地球は丸いというのは常識だが、古代中国では「天円地方」、天は円(まる)く、地は方形であると考えられていた。
これを聞いた「杞」という国の男が、それなら、いつか天が落ちてきて、地が崩れてしまうのではと心配して、夜も眠れず、食事も喉を通らなくなった。
それを見かねた人が、「天は大気で覆われているから落ちないし、地は頑丈な土の塊だから崩れることはない」と説得した。
それを聞いて、杞の国の男は、無用の心配して憂えていただけかと、ようやく安心した。
中国の古典『列子(れっし)』の中にある「杞憂(きゆう=杞の憂え)」というお話。
明日何が起きるのかは誰にも分からないのだから、それを心配してもどうしようもない
しかし、何が起こるか分からないという危険に、無防備でいるのは無謀だ。
天地が崩壊することには対処のしようがないが、地震や台風などの被害には、予め備えることができる。
にもかかわらず、出来得る限りの防備をやっても、災害がおこらなければ、取り越し苦労になって杞憂だと言われてしまう。
そんな杞憂が何度か続くと、人は安心して無防備になる。
そのときに限って、杞憂ではないことが本当に起きてしまう。
我々は、杞憂と無謀(=無防備)の間(はざま)を常に彷徨(さまよ)っている。
株価が大きく下がった。
世界的な金融危機でもないのに、日本だけがパニック売り。
高度経済成長期や今回のように株価が上がり続けたとき、人は無防備になる。
『アリとキリギリス』のキリギリスのようなもので、夏秋にさんざん遊び惚けて、冬が来たときにあたふたとする。
あやまちはくりかへします秋の暮 /三橋敏雄
「あやまちはくりかえしません」という広島の平和の誓いをもじって、ふざけているようだが、季語の「秋の暮」には覚悟のようなものが感じられる。
人間は同じ過ちを繰り返してしまうものだが、絶対に「あやまちはくりかへしてはならないのだ」と居直っているのだ。
忘れちゃえ赤紙神風草むす屍 /池田澄子
赤紙は召集令状,神風は特攻隊,草むす屍は未だ遺族のもとに戻らない戦死者の亡き骸をいう。
あのとき、守りたくても守れなかった。それを忘れようとしても忘れられない人々がいる。
一方で、戦後何十年も経つと、戦争の思いは少しずつ風化して忘れ去られていく。
「忘れちゃえ」の投げやりでぶっきらぼうな言葉には、戦争というものに無防備になっていく人々への批判がある。
「忘れたきゃ忘れなさいよ。どうなってもしらないから」という現実に対する抵抗の精神が伝わってくる。
むやみに杞憂するのはよくないが、無防備はもっとよくない。
泉あり 子にピカドンを説明す /池田澄子
※三橋敏雄=1920年11月8日 - 2001年12月1日)の俳人。池田澄子=1936年3月25日 - )の女性俳人。
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