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前々から気になっていた、常陸大宮の生まれで小舟一揆の指導者、本橋次郎左衛門政國の碑を、一度は訪れなければと思ってましたが、この暑さを押して出かける事にしました。この事件は一地方に起こった小さな抵抗運動でしたが、後にこの事件がきっかけで大きく議会政治への道を開く契機に成りました。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/f8/0b37e36327b114ea87594d4f91728750.jpg?1599015947)
小瀬一揆の犠牲者の子孫、小森けん氏が行商で貯めたお金で昭和33年に建てた「慰霊堂」当初、殉職警官も名前は入れないつもりでしたが、村の有力者の横槍で全関係者37名を祀る慰霊堂になった。
以下は「義民顯彰の碑」からの抜粋です。
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時は明治9年12月6日(1876年)、常陸大宮(茨城県常陸大宮市)上小瀬、小舟村の農民が愛宕山に集まり減租嘆願、納税延期の方策協議した。5年の洪水、6年の暴風、更に地租改正による負担加重は、この地方のみならず痛く農民を苦しめていた。この窮地を救おうと立上がったのが本橋次郎左衛門、大町甚左衛門、岡崎新八、小林彦衛門、その他の人たちであった。各村の同志を募っている矢先、農民たちが小舟村で巡査2名を殺害してしまう事件んが起こる。この突発事故で様相は一変、直接行動をとる事になる。各村に檄を飛ばし、同士を募り新政府県庁に強訴する事に衆議一決、10日未明33ヶ村の農民総勢2千余、「救万民」の大旗を立てて水戸の県庁を目指す。県庁側は急遽浪人、士族を雇いこれに対抗、農民側に多数の犠牲者が出る。更に県庁は殺人罪など重罪囚人を解き放し、これに対抗させる。大町甚左衛門は殺害され、本橋も負傷、ここに農民隊は壊滅離散、一揆は敗退した。この事件は明治政府に大きな衝撃を与えた。政府は翌10年1月、地租率の軽減を布告した。
しかし本橋始め首謀者は死罪、懲役刑24名、罰金刑を課せられた農民は1000名以上、尊い犠牲を払う。本橋次郎左衛門政國は明治11年8月12日に斬死で処刑される。39歳であった。
その後、明治30 年(1897年)有志により自宅前に「政國の碑」が建立される。
もともと水戸藩への帰属意識の高い土地柄、新政府以降就任した巡査は元西軍の下級武士、足軽が多く、高圧的な態度で農民を締め付け、鬱積した不満がこの気に及んで爆破、殺害してしまったのではと、察せられる。歴史の流れは民衆の力で決まる。
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小瀬一揆の犠牲者の子孫、小森けん氏が行商で貯めたお金で昭和33年に建てた「慰霊堂」当初、殉職警官も名前は入れないつもりでしたが、村の有力者の横槍で全関係者37名を祀る慰霊堂になった。
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