河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

畑の盆踊り

2022年08月25日 | 菜園日誌

高くそぴゆる通天閣や
ネオンまたたく道頓堀|こ
掛けた願いも御堂筋
仲のよいよい中之島
西に安治川天保山
遥か東にそびゆるは
生駒信貴山二上山
その連峰の吹きおろし
河内平野の遠近に
紅提灯の灯がゆれりゃ
河内音頭の三味太鼓

おじいちゃんやらおばあちゃん
男前やら別姉さん
差す手引く手も色模様
浪花名物盆踊り
河内音頭で踊りましょう
ヨイトコササノヨイヤサッサ

雀百まで踊ろじゃないか
三十四十は巣立ちの雛よ
花の盛りは五六十
くよくよしゃんすなお身に毒
気から病が出るわいな
河内音頭で浮き浮きしゃんせ
まめで達者で皆さんよ
こころ楽しく踊りましょう
ヨイトコササノヨイヤサッサ

※音頭は初音家賢次師匠

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俄――ハテ? ハーテ? ハテ!

2022年08月23日 | 祭と河内にわか

 「ハテ、ハテ、ハテ」とつなげてオチにするのが河内俄だが、三つの「ハテ」は同じ調子ではない。
 「ハテ?」〈小さな疑問〉
 「ハーテ?」〈大きな疑問〉
 「ハテ! わかったわい。オチ」〈感嘆〉


 「ハテ」とツッコミを入れてオチをつける型が初期の大阪俄にあることから、河内俄が大阪俄に伝わったと結論したが、確証があるわけではない。
 一歩ゆずって、「ハテ」でオチをつけた大阪俄が南河内に伝わったとも考えられる。
 どちらにせよ、江戸時代の元文・寛宝の頃(1740年頃)には河内俄は存在していたことになる。


 「ハテ」でオチを付ける〈大名俄・狂言俄〉の後に〈そりゃなんじゃ俄〉が登場する。
白い障子紙を貼った行燈(あんどん)をすっぽりとかぶった男が三人ほど、仰向けに寝ている。
 一人が出てきて、
 「そりゃなんじゃ」とたずねると、中から
 「フカのかまぼこ」

 〈もの言わぬ物がもの言う俄〉である。

黄色い布をすっぽりとかぶった男がじっとしたまま動かない。
 一人が出てきて、
 「こりゃなんじゃ」とたずねるが答えがない。
 何度かたずねるが黄色い布はなにも言わない。

 〈もの言わぬ俄〉である。
 ハテ? ハーテ?

 ハテと気づいた客が、

 「クチナシ」

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俄――ハテ! わかったわい!

2022年08月23日 | 祭と河内にわか

 大阪俄が生まれる前から、南河内には素人による狂言を真似た芝居〈物真似狂言〉が行われていた。
 もちろん、南河内に限らず全国各地に存在していただろう。
 出雲の阿国は三十郎という狂言師を夫に持ち、それに傳介(でんすけ)という狂言師くずれの男が加わり、三人で狂言仕立ての芝居を踊りの合間に入れていたという。
 しかし、オチはなく、最後は座員全員の総踊りでしめくくっていた。

 念仏踊りや風流踊りに〈物真似狂言〉が加えられたものが〈歌舞伎〉になる。
 〈物真似狂言〉にオチがつくと〈にわか〉になる、
 河内俄の一例を紹介する。
 銭形平次(平)・子分の八五郎(八)・男

 右手から男が出てくる。真ん中で突然苦しみだす。見ると胸に包丁が刺さり血がたらたらと流れている。男は中央で一分ほど苦しみ、バタと欄干に顔を乗せて、死んだように倒れる。そこへ、平治の子分の八五郎が登場する。
「ああ、平和やなあ」             
「ウッ、ウッ、アアッー。助けて」
「ああ、事件も無いし、静かやなあ」男を無視する
「ウワァ、ウッ、ウワアア、アー」 大声をあげる
「人が苦しんでるがな、なんや男か」やっと気づく
「こら、ええかげんにせえよ。礼はなんぼでもするさかいに助けてくれ」 札束をちらつかす 
「それを早く出さんかいな。てえへんだ。おやぶーん!」 平次が登場する
「おいおいおい。どないしたんや?」
「親分、殺人です」
「ええ、なんやと、なんや男やないかい」
「こ、この札束が、め、目にはいらんか」
「おっ、これは大事件や。おい、大丈夫か?」
「あっ、あっ、あかん」 ばたと息絶える
「親分、どないしまひょ?」
「どうせ旅の者(もん)やろ!」
 死んだまま、足袋を手で上に挙げる。
「見てみ、やっぱし、タビのもんや!」。
 足袋を横に振り、「ちゃうちゃう」
「ナニ、足袋を出して、旅のもんと違うとは?」
「ハテ?」
「ハーテ?」
「ハテ!  わかったわい!。足袋の裏に書いてある。こいつは「ここのもん(ここの者)じゃ!」
 ※足袋の裏に大きく「九文(ここのもん)」と書いてある。1文=2.4cm


