万葉集【巻第一】20
あかねさす
紫野行き 標野行き
野守は見ずや
君が袖振る
額田王(万葉集)
(今回は歌の感想です。歌は歌でも、和歌、短歌の感想です。)
(読み始めて色がイメージされる歌ですが、実は...、)
紫草の花は白いし、葉っぱは緑だから、紫野は紫色じゃない。
茜さすは、紫の単なる枕詞として使われていて意味がなく、
オレンジ色の朝焼けや夕焼けを歌ったものではないのかもしれない。
明るい昼の日の光の下、
女性たちがいる紫草を摘む緑色の野原と、男性たちがいる狩り場を行ったり来たりしながら、
冗談めかして愛の言葉を投げかけるひょうきんな王子を歌った歌なのかもしれない。
宴席の戯(ざ)れ言のように歌われた歌なのかもしれない。
たとえ、そうだとしても、
茜さすという言葉は、夕空の色を思い起こさせ、憂いを帯びた基底を醸(かも)しだし、
紫草が根に宿す色は舞台の深遠な背景として聞く人の心に届く。
言葉は、それが指し示す『意味』と、意味が纏(まと)う『現れ方』からできていて、
『緑色の野原』という意味は、『茜さす紫』という現れ方で、
その指し示す意味とは全く異なった世界へ聞く人を誘(いざな)う。
意味とその現れ方のズレが、少ない言葉で紡(つむ)がれる歌の世界に、
無限の広がりを与えてくれるのだと思う。
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むかし、
紫草の根から隠れていた紫色を取り出して染料を作っていたそうです。
この歌を不倫の歌だとか、宴席での戯れ歌だとか、そんな風な解説を見ました。
とても違和感を感じます。
たとえ、それが事実だとしても、
それが全てでは、ないはずです。
おしまいです。