来年のことを言うと鬼が笑う…らしいが、
前年のことを言うと、誰が笑うのだろう…。
昨年、facebookでクリスマス断捨離を呼びかけた。
三連休で時間に余裕があったからか、
はたまたクリスマスの予定がなかったからか、
(一昔前はシングルベル…とか言いましたね)
けっこうたくさん報告が寄せられた。
日本全国に散らばっているダンシャリアンが、
同時期に断捨離に勤しむ…。
ただそれだけのことなのに、なにか励まされる。
1.5トンも断捨った…とか、ゴミ袋が○袋とか聞くと、
対抗心がむくむくを湧き上がる。
(*注 ↑これは間違い。
断捨離はあくまでも自分軸の世界だから、
比べたり、張り合ったりはNG)
ただどちらかと言うと、
掃除の3ステップの1番最後、拭く・掃く・磨くに時間をかけたため、
最初のステップの片付け、つまり断捨離部分は手薄になった。
…これも、これまでの断捨離でモノが減ったおかげでしょう。
ありがたや~~
だけど成果がゼロだったわけじゃない。
量は少ないが、私にとって、ひじょうに重たいモノを手放した。
それは…、これ。
小学館、ランダムハウス英和大辞典。
縦27センチ、横21センチ、厚さ9センチ。
重さにして4キロのまさに大辞典。
33歳の誕生日に夫に買ってもらった。
当時のお値段、14,800円。
あの頃にしては、大きな買い物だったはず。
よほど嬉しかったのか、裏表紙にサインまでしてある。
仕事柄、よく辞書を使う。
それも7~8万語収録くらいの辞書では間に合わない。
重たくて、開くだけでも一苦労のこの辞書、よく使った。
だがデジタル化の大波がやってきて、
英辞郎を始めとするCD辞書が台頭し、
さらには掌サイズの電子辞書やネット辞書がその座を奪った。
誰だって、手軽で、早くて、便利なほうが好きだ。
いつの頃からか、大辞典は本棚の隅っこで、じっと座っているようになった。
ずっと、ずっと、待っても、待っても、出番は来ない。
あんなに重宝されていたのは、夢だったのか。
薄っすらかぶった埃が、その厚みを増していく。
この辞書はもう旬を過ぎた。
使う可能性は、ゼロに等しい。
…と分かっていながら、これまで1度も断捨離の対象にはならなかった。
なぜなら、この巨大な辞書は私のプライドの象徴だったから。
「私は翻訳家なのよ。」と自他共に認めさせる証拠品だったから。
全盛期は、1ヶ月に3本以上のドキュメンタリー番組に字幕をつけていた。
10年くらい前に、SSTという字幕用のソフトが導入されてから、
ほとんどの作業はPC上でできるようになった。
以前はストップウォッチで計っていたセリフの長さも、
尺を指定するだけで、PCが秒数を割り出し、
何字まで使えるかを瞬時に表示してくれる。
原稿用紙に手書きした字幕を
フィルムに焼き付ける作業もなくなった。
自分の訳をその場で画面に載せられるので、
映像とマッチしているかをすぐに判断できる。
いろいろ便利になったのは事実だが、
それでも1時間番組の字幕翻訳には10日ほどかかる。
オフィス仕事ではないから、
5時になったから終わりではなく、
1日12時間作業することもあった。
それを1ヶ月に3本ということは、
ほとんど休みなく、翻訳に没頭していたわけだ。
目も頭も疲れたし、慢性肩こりで体が重かった。
幼かった子供たちとの時間を犠牲にしたことも多々あった。
たまに仕事が途切れても、疲れ果てていて、何もできない。
当然、家も散らかっていた。
…それでも充実していた。
いや、充実していると思い込んでいたのか。
翻訳を取ったら、私には何も残らない…と思っていた。
翻訳家であることで、自分の存在意義を確かめようとしていたのかもしれない。
存在意義…なんて、
私が私であるだけでいいのに、
若い私は、何かに追われるようにPCに向かった。
内面がとてつもなく未熟だったんだなぁ…。
だから翻訳家の肩書きがそんなにも大事だったのか。
もうっ、いじらしい奴
手放せなかった辞書から、そんな過去が浮かび上がってきた。
でももういいよ。
すでにナショナル・ジオグラフィックやアニマル・プラネット等、
300本以上の翻訳をこなしてきた。
十分にやった。
培った字幕の技術は惜しいから、
これからは映像祭などで後進の育成に役立てれば、それでいい。
私には次のステージが待っているはず。
大辞典が去った後の本棚に、
ぽっかりとスペースが空いた。
重量だけでなく精神的にも重かったモノがなくなった。
この軽さが、ゆとり…という豊かさなのかもしれない。
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◆やましたひでこ・オフィシャル・ブログ
断捨離」〜断捨離で日々是ごきげんに生きる知恵
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人間は「何か」でないと、価値が無いのでしょうか?
