河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
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その十五前半 南北朝 ―― あてまげの溝

2022年02月19日 | 歴史

 【必殺空手チョップ】

  我が家にテレビがまだ無かった時代、夜は、宿題を済ませ、後は漫画を読むぐらいしかなかった。だから、寝るのは8時30分と決まっていた。ただ、金曜日だけはちがった。夜の7時半頃になると、父が「ほな行こか」と、私たち兄弟を誘ってくれて、近所の駄菓子屋さんへ行くのが常だった。

 駄菓子屋に行き、勝手知ったるかのように奥に入る。六畳ほどの居間があって、すでに十数人の人が集まっている。春やんも来ていて、私たち子どもに、前においでとうながしてくれる。

 昭和28年にテレビ放送が始まったが、十年ほどしても、テレビはまだ高価で、多少の余裕のある家にしかなかった。村にもテレビがある家は数件で、この駄菓子屋でテレビを見せてもらっていたのだ。毎日というのは迷惑なので、知らず知らずのうちに、金曜日の午後8時と決められていた。プロレスの中継があるのだ。

 「さあ、今日は、どっちが勝つやろなあ」

 「そら力道山やろ!」

 大人たちが口々に話し出す。

 部屋の奥のど真ん中に置かれた箱のカーテンが開けられ、ダイヤルがガチャリと回される。小山のように盛り上がったブラウン管が黒くなる。五つほど数えると明るくなり、はでな音楽が鳴り、「三菱ダイヤモンド アワー」の字幕が出た。そして、「力道山対吸血鬼ブラッシー」と大写しされ、ゴングが鳴り、試合が始まった。

 黒いタイツの力道山に、白髪頭(実際は銀髪)の鬼のような顔の外人選手が襲いかかる。力道山が応戦する。そのたんびに、部屋の中に歓声がおこる。力道山が優勢と思われた時、吸血鬼ブラッシーが力道山の頭に噛みついた。しばらく離れない。黒い液が飛び散る(実際は赤い血)。

 「あかん。そろそろ出したらんかい!」と春やんが叫ぶ。

 「おお、出したれ。出したれ!」とみんなも叫ぶ。

 それに答えるかのように、力道山が得意の空手チョップを、一つ、二つと、ブラッシーの厚い胸板に浴びせる。そして、前のめりになったブラッシーの頭に、空手チョップを一撃。今度はブラッシーの頭から黒い血が飛び散る。

 血まみれになったブラッシーがリングの外に逃げる。そして、観客席の椅子を持ってリングに上がると、その椅子で力道山をたたいた。また黒い血が飛び散る。それでも力道山は、椅子を奪い、逆にブラッシーを打ちのめす。黒い血が飛び散る。

 なかなか決着がつかない。柱時計を見ると、8時50分。

 カーン・カーンとゴングが鳴る。レフリーストップで引き分けが告げられた。すごい流血戦だった。

 「えげつない試合あったなあ」と誰かが言った。すると春やんが、

 「昔は、この川面でも、えげつない戦いがあったんやで!」

 「誰かケンカしょったんかいな?」

 「楠木正成、楠公さんの時代のこっちゃ」

 「楠公さんは千早赤阪やろ!」

 「千早に行くまで、敵はこの川面を通らんとあかんやろ」

 そこから、春やんがいっきに話し出した。みんなは流血戦の後だけに、興奮し、身を乗り出して聞いている。

 

 ――元弘元年(1331)ことや。川面の石川の浜に一艘の小舟がたどり着いた。乗っているのは、醤油で煮染めたような着物に縄の帯、手ぬぐいで頬かぶりした漁師らしき二人連れ。そのうちの一人が、浜で投網(とあみ)を打っていた定吉という男に、 