 河内俄は、最後に何か物を出す。「ハテ?」とツッコミのあと、物に絡めてオチをつける。
 これは河内俄の約束事、掟でもある。
〇無銭飲食した男Aが店主に問い詰められ、無地の羽織を差し出して
A「これで、許しとくなはれ」
B「羽織を出して許してくれとは。ハテ?」〈ツッコミ〉
C「ハテ! わかったわい。無地の羽織で紋無しじゃ(=一文無し)」〈オチ=ボケ〉

 単純な駄洒落のようだが、話の筋から必然的に出しても不自然でない物でオトス。
〇浮気をした男が、雨の降る夜の遅くに、(みの)を着て家に帰って来た。
 じっと忍んで待っていた女房が「寒かったでしょ」と一升徳利を出す。
 その優しさに改心した男は、蓑と一升徳利を出し、
男「これが、わしの気持ちや」
「蓑と一升徳利で今の気持ちとは? ハテ?」
男「ハーテ?」
「ハテ! わかった! 徳利(とっくり)と見なんだが、(身の)一升(一生)のあやまりや!」

 駄洒落と言って侮るなかれ。

 洒落言葉に粋(すい)言葉。
 ちょっとした洒落でその場を和ます。これが大阪の粋(すい)である。

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俄――観阿弥と楠正成

2022年08月22日 | 祭と河内にわか

 歴史カデゴリーの『その16 室町――【番外編】』で、能楽師の世阿弥と一休和尚の話を書いた。
 今一度そのときの「春やんの楠家系図」を示す。

 伊賀上野の上嶋家本『観世系図』に、能楽の観阿弥の母は〈河内国玉櫛庄 橘入道正遠の女〉とある。
 この〈橘入道正遠〉という人物は、『尊卑分脈』の楠家系図によれば楠正成の父の正遠である。
 とすれば、正遠の女(娘)は正成の妹ということになり、観阿弥は楠正成の甥にあたることになる。
 だとすれば、すでにその当時から、南河内では能・狂言を見る機会があったのかもしれない。
 南朝と縁の深い大塔村に惣谷狂言が残っているのもなんらかの因縁が感じられる。

 当時の狂言は、一字一句もセリフを間違えてはいけない現代の狂言とは大きく違っていた。
 まだ台本が存在せず、おおまかな筋立てをもとに、大部分をアドリブで演じていたようである。つまり、「にわか」である。
 狂言に接する機会が多かった南河内の民衆が、狂言をまねて一座の余興にしていたことは容易に想像できる。

 狂言の扮装をした、八幡大名と太郎冠者による〈大名俄・狂言俄〉はかなり流行したのだろう。
 十五年ほど経った頃に次のような俄がある。

大名「まかり出でたる者はかくれもなき大名と・・・」
 と、言っているところに奴さんの扮装をした家来が、箒(ほうき)で大名を掃き出しながら、大声で、
家来「大名はもう古い」

大名「まかりいれたる某(それがし)は・・・と、名をなのりたけれども、大名俄はもう古くなったゆえ」
 と言って、三味線の調子に合わせて、「まかりいれたる某は、まかりいれたる某は・・」と踊って行く。

 後者の俄は文章にするとおかしくもなんともないが、その踊りが滑稽だったようだ。『古今俄選』の作者は「誠に当世の粋(すい)」とほめている。
 東京の「粋(イキ)は見た目のかっこよさを言うが、大阪の「粋(すい)」は何となく感心する行動のことだ。
 上方落語のマクラに粋な話がある。

 ある大きな店の旦那さん、高野山の便所に入ったら気持ちが良かった。
 文字通りカワヤ(厠)と言って川に突き出した板が渡され、出たものは下に落ちていくし、風が吹いてきてお尻をなぜる。臭いも無く、いたって気持ちが良い。
 それから四、五日して、その旦那さんの家の脇を通ると、道行く人が、
 「気をつけや。時々クソが降ってくるで」

