阿芳の怨霊 現地レポート2
牛抱せん夏 古典怪談「阿芳の怨霊」
底本:「怪奇・伝奇時代小説選集3 新怪談集」春陽文庫、春陽堂書店
1999(平成11)年12月20日第1刷発行
底本の親本:「新怪談集 物語篇」改造社
1938(昭和13)年
由平は吉田の旅館で阿芳の怨霊に惑わされ死亡。その後、由平の姪が某ある製糸工場の女工になったのだが、寄宿舎にて三日三晩由平の霊を目撃、寺で読経されると霊の出現はおさまった。
また、阿芳の投身したと伝えられる海岸は、三百坪ばかりの空地になっていたが、手をつけると阿芳の怨霊に祟たたられると言われそのままであった。昭和二年の夏、其の空地で芝居をやったところ、初日の一幕をやった時点で大雨となり、雨が五日続いて降り続き芝居は台無しになった。人々は、阿芳の祟りではないかと噂した。
今回、田原市博物館の協力もあり、阿芳の墓らしきものを特定できた。阿芳の怨霊事件に関しては、資料が乏しいのだが、「泉のむかし」(昭和49年3月3日発行 泉中学校 村田護、河合康則、山内幹)という資料があり、そこに阿芳の墓らしき墓石が写っていた。
また、博物館の資料によると泉村の菩提寺は成道寺であると言われ、心中現場からやや離れた場所に位置する同寺に向かった。
地元の老人たちに聞き込みをすると、やはり阿芳のお墓は同寺にあるという。さらに、住職に聞き込みをしたが、先代、先々代ともに他所から来ており(ご住職本人は同寺で育っている)、阿芳の怨霊に関しては初耳だという。
そこで同寺の前にある「てらはし」を渡って、川向こうの墓地に行き、「泉のむかし」に掲載されている墓石の写真と一個一個照合していった。すると、無縁仏の横にある墓石が「泉のむかし」に掲載されている墓石だと確定できた。
「泉のむかし」には、菩提寺名は記載されていないが、この写真との一致、地元住民の証言、博物館の指摘を踏まえると阿芳の菩提寺は同寺であろう。
この「てらはし」を渡って墓地にいくと
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無縁仏の横にある墓石が「泉のむかし」に掲載されている墓石だと確定
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なお墓の位置からは海がよく見えており、阿芳の御霊は癒されたのではないかと推測ができた。もちろん、この「泉のむかし」に掲載された墓石が本当に阿芳のものかどうか完全確定はできないが、心中事件の死者が家族墓に入ることを拒否され、無縁仏に入れられることはありうる事であろう。
今後、昭和49年の「泉のむかし」を記述した方々に話を聞ければ、もっと詳しい事実が得られるかもしれない。
なおこの「泉のむかし」には、田中貢太郎版には出てこない情報が記載されている。墓石の写真は当然の事、
1、夜、身投げした現場を船がとおると沈没する。
2、心中事件の数日後、村人数人が夜網を引いていると沖から青白い光が現れた。
3、数週間後、ある村人が魚をたくさん獲ったあと、黒岩のあたりを通りがかった。そこで、青白い光に遭遇した。
4、由平は一緒に身投げしたのではなく、足に石を括り付け入水した阿芳の苦しむさまを見て逃げ出した。
という新情報があった。
よくよく考えてみるとタイトルが真逆である。田中貢太郎版は「阿芳の怨霊」、泉中学版は「およしぼうこん」、田中版は男目線で由平よりで、泉中学版はお芳に対する同情が入っている。彼女は本当に怨霊であったのか。
田中氏の記述の内容から見ると明治頃、それも中期以降で百年ほど前の話に見えますが、なぜか阿芳にルビがふられてなく「あよし」と読んでしまい「およし」と読むのに時間がかかりました。そういえば「あほう」とも読めますよね。阿芳の怨霊に祟られたのは、恋仲の由平だったのか、それとも浜人だったのか…。記紀に見えるヤマトタケルを助けるため、荒れる海を鎮めるため、海神へ人身御供として入水するオトタチバナヒメと被るのは気になるところです。