夫の実家で食器棚の断捨離をした際に、もう不要と判断した食器、調理器具、カトラリーの類。
実にダンボール5箱分。
全部自宅に持ち帰り、分別してゴミの日を待つ。
金沢市では、燃やさないゴミの日は月1回。
重量があるので、ゴミ袋に小分けした。
搬出の前日、・・・ふと思い立って、義姉に電話をする。
私が勝手に断捨離したが、
もしかしたら義姉にとって大切なモノや思い入れのあるモノが混じっているかもしれないから。
「覚えとらんわ~~~。」
義姉が実家を離れてから、すでに40年。
どんな食器があったかなんて、忘却の彼方らしい。
そっか…、じゃ、遠慮なく処分します。
…と、思いきや、
「捨てるのなんて、いつでもできるから、ダンボールに入れて実家の2階に置いといて!」と仰る。
えええええええっ
なんですと
たった今、食器のことなんか覚えていないと言ったばかりじゃ?
覚えてないのに、実際にお義姉さんが使うわけでもないのに、保管しておけと?
2階には、お義姉さんのお祖母ちゃんが使っていた食器一式も、手付かずで積み上げられているというのに?
怯むな、私。
これが普通の人の感覚なんだから。
捨てるのなんて、いつでもできる。
果たして本当にそうだろうか?
捨てることって、案外、難しい。
要る・要らないを判断し、
あまたの抵抗勢力を蹴散らして、自分の罪悪感にも打ち勝ち、
ゴミ袋に入れて、それをさらに集積所に出すことは、
口で言うほど簡単じゃない。
だから捨てられない・捨てたくない…と多くの人が悩むのに。
捨てる決心をしたら、一気に最後まで動かないと、
ゴミはどこかに仮置きされ、そのまま放置されることになる。
縁側に、廊下の隅に、ベランダに、車庫の中に、庭の倉庫に、そして実家の2階に。
実家の2階はまさにモノ置き。
使っていない頂き物が箱に入ったまま埃をかぶり、
先代の所持品がそっくり残され、
おそらくダニの大家族が住んでいる座布団やゴザが積み上げられ、
昭和の香り漂うレコードや、忘れられた買い置きの日常品など、
ありとあらゆるモノの墓場になっている。
そういえば、夫の中学の頃のユニフォームが今も壁にかかったまま
孫達が遊んだ卓球台もあるのだが、
こんな埃の舞い散る中で卓球をしたら、たちまち呼吸困難になってしまう。
断捨離講座in金沢のテーマは魔窟だったが、
実家にもあったんだな、魔窟
2階に通じる細い階段は、さしずめ賽の河原…といったところか。
いつかはこの魔窟も片づけなくちゃいけない日がくる。
その時の負担を、ほんの僅かでも軽減するために、
義母の食器を仲間入りさせるわけにはいかない。
一生懸命、言葉を選びながら、説得したら、
元々、そんなに執着していたわけでもないので、義姉はあっさりOKを出してくれた。
…というわけで、とっくの昔に役目を終えた食器たちには、
実家に空間とゆとりを取り戻すため、身を引いてもらった。
長いこと、どうもありがとう。さようなら
実家の台所引き出し。
これだけ断捨離。
すっきり~~
本邦初公開、ダンボール5箱分の食器を吐き出した食器棚の現在。
左下のごちゃごちゃは、まだ手をつけていない部分。
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