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俄――南河内の芸能文化

2022年08月21日 | 祭と河内にわか

 悪性の風邪がはやったとき、村人が総出で囃し立て、疫病をもたらす風邪の神を村から追い払うという風習があった(風の神送り)。それを題材にした〈狂言俄〉を紹介する(『古今俄選』より)。

 能狂言の言葉で。
 「まかり出でたるそれがしは、この辺りの者でござる。殊の外悪い風邪がはやって、人々を悩ましておる。人のために、賑やかに囃し立て、風の神を送ろうと存ずる」
 ドラと太鼓の鳴り物 ドンデンドン・・・
 「風の神送ろ」
 ドンデンドン
 「風の神送ろ」
 ドンデンドン
 風の神がよろつきながら出てくる。
風の神「こりゃかなわんワイ。逃げるが先じゃ」
 風の神が向こうへ逃げようとすると、後ろから大勢の医者が出てきて、
医者「行ってはならん。行ってはならん。行くまいぞ。やるまいぞ」

『諸艶大鑑』巻七(井原西鶴)の中の風の神送りの挿絵

 民俗学者の西角井正大氏が『祭礼と風流』の「祭礼のにわか」の中で、建水分神社(たけみくまり神社=千早赤阪村)の祭りで演じられる〈にわか〉について書かれた稿がある。

 ――河内平野は、念仏信仰の盛んな土地で、江戸時代には相当繁栄したらしく、大ヶ塚の豪商河内屋可正の記した元禄の頃の記録には、謡曲・能・狂言の興業が詳しく書かれているというし、その他の旧記にも歌舞伎・操り人形などの芸能も盛んだったと見えるという。また、素人の物真似狂言も多かったというから、すでに十八世紀中葉の正徳・享保ごろの住吉・祇園・今宮などの祭礼の流し俄の風が、この南河内地方の祭礼にも取り入れられていたことが考えられよう――。


 河内屋可正(壺井五兵衞)は、富田林市喜志村から石川をはさんだ東の対岸、葛城山のふもとにある大ヶ塚の人で、自身の体験、見聞や処世訓をつづった『河内屋可正旧記』を残している。元禄期(1688~)の庶民資料として貴重な書である。
 「我が身の若やの衰へをすくふべき芸能を仕習ふべき事也」と、芸能をたんなる余技としてではなく、健康のため、生活と一体としたものと考えていた。その芸能が能楽の謡曲(うたい)で、一流の能役者と一緒に演じるほどであったという。富田林寺内町の杉山家をはじめとする人々とも親交があり、共に催した興業はかなりの数にのぼる。南河内に能や狂言などの芸能を広めた人物である。
 可正の広めた芸能の影響がいかに大きかったかは、富田林の富豪杉山家の記録『万留帳』に記されている。諸事全般を記した覚え書きで、『可正旧記』のあとをうけるように宝永六年(1709)から寛保三年(1743)までの五十年間にわたって書かれている。大阪俄が発生した享保末〔1730年頃〕と同時期のもので、そこに書かれた21回の興業の中には、能・狂言だけではなく浄瑠璃・講釈(講談)もある。
 引用にある「物真似狂言」とは、舞踊中心だったものが演劇(芝居)化していく過程の歌舞伎である。先の「惣谷狂言」でいう「歌舞伎狂言に展開していくその直前のかたち」のものである。

 歌舞伎の興行については、『可正旧記』とは別に『河内屋年代記』があり、それに書かれた能・歌舞伎興行の記録の古いものには、豊臣秀吉在世中の文禄年間(1590年代)に、広瀬河原(川面の浜近く)で勧進能が興行されたとある。また、慶長年間(1600年前後)に、同じ場所で女歌舞伎が興行されている。
 『可正旧記』には「芝居興行有し覚」として、明暦二年(一六五六)から元禄二年(一六八九)まで六回の歌舞伎興行が記されている。元禄三年以降は大阪奉行から旅芝居の御法度(禁止令)が出たために記されていない。とはいえ、女歌舞伎から若衆歌舞伎と御法度を乗り越えてきたのだから、役人の目を盗んでの興業は続いいていたであろうし、数奇者たちの「素人の物真似歌舞伎」も催されたに違いない。
 大阪俄発祥以前から、素人の〈河内にわか〉らしき芸能が存在していたことがわかる。

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