そしてその「何か」とは、誰の基準に照らしての「何か」なのでしょうか。
人や世間に「何か」として認められなくても、自分の基準でしっかり立っていられる人になりたいです。
…だけど、必死でもがいていた若い頃の自分って、なんだか愛しいですね。
あの頃があるから、今がある、本当に私もそう思います。
いつも温かいコメントをありがとう。
>うりゃさん、なにかとても大切なモノを手放したのですね。
取っておこうと思えば、誰も止める人はいないのに、うりゃさんの中に、コレを手放して、次のステージに行きたい…という無意識の想いがあったのだと思います。
過去にしがみついていたら、新しいモノは入ってきませんし、たとえ近づいてきたとしても気づかずにやり過ごしてしまうでしょう。
断捨離は、出すのが先。
2012年の展開に期待します。
>cocue-cocueさん、はじめまして。
コメントを残してくださって、ありがとうございます。
英語で食べてる沽券!…とってもよく分かります^^。
確かにあの辞書がデ~~ンと机に置いてあると、なんとなく出来る女の感じがしますもの。
でも巨大な辞書でイチイチ証明しないでも、英語という武器がなくても、これが私です!…と平気でいられる自分でありたいです。
手放す時は、重いので大変ですよ。
ゴミ袋が破れそうでした。
むき出しで捨てるのは忍びなかったので、包装紙にくるんで、合掌して、単独でゴミ袋に入れて、さよならしました。
英文科を出て、最初の配属は英語で書く仕事だったこともあり、大型英語辞書は必携でした。私の場合、研究社のものでしたが、詳しい用例はやはり電子辞書では役不足だったのです。
その後もずっと職場の机にありますが、考えてみたら、前回の育休から復帰し、今回産休に入るまで、研究社辞書を使った回数、片手に余るくらいです。
私もやはりどこかで、英文科を仕事にしています!!という沽券?にすぎない想いを、研究社辞書に託して所有していたように感じました。
なので、今回のエントリー、共感!!です。
残念ながら、研究社辞書は箱詰めして、職場に預けてきたので、復帰までそのままなんですが~戻ったときはすぐにサヨナラしたいです。
気付きのきっかけを与えてくださって、ありがとうございます♪
>重量だけでなく精神的にも重かったモノがなくなった。
過去の大切な思い出に一区切りさせる断捨離。
手放して空いたスペースにしか入ってこない大切な次なる思い出の一歩。
私も、元彼さんからの手元に残した思い出の品と奮闘は大きかったです。
思い入れの大きいものって心の中でその分占める範囲が広いから・・・無くす葛藤と無くした後のぽっかり状態で暫くぼ~っと・・・(私の場合)
それでも、ひでこ先生の「今の私」に焦点をあわせて取捨選択しています。そのうち厳選レベルまで螺旋階段の高さも上がると「信じて期待せず」です!
加点法で考えていると、
日々ごきげん♪ですものね
私はmomoさんみたいに素晴らしいタイトルを手にしていたわけではありませんが、そのままの自分であることを認められなくて、何かであろうと必死に努力していたことを思い出しました。
でも、あの頃の自分があるから、今の自分がいるんですよね。苦しかったことも、大切な私の人生だと認めてあげたいです。
断捨離というすごいツールで、あの頃の私みたいにドツボにはまっている人が、一日でも早くそこから抜け出せることを願っています。momoさんの心に響く文章が、多くの人の道標になることを確信しています。