徳川家康に仕えた南光坊「天海」が施した江戸の都市計画
天海僧正(南光坊天海)は、徳川家康の側近として幕府初期の政治に深く関わっていた天台宗の僧である。3代将軍家光の時代まで仕え、陰陽道や風水に基づく江戸の都市計画を行なったことで知られ、100歳を超える長寿であったと言われている。慈眼大師という諡号としても知られており、一説には明智光秀と同一人物ではないかとも言われている。
天海の経歴や正体については、不明な点が多く謎に包まれている。『東叡山開山慈眼大師縁起』によると陸奥国の生まれであるというのだが、当時から室町幕府第11代将軍足利義澄のご落胤(らくいん:身分の高い男性が正妻以外の身分の低い女性に産ませた子)ではないかという噂もあったようであり、出自の情報についてはかなり怪しい点が多い。
14歳で宇都宮の粉河寺(こかわでら)の高僧皇舜に師事して天台宗を学び、その後比叡山や足利学校などを通じて仏教を始め文学、儒教、軍学、陰陽道など幅広く学んだ。1571年の織田信長による比叡山焼き討ちによって比叡山を離れ、武田信玄のもとへ身を寄せるも武田も織田に滅ぼされ、その後は武蔵国の無量寿寺(むりょうじゅじ)北院へ移った。そこで初めて「天海」を名乗ったと言われており、この頃に徳川家康と出会ったという…(続く)