前回スルーしましたが、
ずっと議論の焦点だったことを
改めて説明します。
自分の領地が
どんどん広がっていることを、
「空から見て」
分かるのでしょうか?
えっと、
分かりますね。
雄略天皇は、
弥生時代か古墳時代の天皇です。
大和朝廷の影響力が、
全国に広がる真っ最中です。
古墳時代、
全国各地に前方後円墳が
作られました。
この形の古墳は、
大和朝廷の影響力を示している
と言われています。
なので、空から見て、
前方後円墳がある場所が
増えていったら、
大和朝廷の勢力範囲が
どんどん広がっている
ことになります。
やはり「虚見津」は
「空から見れば分かるはず」
という訳が正解ですね。
そんな意味が、
この歌に込められていたこと
だけでも驚きですが、
さらに、
すごい発見があります。
前方後円墳の形について
考えてみましょう。
鍵穴のような形と言われたり、
円墳と方墳を合わせた形
と言われますが、
方墳の側は方形ではなく
台形が多いですね。
いろいろな写真を見ても、
まず円形の方を上に、
台形の底辺を下にしています。
その方が落ち着きが良いからです。
円の方を上にして素直に見たら、
なんに見えます?
私には単純化した人のマークに見えます。
トイレのマークの一番簡単なやつを
思い出して下さい(女性の方)。
ピンとこない人は、
ネットの画像検索で
「人のアイコン」という言葉を
入力してみて下さい。
もう一つ。
神社で売っているんですが
私たちの代わりに悪いことを
引き受けてくれて、
川かどこかに流されてくれる、
大変ありがたい
形代(かたしろ)と呼ばれる
人型の紙があります。
やはりネットの検索で
「形代(かたしろ)」と
画像検索してみましょう。
形代はいろいろな形がありますが、
可愛いな、と思うのは、
頭が丸いものですよね。
そして、仁徳天皇陵で
画像検索してみてください。
バランスは違いますが、
基本的なパターンは同じです。
なんと、小さいけれど、
「袖」が付いてます。
自然にそう感じていたはずですが、
あまり真剣に考えたことは
ありませんでした。
前方後円墳は、
人の形をかたどった印
=アイコンです。
世界遺産に登録された時に
よく画像が出ていて、
あっ、手が付いている、
と思ったことはありましたが、
その時はそれ以上考えることは
しませんでした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
人の形と言うとき、
そこでの人とは誰のことでしょう。
地方の豪族が権力を示す云々と
よく聞きますが、
大和王権との繋がりを示すのですから、
人とは天皇のことです。
各地に天皇が宿る
「代わり=形代」を作って
大和朝廷の影響力の及ぶ範囲を
示したのです。
前に、「持ち」という言葉の解釈の時に、
地方に派遣される天皇の代理である
「宰(司)」=「みこともち」
の話しをしました。
彼らは、
天皇が宿っている人=全権大使
として派遣されました。
全国各地に天皇の宿る建造物が作られ、
空から見るとそれがよく分かるはずです。
こもよの歌に戻ってみましょう。
「そらみつ 大和の国は 押しなべて 我こそ居れ 我こそいま(座)せ」(櫻井市HP訳)
ここの部分は、「空から見れば、私(が宿った形代(かたしろ)=前方後円墳)が全国に居ること、私が全国で座っていることが分かるはずですよ。」と言っています。
「座」という字が使われているので、
前方後円墳は天皇が座った姿を表しているんですね。
足がないですから。
古墳から出土する武人埴輪のスカートより上を見ると、
なんとなく前方後円墳に見えてきます。
「居」という字も使っているので、
必ずしも座っているだけではなく、
どこかに立った姿の前方後円墳もあるのかもしれません。
下の写真の右側が立っている姿で、
左の二つは、座っている姿です。
(グーグル・マップより)
前方後円墳は、お墓(墳墓)だというのは
考え直さないといけないと思います。
派遣された大使(みこともち)が
任期中にお亡くなりになれば、
そこに埋葬することはあったのでしょう。
一方で、朝廷の権威を象徴する
モニュメントとしてだけ
作られたものもあったのでは?
お墓の機能の見つからない
古墳もあると聞きます。
古墳という言葉は適切では
ないのかもしれませんね。
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前方後円墳に限らず、
古墳自体が本当に有力者のお墓なのか、
疑問に感じます。
エジプトのピラミッドは古王国時代の数百年間を中心に100から200程度建てられました。
一方、日本の古墳は、古墳時代の4百年で16万もの数が作られています。
有力者多すぎでしょう。
歴史家の小名木善行先生が、古墳は田んぼの開墾時の残土を積み上げたものだと言われているのを聞き、目が醒めたような感動を覚えたことを思い出します。
埼玉県のさきたま古墳群で古墳の立体地図を見て思ったのですが、さきたま古墳群は、少し高い台地と低い平野の境目に作られていました。
川の水を平野に広く配る溜池の立地として適しているのではないかと思います。
古墳の周辺には普通掘が巡らされています。
どちらかというとこの掘が目的で作られたものが古墳なのではないでしょうか?
現在日本にある溜池の数は20万と言われています。古墳時代からそれほど国土が広がったとも思えませんので、16万から20万くらいが日本の平野に必要な溜池の数なのではないでしょうか。
日本書紀には、天皇を始め、偉い人の事績として池を作ったことを誇らしげに書いてあります。池を作ることが事績なのかとがっかりしていたのですが、湿地帯だった平野を干拓し、水をコントロールしながら農耕を進めるには、溜池がとても重要です。
江戸時代に仁徳天皇陵のお掘から田んぼや畑に水を引いていたそうです。それを権威が忘れ去られたと嘆く声があります。けれども元々その目的で作ったものだったのではないでしょうか。仁徳天皇の逸話を考えれば、天皇自身がそれをお望みだったことは容易に想像できます。
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