 「おい、定吉!」

 「誰じゃい、呼び捨てにするのは」

 「わしや、定やん」

 「あっ、兵三やないかいな。おまえ死んだんとちゃうんけ」

 兵三、あたりを見渡し、誰もいないのを確かめると、もう一人の年輩の男に目配せした。

 「親分、わいの幼なじみの定吉です。安心しとくなはれ」

 年配の男が頬っかぶりした手ぬぐいをとる。いかにも河内のオッサンという風体。ずしりとした声で、

 「先の戦(赤坂城の戦い)では、別状おまへんでしたか?」

 「へえ、おかげさんで、ここまでは北条軍は手出ししまへんでした」

 「そうでっか、そらよろしゅおました。すると、喜志城も無事で?」

 「へえ。城主の畠山正高様が、良うしてくらはりました。宮城も北山城も無事です。今度、北条軍が攻めてきたら、わいらで死んだ楠公さんの仇をうってやりまっさ!」

 これを聞いて、年配の男がニコリと笑う。兵三もニコリと笑い、

 「定やん、楠公さんはきっと生きてる」

 「なにぬかすんじゃい。赤坂城の戦いで、わずか五千の兵で三十万人の北条軍と戦い、二十日ほど良う持ちこたえやはったけれど、もはやこれまでと城を燃やして自害しゃはったんやないかい!」

  河内のオッサンが優しい目で手下の兵三にうながした。すると平三が、

 「あらウソや。討ち取った敵の武将に親分の鎧(よろい)を着せて、自害したように見せかけただけや。わしらは、勝ち誇った北条軍を横目に金剛山の奥地に逃げ込んだんや。せやから、わいもこうして生きてる。楠公さんも、こうして達者じゃ!」 

 それを聞いた定吉はびっくり仰天。河内のオッサンの前に、ははーとひれ伏し、涙して、

 「ええ、この河内のオッサンが楠公さん! 良う、ご無事でございました。これより先も楠公さんのため、この定吉が一人生きているとお思いになったら、帝と楠公さんの運は必ず開かれまっせ!」

 河内のオッサン、いや、大楠公もほろりと涙し、

 「良う言うてくれた。そんなおまえを見込んで一つ頼みがある」

 「何でも言うとくなはれ」

 「わしはこのまま引き下がらん。必ず再起したる。空手チョップを浴びせたる。そうなると吸血鬼ブラッシーのごとき北条軍がまた攻めてくる。こないだの二倍、三倍の兵が押し寄せてくるやろう。そのとき、喜志が一網打尽にされないための秘策や。定吉、一肌脱いでくれるか?」

 「お安いご用、で、その秘策とは?」――

 

 と言うて春やん、「さて、夜も遅うなった。帰って寝よか!」

 皆が、「えっ、まだ話の途中やがな・・・」

 「続きは来週の金曜日や」と言うて、帰って行った。

 【補説】

 力道山と吸血鬼ブラッシーの試合が行われたのは、昭和37年3月28日のことです。すさまじい流血戦で、テレビを見ていたお年寄り6人がショック死したそうです。

 次の日、学校へ行くと、この話でもちきりでした。やんちゃの子が、空手チョップと噛みつきをし合って保健室に連れて行かれました。その後、学校では、空手チョップ禁止令が出されるほどの、力道山人気でした。

 テレビ放送が開始されたのは昭和28年。その翌年、「力道山・木村政彦 対 シャープ兄弟」のNWA世界タッグ選手権が中継されます。有楽町の日本劇場前に設置された1台の街頭テレビに、1万人近くが集まったという「街頭テレビ時代」でした。その後、テレビのある裕福な家に、近所の人々が集まる「近隣テレビ時代」になります。

 1331年(元弘元年)8月、後醍醐天皇は宮中から姿を消し、奈良の笠置山で兵を挙げます。これに呼応して楠木正成は赤坂城で旗を揚げます。一ヶ月後、笠置は落ち、後醍醐天皇は捕らえられます。北条軍はそのまま伊賀を通り、後から来た関東軍は宇治を通って、9月の下旬に赤坂城に押し寄せます。しかし、正成のゲリラ戦法に苦戦。10月21日の夜に正成軍は火を放ち、戦いの幕が引かれました。

 春やんの話の通り、まんまと逃げ延びた正成は、金剛山、葛城山の上から、北条軍が引いていくのを見ていたのでしょう。倒幕の火の手が全国で上がるまでの、日にちかせぎでした。

 楠木正成の出城は南河内一帯に二十ほどあり、富田林だけでも十三、喜志にも、平尾峠(三原太子線)の辰池のあたりの丘に北山城、喜志の宮山の上に美具久留御魂城、そして川面町と中野町の境目の河岸段丘の上に喜志城がありました。今でも城の淵の字(あざ)が残っています。

                                 中編につづきます


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