来年、山口敏太郎メディアデビュー25周年!!デビューさせた恩人はターザン山本だった!
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来年、山口敏太郎メディアデビュー25周年!!デビューさせた恩人はターザン山本だった!
僕が初めて作家さんとしゃべったのは1976年 10歳の頃。
徳島のデパートで開催された水木しげる先生のサイン会で水木先生に質問したことである。
山口敏太郎少年「水木先生のように妖怪研究家になるにはどうしたらいいんですか?」
と質問したところ、水木先生は寝ぼけた顔で確かこんな事を言った。
水木しげる先生「なまけものになりなさい」
山口敏太郎少年「‥‥えっ(汗)」
そのときのもらったサインは今も、㈱山口敏太郎タートルカンパニーの玄関に飾ってある。
僕が妖怪研究家になろうと心に誓った日である。
それから 13年が経った1989年。
大学生になっていた山口敏太郎は、週刊プロレスで興味深い記事を見つけた。
「UWFファンによる座談会 出演者募集」
という内容に僕は飛びついた。
”俺の人生にだって幸せな時間があってもいいだろう”
という台詞をでかでかと書いて応募した。
この台詞は、長州力がWWFインターを藤波から奪取したときのコメントであった。
数日後、確か日曜の朝だったと思う。
当時、吐くまで飲んでいた僕は二日酔いで熟睡していた。
だが、市ノ瀬記者の電話でたたき起こされた。
「間さん、採用です。座談会に来てください」
そして、ターザン山本編集長を軸にファンによる座談会が開催された。
僕は中でも過激なマニアであったため
「最初に決まった技が決め技になるようなスタイルをお願いしたい」
「技決めたあと、ロープまで逃がしているでしょ。駄目ですよ」
兎に角、ボロクソに言いまくった。
僕の発言は波紋を呼び、UWFの山崎選手をして
「今のファンは、選手より先回りしている」
と言わしめた。
この後、ターザン山本編集長との付き合いは続き、
長州さん率いる新日の圧力により編集長を辞める日に
「やめちゃいけない」
と仲間たちと懇願にいくまで続いた。
その6年半後、1996年。
学研「ムー」のミステリー大賞で受賞しようやくメジャーデビューするに至る。
この「ムー」で賞をもらったとき、新日でデビューした前田日明率いるUWFが新日の凋落の原因を作ったように、自分もいつかオカルト版UWFのような危険な思想と活動で、ムーを追い詰めていくのではないかという妙な予感があった。
事実、嘘は嘘とネタばらししつつ、本物だけを残そうとする僕のスタイルは20代、30代のオカルト好きの若者の支持を受けたものの、全肯定をしてきたムー的なオカルト観を討ち滅ぼす結果となりつつある。
プロレスとオカルトというエンタメとリアルの間に揺れる似た両分野で起こった時間差の変革。
その変革に関わってきた山口敏太郎の25周年であった。
来月には前田日明さんとも対談する。
水木先生に教わったことは、”夢を見ること”
ターザン山本編集長や前田日明さんに教わったことは、”己の信念を曲げないこと”
山口敏太郎の作家遺伝子は、ある意味最強だ!! ある意味狂人だ!!
人でなしが、世の中の各分野を変えていく。
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