河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

茶話151 / 老いの小文 五の④

2024年11月20日 | よもやま話

※③のつづきです。初めての方は茶話148から読んでください。

見事な雲海を見損ねて海の底に帰り、30分もすると霧が晴れて陽の光が差してきた。
旅の一番の目的は、友人の畑の草抜きである。
さっそく小鎌を手に畑に出る。
そして、見事としか言いようのない草原を見る。
それもエノコロ(草)、露草、赤まんまの背の高い草が、クローバー、チドメグサの横に広がる草を覆っている。
去年に来たときはこんなんではなかったのに、今年は、普通の畑ではまず見ることのない厄介者の巣窟ではないか。
そうか……、去年は夏に来て草抜きをしたのだ。
しかし、今年は猛暑に堪えかねて来なかったので、厄介者がはびこったのだ。

草刈り機を使ったら歯に巻き付いて難儀するに違いない。
ならばというので、友人に「のこぎり鎌はないか」と言うと、すぐに持って来てくれた。
これで勇気百倍。
弓手(ゆんで=左手)に小鎌、馬手(めて=右手)にのこぎり鎌を持った小早川家の違い鎌。
作州美作宮本村は宮本武蔵の二刀流、二天一流の鎌裁きで、ひたすらに草を刈ってゆく。

村の集会場の防災無線から昼を告げるメロディーが流れる。
岡山のオジン二人の昼食は実に質素である。
昨日、スーパーで買った128円のパックうどん、しかも4割引き。
これに畑で採って来たネギと菜っ葉を手でちぎって入れる。
岡山の醤油は、大阪に比べて甘ったるくて色が濃いのだが、我が口によく合う。
子どもの頃、目ばちこ(ものもらい)がひどくなって藤井寺の医者に通っていた時、帰りにオカンと食べたうどん屋の20円のケツネうどんによく似た味がする。

人は誰もが自分の物語をもっている。
それは確たる記憶でも、蓄えられた情報でもない。
何かの経験をしたとき、無意識のうちに頭の中の引き出しにしまい込んだ物語だ。
それが、何かの拍子に、ひょいと引き出しから出てくる。
そして、その時の自分の感情となり、再び頭の引き出しにしまい込まれて次の新たの物語となっていく。
そんなことを繰り返しているのが人生なのだ。
岡山のうどんには奥深い哲学がしみこんでいる。
※⑤に続く

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茶話150 / 老いの小文 五の③

2024年11月19日 | よもやま話

※②のつづきです。初めての方は茶話148から読んでください。

もみじ寺から怖ろしく狭い山道を通る。
谷底に落ちれば、行方不明のまま朽ち果てるだろうという道であった。
ようやく見知った道に出てほっと息をつく。
見知ったスーパーに入って、家飲み用のアテを買う。
明るいうちに友人宅に着く。
無事にたどり着けたというので、まずはビールで乾杯。
そしてそのままオジン二人の質素な酒盛りとなる。

朝は何時もの防災無線の音楽で目が覚める。
友人が来て、雲海を見に行こうと言う。
そういえば、夕んべの酒宴の中で、見事な雲海の写真を見せてくれたのを思い出した。
外に出てみると、山々は霧に覆われている。
こんな日は、見事な雲海になるのだ、というので、是里(これさと)とい展望台に向かう。

深い霧の中を車は走る。
この霧を抜けると青空が広がり、人生観を変えるほどの見事な雲海が広がっているのだと言う。
その青空に向かって、霧の中を展望台に向かう。
そして、展望台にたどり着いた。
しかし、展望台は霧に覆われていた。
つまり、我々は雲海の中にいたのだ。
もう少し高い所に行けば雲海を見ることが出来るはずだというので、再び車は霧の中を走る。
もはや車は雲海の中をさまよう潜水艦と化していた。
結局、潜水艦は海上に出ることが出来なかった。
我が人生観は以前のまま、むなしく雲海の底に帰った。

七年間、大阪と岡山を行き来し、展望台には50回ほど来ていると友人は言う。
その50回の中で雲海を見ることが出来なかったのは、これで二回目だとも言う。
なんという巡り合わせ、運の悪さ、間の悪さよ。
晴れの国岡山は、やはり「はずの国」だった。
※④へつづく

