年に注目された日本と日本人

2021年12月15日 | スクラップブック
大谷翔平 MLBリアル二刀流(ベーブルース以来)
 米国大リーグ9勝、46ホームラン。
 138安打、100打点、103得点、130回投球、156奪三振
 コロナ禍において明るい話題と光りと希望
 アジア人への好印象とアジア人の誇り
 チャレンジ精神とプレーへのひたむきな姿勢。
 誰でも簡単に出来る事を一生懸命するという教育。

東京2020

コロナ感染者の激減

ノーベル物理学賞 真鍋淑郎
  米プリンストン大上席気象研究員;日系米国人
 「日本では人々は常に他人に気を使い、調和を保つ。
  アメリカでは他の人がどう思っているか気にせず、
  やりたいことができる。
  私は調和を保つのが苦手なので日本に戻りたくなかった」

スーパーコンピュータ富岳4年連続世界一

反田恭平
ショパン国際ピアノコンクール、ファイナリスト2位

藤井聡太
19歳で将棋4冠達成

大阪なおみ(プロテニス全豪オープン優勝)
井上尚弥(プロボクシングWBA6度目、IBF4度目の防衛に成功)
松井秀喜(米国男子プロゴルフメジャー優勝)
笹生彩香(米国女子プロゴルフメジャー優勝;日系フィリピン人)


米国伝統の自動車レース、
インディアナポリス500マイル(インディ500)で
佐藤琢磨選手が日本人初の優勝を果たした

2021年限りでのF1活動終了を決定でホンダ劇的優勝
1991年のセナ以来となるドライバーズチャンピオンをもたらした。




追加
新型コロナ感染者数の推移は年の後半(オリンピック以後)
欧米と比べて急激に減少した。日本人の潜在的な抗体所有
との説もあるが、明確な原因は不明なままである。

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ワクチン接種によって陽性者数は増加するが死亡者は減少?

2021年12月10日 | スクラップブック
陽性者数(上段)と死亡者数(下段)
の比較を、ワクチン接種率の
低い時期と高い時期で比較してみる。


インドネシアのように、
ワクチン接種率が低ければ
陽性者が増加するにつれて、
死亡者数も上昇する傾向である。



一方、
ワクチン接種率が高ければ、
陽性者が増加しても
死亡者数は増加しない。







米国においてはワクチン接種率の
低い時期と高い時期とで
大きな変化がなかった。




韓国では
ワクチン接種率が高いにもかかわらず、
陽性者が増加するにつれて
死亡者数も増加している。




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コロナウイルス株での勢力争い

2021年11月29日 | スクラップブック
コロナウイルス感染者数が急激に減少した理由

ウイルスの変異による弱毒化の結果ではなく、
ウイルス株の種類混在による勢力争いの結果の
人間感染なのではなかろうか。即ち
ウイルスの変異によって出来た株種相互の
勢力争いによって、人間の細胞が利用され、
その結果で感染が増大する。
一旦、最強のウイルスが領域内で蔓延して、
勢力争いが収束してしまえば感染も収束する。
従って、
インフルエンザウイルスの蔓延が抑えられるのも
こうしたウイルス間での勢力争いの結果
ではなかろうか。




期間軸に対するコロナ株の勢力争いの例
   


コロナウイルスにおいても
現在日本ではデルタ株の蔓延によって
感染は収束の状態にあるが、新たにオメガなどの
コロナ異種株が混在するようになってくれば、
再び勢力争いが生じて感染拡大すると考えられる。

南アフリカでの感染状況と比較してみる。




我国における第5波の感染収束状況は、
ワクチン接種の進捗状況と重なっているために
感染収束の原因とも伝えられてきたが、
ワクチン接種進捗以前におけるインドでの
感染収束状況(下図)を見れば、
ワクチン接種によって感染収束した
原因ではないことが分かる。



また、第5波とオリンピックの開催が
重なっているので人流抑制が感染収束の
原因とも考えずらい。
ワクチン接種はむしろ下図に示す通り、
感染抑制よりも重篤化防止に効果的であった
と考えられる。
第5波での死亡者数はワクチン接種以前の
第3、第4波死亡者数より減少している。従い
ワクチン接種は特に高齢者の感染死亡率改善に
寄与していると考えられる。





世界的にはコロナウイルスの感染によって
経済対策のための金融緩和政策が実施されて、
莫大なマネーが蔓延している。


新種のコロナウイルス株が発見されただけで、
世界同時株安がまたしても生じた。
このようなパンデミックは、同時に人間の
金の奪い合、勢力争いにもなっている。





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在日米軍と新型コロナ感染者

2021年11月16日 | スクラップブック
ウェブ上で公表されている
在日米空軍基地内でのコロナ感染者数を
以下に示す(10月21日付)。



一方
国内における感染者数において、
都道府県別の公表データをみると
(10月18日付)
沖縄と青森が突出して多い時期がある。
特に青森と岩手・秋田は陸続きの
隣接県であるにも関らず、
青森2位、秋田46位、岩手47位である。
このデータを見れば
在日米軍基地が関連しているように見える。




しかしながら
公表されている在日米空軍とNHKとの
データで関連性は見当たらない。

水際対策するならば、正しいかどうかだけでなく、
何が本当なのかを注意しておく必要がある。
成田や羽田だけでは水際対策にならないからだ。
(あるいは
米空軍のデータだけでは不十分なのかもしれない)

そこでここでは
関連していると思われる新聞記事を
スクラップブックとして掲載しておく事にする。

 
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コントロールできない世界で生きている

2021年11月08日 | 記事のコメント
コントロールできない法則の中で、
生きづらさの無い生活を送るために
オイラーの公式が役に立つ。



正しいか正しくないかだけでは解決しない。

オイラーの公式は
二項対立の中でも
問題解決の方法を示す。



エントロピー法則の中で
代謝による生命活動の例



マンドラゴラの植物からは
二項対立が一体であることを
互いに認め合うことだ



人間のDNAも
ウイルスより獲得された姿として
形成されている。
人間もウイルスとの共生によって、
折り合いをつけることで
進化してきた証拠だ。

理念と現実の二項対立
コントロールできない世界の中では
それぞれ交互に繰り返されることで
秩序が維持されてゆく。
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分配か成長か

2021年10月29日 | 記事のコメント
成長か分配かの問題を
「三方よしのトライアングル」に当てはめる。


三角形の頂点には
新たに生まれるものや見えてくるもの、さらには
二元対立による問題の解決法である。

例えば三方よしとオイラーの公式では
以下に示すようなトライアングルとなる。

トライアルの頂点には新たに『信用』として
『世間よし』が当てはめられる。


成長か分配かの問題では
どちらが先か、あるいはどちらを選ぶか
ではなく、
両方必要であるので、オイラーの公式のように
三角形の頂点は
「循環メカニズム」となる。

好循環なのか悪循環なのか
それを見極めることによって、
悪循環であれば、その原因を突き止めて
改良するメカニズムが必要だ。

そのメカニズムを作る作業が
政治である。



わが国の現状としては、
財務省事務次官の選挙前投稿記事の
内容に対して多くの賛否両論が有って、
且つ、事務次官の異常なパーホーマンス
を見せられれば、どう見ても正常な
状態ではない。結果として
循環メカニズムがうまく働いていない
のではないかと思わざるを得ない。
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