河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

俄――惣谷狂言

2022年08月20日 | 祭と河内にわか

 奈良県大塔村(現五條市大塔町)の天神社に「惣谷(そうたに)狂言」という郷土芸能のがある。
 文化庁『篠原踊・調査報告書』には、復活の当初からこの狂言を三度にわたり調査した民俗学者の本田安次氏の言葉を引用している。 
 ――惣谷狂言はもと、能の間々ではなく、風流踊りの間に行われてきた狂言である。後に歌舞伎狂言に展開していくその直前のかたちを伝えたものである――。
 ※「風流踊(ふりゅうおどり)」とは、中世芸能のひとつで、鉦・太鼓・笛など囃しものの器楽演奏や小歌に合わせて様々な衣装を着た人びとが群舞する踊りである(ウィキペディアより引用)。広い意味での〈にわか〉の一種。

 歌舞伎がどのように変化したかを簡単にまとめると、
①江戸時代の初め頃(17世紀初め)出雲の阿国という女性が演じる〈かぶき踊り=女歌舞伎〉が京で人気を集める……禁止令
②少年たちによって演じられていた〈若衆歌舞伎〉が人気を集める……禁止令
③成人男性による〈野郎歌舞伎〉から現在の歌舞伎になる。
 ①から③に変化する間に〈踊り〉から〈芝居〉へと徐々に演劇化していった。
 本田がいう「歌舞伎狂言に展開していくその直前のかたち」とは、「野郎歌舞伎よりも前に、ある地域に存在した芝居仕立ての民族芸能」ということである。

 惣谷狂言の中には〈にわか〉そのものと言えるものがある。
 「鐘引狂言」……長崎へ商いに下る夫を見送った妻が、早速、坊主を引き入れて酒宴にひたる。そこへ、突然夫が帰宅する。妻は慌てふためいて鐘の中に坊主を隠したので、間男を見つけそこなった夫が「隣の豆盗人また失せよった」。 ※豆=女性の隠語
 「舟こぎ狂言」……東に下る僧、茶屋に雨宿りするが茶代も払えない。それでも渡し舟に乗った。下船時に船頭が僧に「船賃を払え」と言うと、僧は「薩摩の守」。
 ※平清盛の異母弟で和歌や能の題材ともなっている薩摩守忠度(さつまのかみただのり)を「ただ乗り」にもじっている。

 惣谷狂言がどのように生まれたのかは定かでない。一説として、ひと山越えたところに、芸能の神様とも呼ばれている天河大辨財天社がある。大きな能舞台が有り、今でも大祭で能楽が奉納されている。これを見た人々が、理解しやすい狂言を真似するうちに地狂言となって周辺地域で演じられてきたという説である。
 同じようなことは南河内の俄にもあてはまるのではないだろうか。

 ※ユーチューブ「惣谷狂言」 https://www.youtube.com/watch?v=Hs0ansyFJWI

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俄と狂言

2022年08月19日 | 祭と河内にわか

 大阪俄の元となった「住吉祭りの男」の俄〈流し俄〉から数年後の元文(1736~)になると、風呂敷や暖簾(のれん)などの身のまわりにあるもので能楽の狂言の扮装をした、八幡大名と太郎冠者による〈大名俄・狂言俄〉と呼ぶものが登場してくる。

 狂言の声色で 
主人 「太郎冠者はあるか」
太郎 「ハァー、お前にございます」
主人 「主人にいとまもこわずに、なんじはいづ方へ行きたるぞ?」
太郎 「住吉へ参りました」
主人 「言語道断。憎いやつながら、許してくれるぞ。して、住吉になんぞおもしろいことはなかりしか?」
太郎 「ハア、何ぞかを土産にと思い、反り橋を求めてまいりました」
主人 「なに、反り橋とや。それは一段と珍しい、どれどれ」
太郎 「これでございます」
主人 「ナニ、これは雪駄(せった=ぞうり)ではないか。ハテ?」〈ツッコミ〉
太郎 「ハテ、裏が川(革)でござります」〈ボケ〉
 ※「反り橋」は住吉大社本殿の前にある橋

 この俄のすぐ後に、「まかり出でたるそれがしは○○でござる」と狂言そのままの型をとる俄も出てくる。
 なぜ、ここで狂言の型をした俄が突如として登場するのか? 疑問でならない。ハテ?
 なぜなら、この狂言俄の数年後に次の〈そりゃなんじゃ俄〉が登場するからだ。

男A 畳を背に担いで出て来て、地面に下ろし、うつむけに寝て、むくむくと起き上がり、また畳を担げて帰ろうとする。
    その後から男Bが出て来て、
男B 「そりゃ何んじゃ?」〈ツッコミ〉
男A 「人をうつむけにした俄じゃ」〈ボケ〉  
  ※「うつけにした(馬鹿にした)」と「うつむけにした」の洒落。

 この俄の方が、扮装と小道具で一発でオチをつける型(俄の原型)の発展形としてすっきりしている。
 ならば、なぜ狂言の型をとる俄が先に登場するのか? ハテ?