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茶話149 / 老いの小文 五の➁

2024年11月18日 | よもやま話

※①のつづきです。

姫路を過ぎてバイパスを下り、出雲街道を北へ向かい龍野に着く。
日本で最も愛唱されている童謡「赤とんぼ」の作詩者 三木露風の生誕地である。
 夕焼小焼のあかとんぼ、負はれて見たのは、いつの日か
 山の畑の桑の実を、小籠につんだは、まぼろしか
 十五で、姐やは嫁にゆき、お里のたよりもたえはてた
 夕やけ小やけの赤とんぼ、とまつてゐるよ、竿の先
露風が歳の時に両親が離婚をし、露風は祖父の家に引き取られる。
そこで出会ったのが、お手伝いとして雇われていた子守娘の「姐や」である。
姐やは母親のいない露風を、このうえなくかわいがってくれたという。
龍野の市街を抜けると田園が広がっている。
車窓から古ぼけた民家を見つけるたびに、夕焼け小焼けのノスタルジアにひたっていた。

龍野をぬけて美作の国に入る。
友人宅に向かう途中にもみじ寺と呼ばれている寺があるという。
去年の今頃に行ったら真っ赤だったというので道をそれる。
山あいの村をぬけると二車線の道に出た。
なのだが、「全面通行止め」の看板。
バックしたらと言ったが、友人はう回路があるだろうと、細い横道にそれて進む。
すると、みごとに寺に向かう道に出た。
たいしたものだと感心していると、再び「全面通行止め」の看板。
片方の車線が開いていたので通り抜けられるはずだと、友人は強引に突き進む。
すると、みごとに工事現場に出た。
細い山道をひたすらバックして、結局、元来た道に戻る。

小一時間ほど車に揺られて観音寺に着く。
もみじ寺というだけあって、境内から谷間にある文殊堂まで、モミジの木に覆われている。
しかし、真っ赤のはずのモミジは、緑と黄と赤でまだらである。
桜が満開のはずだと誘われて行ってみると散った後であったり、閑谷学校のカイノキの紅葉がみごなはずだと言ってみると散った後であったりと、備前の国の旅は、どうも、「~のはず」が多い。
晴天日数が日本一というので「晴れの国」を歌い文句にしているが、私は「はずの国」とよんでいる。

※③につづく

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茶話148 / 老いの小文 五の①

2024年11月17日 | よもやま話

備前の国に家を買って、週に四日間ほど大阪から通っている友人の誘いで、霜月の六日、友人の車に便乗して大阪を立った。
本来は一日に発する予定だったが、早期大雨注意報が出ていたので取り止めて延期した。
「晴れの国」をキャッチフレーズにしている備前の国なのだが、とにかく私が行くと雨が降る。
時には晴天続きの日に訪問したいという私の願いで、四日間、晴予報がでているこの日の出立となった。
予報通りの雲一つない晴天となり、大阪、神戸、姫路の高速をひた走る。
途中、昼食代わりに明石のサービスで助六寿司を買った。

歌舞伎十八番『助六由縁江戸桜(すけろくゆえんのえどざくら)』に由来する寿司である。
江戸の侠客であった花川戸の助六(実は曽我五郎)が、源氏の宝刀を取り戻さんと吉原に足しげく通い、刀を取り戻す騒動を描いた歌舞伎である。
劇中、助六は、三浦屋の「揚巻(あげまき)」という名の花魁(おいらん)と恋仲になる。
その 「揚巻」の「あげ」を油揚げの「いなり寿司」、「まき」を海苔で巻いた「巻き寿司」になぞらえて、この二つを詰め合わせたものを「助六寿司」と呼ぶようになったという。

なんとも爽やかな秋晴れの下で、ベンチに座って助六寿司のパックを開ける。
歌舞伎では、助六が登場する時には、出端(では)というお囃子が入る。
尺八の音が聞こえると、黒の着付けに紫の鉢巻をした助六が、花道を傘をさし下駄の音を響かせて勢いよく駈け出してくる。
その水際だった男っぷりの助六を頭に描きながら、寿司をほおばる。
歌舞伎の幕開きは、裃(かみしも)姿の口上役が出て「河東節(かとうぶし=お囃子)御連中の皆々様、なにとぞお始め下されましょう」の挨拶で幕が開く。
御簾(みす)内で「ハォーッ」という合の手が入り、華やかな三味線の音にあわせて浄瑠璃の演奏になる。
食べ終わって、吸い込まれそうな明石の空を見上げる。
思わず「ハォーッ」と声を出してしまった。
なんとも派手な旅立ちである。
 助六の見栄きるごとき秋の空

※②に続く

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