空観方程式

「色」と「空」の一体化によって可視化され、相互作用で共感・共鳴が生じ、新たなる思いや生命力が実体化される。

始まりがあるから終わりがある

2022年10月21日 | 読書・TV感想
煩悩を解脱して悟りに達する  について
分別・対立を「空」だとするところに
根源的な問題がある様に思う。
「空」とは実体が無い、実体を持たないということ。
「実体が無いのだから執着してはならぬ」となり、
そこに苦悩を解消するという
実践に対しての困難な状況が生まれる。
即ち
「空」という体験の境地によって、
平等性の意識が求められる。
自他の差別がなく、
自己 と他人 とが一体 不 二 という
意識 を もっ てな さ れるものであり、
さらには
西洋とは異なる
個人の独立の否定にもつながるものだ。
確 かに
対立や憎悪の不在、あるいは平等性が
慈悲の必要条件であることは理解できるが、
分別しないままの実践はいよいよ困難である。

加えて、
仏教には「因縁、因果」という概念があり、
苦はただ因縁によって誕生しただけであり、
自分が犯した業によって今があるとされている。
即ち全ての結果の原因は自分にある。
関係性は自分の所業であって、責任は自分にある。
そこの領域にカルトが入り込む。
例えば旧統一教会の代表的な教義には
「先祖の供養ができていないから災難に遭う」
となってしまう。
そこに高額な商品を売りつける実体が生まれる。
そうすることで
教義や指導者に従った上での結果は
自分に責任はなくなり苦悩も解消する。
「迷って生きていく自由」を放棄することにより、
人間は実に心地よく楽に生きることができる。

大乗仏教となっていても、
分別による苦悩は解消されず、
伝統仏教の困難さがあぶり出される。
苦しみを「実体のない空」だとして、
大衆の総てに対して無分別とするところ、
「総てに分別は虚妄である」には
限界がある様に思う。
分別に意味がある場合や、意味のない
場合が混在しているのが現実だ。
そもそも仏教に生きる目的はない。
しかし、
どう生きればよいか、ここでも
分別の意識によって葛藤し、結局
自分で決める事が苦しいので
教義や教祖様に頼る。

言うだけならば正しいことは無数にある。
正しいこと(空)だけを示すのではなく、
何が本当なのか(色)を示すべきだ。
何が現実に生じて、何が実在して起きているのか。
要はここでも何が正しいことなのかと、
何が本当のことなのかの分別だ。
自灯明と法灯明も、表も裏も実在している。
表だけでなく、裏だけでなく、双方を分別し、理解して
(平等性やバランスでの平衡状態にして)共存させる。

空観方程式のやり方では
「空」とは一体化された実体であり、
教義や教祖様に頼るのではなく、
生命の法則に頼ろうとするものだ。
具体的には
エントロピー増大の法則の中で折り合う方法である。
分別や対立をなくそうとするものではなく、分別によって、
分解の方を合成よりも少しだけ先回りさせる事だ。

関係性は自分の所業であって、
責任は自分にある点はそのままで、
あるときはあるように、ないときはないように、
両方混ざった状態だ。
即ち、
「いい人やめる」と、「やればできる」の両方だ。
そして、
いい人やめる、を少しだけ先回りさせる。

空観方程式では分別はそのままに、
一体化された存在の世界が「空」である。
どう行動するかは、自分で決められる。
できるときにやり、できないときにはやらない。
そもそも分別から生まれる一体化とは
各人に役割がそれぞれに与えられ、
それを各自分担するような意識である。
即ち自力の精神構造である。
禍福はあざなえる縄の如くである。
良いときもあれば悪いときもある。
表と裏という分別概念によって、
「紙」の概念が生まれてくるように、
始まりがあるから終わりがあるという分別によって、
生命の概念が生まれるように。
楽にさせると苦を取り除くという概念によって、
「慈悲」の概念が生まれてくるように。

私のように智慧のない人間は、分別によって
自分を是とし、他の人を非として、
自己都合や自己中心にこだわった
生き方しかできなくなる。(分別による苦の原因)
だから、他人の方を少しだけ先回りさせる。 
いわば
他人から聞く方を少しだけ先回りさせることだ。
分別はそのままで、苦と折り合いをつける方法だ。

自分になぜ生きるのかと自問することは、
キリンにどうして首が長いのか?
と聞いているようなものだ。
自分にどう生きるのかと自問することは、
象にどうして鼻が長いのか?
と聞いているようなものだ。
答えは誰にもわからない。
唯一解っているのは
生命が採用しているように、合成よりも
分解の方を少しだけ先回りさせる事だ。

「動的平衡」から構想する“能動的破壊”で生まれる組織の持続性
生きるために、壊し続ける38億年続く生命の営みに見る持続性
福島伸一参照


自分だけの一辺倒でなく、
他者(教祖様)だけの一辺倒でなく、
あるときはあるように、ないときはないように、
両方混ざった状態だ。

表があるから、裏もある。

生にだけこだわるのではなく、
死にだけこだわるのでもなく、
双方在るのが生命だ。

始まりがあるから終わりがある。




分別はそのままに、
一体化された存在の世界が「空」である。
そこから新たに生まれてくる。

荒々しさと機能性

分別・対立によって生じる迷いから、
共感・共鳴のインパクトに奮い立たされ、
新たなる思いや生命力が実体化される。


楽観主義と他者への励まし







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