昨日のブログで「星野知子の鎌倉四季だより」という本を紹介しました。ボクと同郷で高校の先輩でもある星野知子さんがお書きになったエッセイの中には、タイトルにある「鎌倉の魅力」を紹介するだけでなく、「長岡花火」や「新潟の海」や「雪国の暮らし」に関する記述があり、ボク自身も共感する内容が多かったです。
その中で「かがっぽい」というタイトルの文章を見つけた時に、ボクは懐かしい気持ちでいっぱいになりました。「かがっぽい」。ボクが子どもの頃には、日常的に使っていた方言です。単に「まぶしい」という標準語の意味とはちょっと違うニュアンスをもつこの方言(新潟の方言?長岡の方言?)。少なくともボクはこの40年間、一度も使っていない言葉でした。
女房(愛媛県出身、長岡に嫁いで40年超)に「『かがっぽい』って知ってる?」と尋ねたら、「何それ?咳をしてる感じ?」「知らなーい」と返答。それは「いがらっぽい」じゃないの?まぁ、ボクも大人になってからは「かがっぽい」を使った記憶がないわけですから、県外出身の女房が知らないのは当然です。
エッセイに書かれていた、星野知子さんの「かがっぽい」についての表現と解説が秀逸でした。星野さんは「かがっぽい」を次のように紹介していました。
まだ町は雪に覆われている。太陽の光は屋根や雪に積もった雪に反射して、あたりはいっそう輝いて見えた。そんな光のなかで、私たちは手のひらを額にかざし、目を細めて「かがっぽいね」と口々に言った。方言で「まぶしい」という意味だが、雪国ならではのニュアンスがある。もうすぐ春が来るというくすぐったいようなうれしさ、それに急に明るいところに出てきて恥ずかしくて、というような気持ち。雪国の人にしかわからない感覚だろう。
そうそうこれこれ、これですよ。雪に反射した太陽の光。くすぐったいようなうれしさ。恥ずかしさ。まさに「かがっぽい」という言葉で、ボクは星野知子さんとは繋がりました。
わが家では(女房と2人ですが)これからの人生の中で、「かがっぽい」という言葉を使い続け、雪国の言語文化を継承していきたいねぇ…と、女房と確認しました。今年も春が近づき、「かがっぽいねぇ」と手のひらを額にかざして言い合える日々が早く来るといいなぁ…。
実はわが家にはもう1つ、「使い続け、文化を継承していこう」と夫婦で確認している言葉があります。「いびしい」っていう言葉なんですが、それについてはまた後日。
この頃は雪囲いで窓を板で塞ぐ家も多く、昼でも薄暗い室内から久しぶりの晴れの日に一面真っ白な雪に覆われた景色に陽の光が反射して眩しくて目を細めてしまう様子ですね。突然の暗から明への戸惑い。待ち遠しい春の予感。懐かしいですね。
あら。ということは、納豆・そら豆・ピーナッツさんは、ボクが高校1年のときの3年生でいらっしゃるのですね。いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます、先輩。今後ともよろしくお願いします。