物部氏の祖先の饒速日命(にぎはやひのみこと)が日本を「虚空(そら)に見つ日本(やまと)の国」と呼びました。
日本書紀の同じ段に色々な神様が日本を色々な呼び方で呼んでいます。
まず伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が3つの呼び名で呼んでいます。
「日本(やまと)は浦安(うらやす)の国」
「細戈(くわしほこ)の千足(ちだ)る国」
「磯輪上(しわかみ)の秀真(ほつま)の国」
大国主のミコトは、次のように呼びます。
「玉垣の内つ国」
神武天皇は次のように呼びました。
「蜻蛉(あきず=とんぼ)の臀舐(となめ)の如くあるかな」
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「浦安の国」から考えます。
伊弉諾尊は、揺蕩(たゆた)う潮の流れ=凪(なぎ)の神様です。伊弉冉尊(イザナミのミコト)は、荒ぶる潮の流れ=波(なみ)の神様です。
(イザナギのミコトは、ギリシャ神話の海流の神様オケアノスに相当します。)
イザナミのミコトは、縄文海進に伴う大きな津波が頻発していた時代の象徴です。
イザナミのミコトがお亡くなりになり、
かつてほどは大きな津波が来なくなった状態を
イザナギのミコトが
「浦安」と表現したのではないでしょうか。
次の
「細戈(くわしほこ)の千足(ちだ)る国」
は「空から見れば分か」ります。
戈=矛は、このイラストのような形です。
このような形がたくさん見られる国だと行っているのです。
縄文海進から海退に移り変わる時期は現在の標高15mくらいの陸地が海でした。
国土地理院地図で標高15mまでを青と水色に色付してみます。
細い矛のような形がたくさん並んでいるのが分かります。
山々の尾根に急激に海が入り込んだ結果、
海岸線がこのような形になりました。
更に詳しく見ていくと、それぞれの矛の形をした海岸線は、更に小さい矛の形をした海岸線が連なってできていることが見て取れます。
図形を拡大していくと同じ図形が現れるというフラクタル図形のようです。
「細戈(くわしほこ)」という言葉がこの地形のイメージをよく表しています。
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あるサイトの解説によると、海辺に棚田を作っているのはほぼ日本だけだそうです。
特集「波打ち際に迫る棚田」 | 棚田NAVI
このサイトに出てくる海辺の棚田を見てみましょう。
以上4つの海の棚田は、
ずんぐりした半島状の場所にあります。
前に埼玉県の「浦和」の語源を考えたことがあります。
縄文海進または縄文海退の一時期、現在の標高5mくらいのことろが海だった時期があり、その時に海と陸の境界が見事に輪っかの形をしていました。下の図は標高5mまでが濃い青色です。
海に視点を置いて見ると、浦が丸い形なので、この形を「浦輪」「浦和」と呼ぶことができます。
同じ地形を陸に視点を置けば、磯の形が輪っかになるので、「磯輪(いそわ_しわ)」と呼ぶのではないでしょうか?
福岡の有名な宗像では、アルファベットの「W」の形をした海岸を海から見て「胸形、宗像(むなかた)」と呼びます。一方、陸から見て三叉の銛を表す「勝浦」と呼んでいます。これと同じ発想です。
きれいな輪っかではありませんが、ずんぐりした半島付近に棚田がある光景はとても印象深かったはずです。世界中でほぼ日本にだけ見られる光景です。
その特徴を捉えてイザナギのミコトは
「磯輪上(しわかみ)の秀真(ほつま)の国」
と表現したのではないでしょうか。
「秀真=穂褄(ほつま)」とは稲穂や粟や稗の穂の先っぽのことです。
水田は棚田が先にあって、その後平地での水田耕作が始まったという考え方があります。平地での水田耕作は、高度な灌漑技術が必要だからです。
縄文時代からの神様だと思われるイザナギのミコトが棚田を見ていた可能性は十分あります。
たとえ水田ではなくても、海辺の斜面に粟や稗を植えていた状況を指してこの言葉を使ったと思います。
実は先ほどの海辺の棚田のサイトの筆頭にあげられている能登輪島の白米千枚田という棚田は半島状の地形にありません。一方で白米千枚田の沖合には、島があります。
沖合の島は津波の際の防波堤になると言われています。東日本大震災時の塩釜と浦戸諸島との関係がその例です。
(《塩竈市ホームページあの日、浦戸の島々は〝自然の防波堤〟となった》
)
半島状の地形では、陸との付け根の方向を除き、ほぼ360度のどの方向にでも棚田を作ることができるはずです(理屈の上でですが)。
津波の来る方向が分かっていれば安全な側に棚田を作ることが可能です。
棚田を作る時に、津波の災害を避けるため、防波堤になる島の後ろか、半島状の地形の安全な側の斜面に作ったということではないでしょうか。
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