※③のつづきです。初めての方は茶話148から読んでください。
見事な雲海を見損ねて海の底に帰り、30分もすると霧が晴れて陽の光が差してきた。
旅の一番の目的は、友人の畑の草抜きである。
さっそく小鎌を手に畑に出る。
そして、見事としか言いようのない草原を見る。
それもエノコロ(草)、露草、赤まんまの背の高い草が、クローバー、チドメグサの横に広がる草を覆っている。
去年に来たときはこんなんではなかったのに、今年は、普通の畑ではまず見ることのない厄介者の巣窟ではないか。
そうか……、去年は夏に来て草抜きをしたのだ。
しかし、今年は猛暑に堪えかねて来なかったので、厄介者がはびこったのだ。
草刈り機を使ったら歯に巻き付いて難儀するに違いない。
ならばというので、友人に「のこぎり鎌はないか」と言うと、すぐに持って来てくれた。
これで勇気百倍。
弓手(ゆんで=左手)に小鎌、馬手(めて=右手)にのこぎり鎌を持った小早川家の違い鎌。
作州美作宮本村は宮本武蔵の二刀流、二天一流の鎌裁きで、ひたすらに草を刈ってゆく。
村の集会場の防災無線から昼を告げるメロディーが流れる。
岡山のオジン二人の昼食は実に質素である。
昨日、スーパーで買った128円のパックうどん、しかも4割引き。
これに畑で採って来たネギと菜っ葉を手でちぎって入れる。
岡山の醤油は、大阪に比べて甘ったるくて色が濃いのだが、我が口によく合う。
子どもの頃、目ばちこ(ものもらい)がひどくなって藤井寺の医者に通っていた時、帰りにオカンと食べたうどん屋の20円のケツネうどんによく似た味がする。
人は誰もが自分の物語をもっている。
それは確たる記憶でも、蓄えられた情報でもない。
何かの経験をしたとき、無意識のうちに頭の中の引き出しにしまい込んだ物語だ。
それが、何かの拍子に、ひょいと引き出しから出てくる。
そして、その時の自分の感情となり、再び頭の引き出しにしまい込まれて次の新たの物語となっていく。
そんなことを繰り返しているのが人生なのだ。
岡山のうどんには奥深い哲学がしみこんでいる。
※⑤に続く