 仮説にすぎないので、単刀直入に結論と理由を述べる。
【結論】河内俄そのものが大阪の俄に伝わり、取り入れられた。
【理由】①物を持ち出し「ハテ、ハテ」とツッコミを入れてオチをつけるやり方は、現在の河内俄の型そのものである。
②河内俄独特のしゃべり型である〈にわか声〉は狂言の話し方とよく似ている。河内俄の原型は狂言あるいは歌舞伎を真似たものであったのかもしれない。

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畑――少年

2022年08月18日 | 菜園日誌

終戦記念日の夜に、ヌートリアに根元から掘られたサツマイモ。
少しくらいは地中に根が残っていて、再生してくれるのではと期待していたのだが、儚い夢に終わった。
そこへきて、今度はイチジクの枝をポッキりと折られた。
カラスが実を地面に落とそうと枝に乗ったのだ。
泣きっ面にカラスである。
遠くで鳴るパトカーのサイレンの音さえいまいましく聞こえる。


77年前、人々は日々鳴り響く空襲警報のサイレンに恐れおののいていた。
『国立国会図書館月報』(654号 2015年10月)の中の記事。

終戦の年(1945)の少年雑誌『週刊少国民』が紹介されている。
上は7月29日号で、山の上などで敵機の来襲を監視する少年監視哨員の写真である。
下は9月2日号で、「食糧増産に流す汗」と題して、野菜を抱えた笑顔の少年の写真。
わずか一か月でこんなにも変わるものかと思いつつも、どちらの少年もたくましい。

我が細事と戦争を比較するのは恐れ多いが、仲良くやっていくしかない。

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 笑うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから うれしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
トンボだって カエルだって ミツバチだって
みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ
(作詞 やなせたかし『手のひらを太陽に』二番)

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ちょっといっぷく31――三名山

2022年08月17日 | よもやま話

日本の南画(文人画)家のスーパースターといえば、江戸時代後期に活躍した谷 文晁(たに ぶんちょう)。
『開運なんでも探偵団』に再三登場するが、本物はまず出てこないことで有名だ。
その代表作が、文化9年(1812年)に著した『日本名山図会』。
日本の代表的山岳89座が描かれている。
その89座の中に、なんと、南河内の三つの山が選ばれている。
まずは最高峰の金剛山(1125m)


羽曳野丘陵の麓を通る巡礼街道から見た景色だろう。右手の町は富田林寺内町。
お次は葛城山(959m)


そして二上山(517m・474m)


高い方の雄岳が左にあるので大阪側から見たもの。手前が太子町の山田、竹ノ内峠。
「三上山」とあるのは文晁の大ボケ。


文晁の鑑定品に贋作(がんさく=にせ物)が多いのは、作品に押す落款(らっかん=ハンコ)を弟子たちに自由に使えるようにしていたからだとか。

なんともおおらかな人よ。

※『日本名山図会』(国会図書館デジタルコレクションより、加工)

※古地図は『河内細見図』より(国立公文書館デジタルアーカイブ)

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畑の花②

2022年08月16日 | 菜園日誌

写真で構成できるブログは余計な説明をしなくてすむので便利だし、お盆の暇つぶしにはちょうどいい・・・と思いながら撮ったのがコレ。

オクラの花。ワタの花とよく似ている。
それもそのはず、どちらもアオイ科に属している。
アオイといえば、「ひかえ、ひかえ! これが目にはいらぬか」の

徳川家の三つ葉葵の家紋。オクラやワタの葉とはかなり違う。
フタバアオイという草の葉をデザインしたものだ。

畑の中でフタバアオイとよく似た葉はコレ。



サツマイモ・・・。
そう思って近くに寄って見ると・・・。
根元が掘り起こされているではないか!
二株・・・三株・・・四株!
やりやがったー。ヌートリアの仕業。
せっしょーな!
お盆に殺生するなよ!

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