日本神話の国産みの話です。
今回は隠岐の島と佐渡ヶ島についててです。
イザナギのミコト、イザナミのミコトの二人が作った洲(しま)は、日本書紀本文によると、次の八つです。
1.大日本(おおやまと)豊(とよ)秋津(あきづ)洲:本州
2.伊予二名(いよのふたな)の洲:四国
3.筑紫(つくし)の洲:九州
4.億岐(おき)の島:隠岐の島(島根県 出雲の沖)
5.佐度の洲:佐渡ヶ島(新潟県)
6:越(こし)の島:(これがどこを指すのか定説がありません。)
7.吉備の子洲:岡山県児島半島(島だったのですが、干拓等により半島になりました。)
8.大洲:(定説なし。)
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隠岐の島について
海底の標高を見ることができるサイトによると、
4番の隠岐の島と本州の間は浅い海です。
2万年前は陸地でした。
そこに四国と九州が分離した後に関門海峡を通ってきた海水が流れ込みます。
そのようにして本州から離れ、隠岐の島が生まれたということになります。
アップにしてみると、隠岐の島と対岸の島根県出雲地方との海の水深は、60mと80mの間だと分かります。
仮に70mだとします。
ウィキペディアの「縄文海進」の項目にある海面上昇のグラフを見ると、世界の標準的な海域では水深70mの海底が陸から海に変わったのは、12,000年前頃と考えられます。
(ウィキペディア「縄文海進」より)
けれども当時の日本海は、太平洋からほぼ隔絶した内海または、湖(塩湖)だったと考えられています。
イスラエルにある死海のように水面が外洋の海面より何百メートルも低かったとは考えられないでしょうか。
(Googleマップより)
そう考えると、日本海が太平洋の海水面に追いつくのにもう少し時間が掛かります。隠岐の島が誕生したのはもう少し後かもしれません。
縄文時代は草創期(約16000~11500年前)、早期(約11500~7000年前)、前期(約7000~5500年前)、中期(約5500~4400年前)、後期(約4400~3200年前)、晩期(約3200~2400年前)の6つに区分されています。
さっきのグラフを見ると、2万年前に現在の海抜マイナス125mから始まった海面の上昇は、縄文草創期である1万5千年前から急激に加速していきます。
その急激な海面上昇が落ち着くのが縄文前期が始まる7千年前です。鹿児島で完新世最大の火山噴火があった頃になります。
鬼界カルデラは、鹿児島南方の東シナ海に位置する、東西20km、南北17kmに及ぶ大型の海底カルデラです。
7300年前に鬼界カルデラで発生した「鬼界アカホヤ噴火」は、完新世では世界最大規模かつ最新の大規模カルデラ噴火です。この噴火により西日本の縄文文化は壊滅しました。
この時期は、完新世の気候最温暖期(7000年から5000年前)の少し前です。
鬼界アカホヤ噴火を逃れることができた人々がいるとします。
完新世の気候最温暖期は、彼らの南方の生活様式のまま、東北地方や北海道で暮らすことができた時代です。
自然はときに厳しく、ときに優しいですね。
縄文中期の始まりの5千年前になると縄文海進が終わり、土壌の堆積による海岸線の後退である、縄文海退が始まります。
さて、
国産みに戻ると、
5番の佐渡ヶ島と本州の間は
比較的深い海で遮られていて、
現在の海底の深さを前提にすると、
125m程度海面が低くても、
本州とは繋がってきません。
(「みんなの海図」より)
日本神話が史実に沿ったものであるとすると、
重要な仮説に行き着きます。
現在日本海がある場所は、中心部の一部を除き
海ではなく大きな盆地だったのではないでしょうか。
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日本海が盆地になっていたのでは、
というアイデアについて、
直接それを示すものではないのですが、
宗谷岬と間宮海峡は陸で、対馬海峡も満潮時に少し海水が流れてくる程度だったのでは、という論文を見つけました。
津軽海峡も陸橋で繋がっていた可能性も記載されていました。
『東アジアにおける最終氷期最盛期から完新世期の海洋古環境』
菅浩伸 2004
地層に含まれる水分の酸素同位体の濃度でどこから来た水かが分かるそうで、黄河の河口が済州島の東にあって、黄河の水が日本海に流れ込み、日本海の塩分濃度が下がったと書いてあります。
(Googleマップ より)
こんなことが分かるんだという驚きと、どういうこと? という戸惑いが起こります。
黄海は水深が浅いので、縄文海進前には陸地だったと考えられます。
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この論文は、検索で「日本海 干上がる」とかで調べたら出てきたのですが、
なぜか、消滅の危機にある「アラル海」が検索に引っ掛かってきます。
(ウィキペディア より)
アラル海はたった30年で消滅の危機に陥ってしまったので、
長い時間のなかで、日本海でも同じようなことがあっても不思議はないと思います。
少なくとも、一時期日本海は外洋と隔絶した内海、または、湖(塩湖ですが)だった可能性は高いということですね。
後は、乾燥と真水の流入の差で盆地だったかどうかが決まるのでしょうが、
まさか、黄河の河口があったとは思いませんでした。
17,000-15,400年前の出来事だそうです。
日本で最古の土器が発見された時期です。
文化交流にどのような影響があったのでしょう。
長江周辺では、もっと古い土器が発見されているそうです。
なので、長江だったら分かるのですが、黄河流域とはどんな関係があったのでしょう。
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最後の文章を書いた後、
黄河の水量では日本海の海水濃度を下げることは難しく、
長江の水が日本海に注ぎ込んでいたのではないかという記事を読みました。
沖縄トラフを除く東シナ海の大半が陸地だったことを考えると、
黄河の河口よりも長江の河口があってもおかしくないと感じられます。
朝鮮半島を回り込まなければいけない、黄河より、上海から直線で流れて来ることができる長江のほうが距離は短いとも言えます。
(Googleマップ より)
中国の江南地方と日本の深い関係は、こういう地理的な条件が基になっているのではないでしょうか?
[国立環境研究所HP 水環境研究の最前線(9)より …東シナ海の特徴は、全面積の3分の2を占める水深150 m以浅の大陸棚と、その南東側の縁に伸びる最大水深2,700mの沖縄トラフだ…]
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