最近、表現の自由に関連するニュースが集中しました。
あいちトリエンナーレで、慰安婦像、昭和天皇の写真を燃やす映像をアートとして、
展示しようとしたが、河村市長などの批判を受け、大村知事が中止した事案。
週刊ポストが「韓国なんて要らない」というタイトルで特集を組んだところ、
作家などから批判されて、謝罪したという事案。
ヘイトスピーチに罰則を規定する条例を制定する川崎市の動き。
https://www.sankei.com/region/news/190701/rgn1907010011-n1.html
香港におけるデモ活動。
すべて、表現の自由について考える素材となります。
表現の自由は、憲法21条で、
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。
通信の秘密は、これを侵してはならない。
と定められています。
表現の自由は、「自己実現の価値」と「自己統治の価値」がある非常に重要な人権であるといわれています。
自己実現の価値とは、自らの考えや感情などを表現することで、
人格的に成長し、個人の尊厳(アイデンティティ)を実現するために不可欠である
ということです。
表現が規制されていたらYouTubeの内容が同じようなものになり、面白くなくなります。
YouTubeがTVより面白いのは、個性的だからです。
表現内容や、表現方法(音楽、画像編集…)人それぞれ。
個性的であるためには、
表現の自由が認められている必要がある
というのが、
自己実現の価値の意味
です。
自己統治の価値とは、
表現の自由が、民主主義の根幹を支えているということ
です。
自分は、こう考えているという「政治思想」を表現する。
これにより、賛同する人が投票する。
たくさんの票を獲得した人が議員になる。
議員の多数決で法律が成立する。
法律により、政策を実現するための国家のあり方が決められる。
これが、民主主義というものです。
そのため、
表現の自由が制約されると、誰に投票すればよいか分からなくなる
ので、
選挙の正当性を担保できない
ことになります。
国会議員の地位も、法律の正統性の根拠もぶっ飛ぶことになります。
これでは、もはや、民主主義国家とは呼べないわけです。
そして、
表現の自由は、営業の自由などの人権よりもさらに保障されなければならない
とされています。
営業を規制する法律は、営業の自由という人権を侵害するおそれがありますが、
不当に侵害された場合には、次の選挙で、法律の改正を公約にする政党を選ぶ
ことで、
違憲状態を是正できる
ことになります。
しかし、表現の自由が制約されると、
選挙が正当に機能しなくなるので、
違憲状態の是正は不可能である
というわけです。
(「親日的な表現を禁止する法律」ができた場合、親日派は当選しなくなるので、法律の是正ができない。)
そのため、表現の自由を不当に制約する法律の場合には、
最後の砦である司法権
が違憲立法審査権を行使して、
表現の自由を不当に制約しており、違憲である。
よって、法律は無効である。
と判断してもらう必要があるわけです。
(韓国のように司法が「民意に支配される」と、最後の砦でなくなるので、親日派は弾圧から救済されない。)
慰安婦像の展示が表現活動に当たるかどうかは、思想等の表現という意味では、
表現の自由にあたる
ということになります。
どんな表現も原則として、表現の自由の対象となる。
これが、大前提です。
例外的は、名誉毀損罪、侮辱罪等の刑事罰が科せられるケースです。
昭和天皇の写真を燃やしたり、特攻隊等を揶揄する表現も、
侮辱的な表現とはいえ、表現の自由にあたる
ことになります。
では、市長が「公的施設の展示にふさわしくない」と注意勧告をする行為が検閲になるか。
「検閲」とは、判例では、
「行政権が主体となって、
思想内容等の表現物を対象とし、
その全部又は一部の発表の禁止を目的とし、
対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、
発表前にその内容を審査した上、
不適当と認めるものの発表を禁止すること」
とされています(最高裁判所昭和59年12月12日大法廷判決)。
今回は、発表はすでにされていることや、
別の場所で発表することができるため、発表の禁止に当たらないこと、
そもそも、注意勧告に過ぎず、発表を禁止したとはいえないことなど、
検閲に当たらない
ことは明らかです。
大村知事は、検閲に当たると批判していましたが、県の弁護士に確認してから発言すべきだったと思います。
ちなみに、吉村大阪市長が検閲に当たらないと発言したところ、
大村知事が憲法を知らないなどと吉村市長を批判していた
わけですが、
吉村市長は難関時代の旧司法試験時代に突破し、弁護士実務経験を有する人物です。
知らないのは、大村知事の方です。
大村知事の判断で、表現の不自由展は中止となりました。
今回の問題は、そもそも、
公的な施設で税金を使って展示するに値する作品であったかどうか
ということです。
作品の選定がふさわしくないものである場合、
その責任は、実行委員会と責任者である知事が負う
ことになります。
慰安婦像は韓国の反日戦略を象徴するものだ
昭和天皇の写真を燃やす映像は、日本国の象徴を侮辱するもので、日本国民に対する侮辱だ
特攻隊を揶揄する展示物は、国のために自らの命を犠牲にした兵士を侮辱し、日本国民に悲しみを与える
という批判は、表現の自由として当然認められるものです。
そして、
中止せよという投書、意見、集会、デモ
なども表現の自由として認められます。
大村知事は、こういった表現の自由に対する「あいちトリエンナーレ」に対する批判が怖くて、
中止を決めた
わけです。
こういった大村知事の対応、監督責任などは、
大村知事への批判
次の選挙での判断材料
という形で、
責任を問われる
ことになります。
ちなみに、中止を撤回せよという作家や、団体もいます。
これも、
表現の自由
の範囲内で
主張するのは自由です。
どちらが正しい判断かは、
両者の意見を聞き、個々人が判断する
ということです。
いずれにせよ、大村知事は、
愛知県民のみならず、日本国民から責任を追及されること
になるわけです。
これも、表現の自由からの帰結であり、
特に政治家は、公人として、
自らの行動には説明責任があります。
自己統治の価値の実現のためには
政治家はきちんと説明をして、今後の県民や国民の、投票活動・政治活動に役立てる
必要があるからです。
県民は選挙の判断材料、国民は、政治献金や所属政党の支持などに関連してきます。
こんなやつには、投票しないとか、献金しない、次の選挙で落選するような活動を行いたい
という判断材料になります。
これが、表現の自由からの考察です。
あいちトリエンナーレで、慰安婦像、昭和天皇の写真を燃やす映像をアートとして、
展示しようとしたが、河村市長などの批判を受け、大村知事が中止した事案。
週刊ポストが「韓国なんて要らない」というタイトルで特集を組んだところ、
作家などから批判されて、謝罪したという事案。
ヘイトスピーチに罰則を規定する条例を制定する川崎市の動き。
https://www.sankei.com/region/news/190701/rgn1907010011-n1.html
香港におけるデモ活動。
すべて、表現の自由について考える素材となります。
表現の自由は、憲法21条で、
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。
通信の秘密は、これを侵してはならない。
と定められています。
表現の自由は、「自己実現の価値」と「自己統治の価値」がある非常に重要な人権であるといわれています。
自己実現の価値とは、自らの考えや感情などを表現することで、
人格的に成長し、個人の尊厳(アイデンティティ)を実現するために不可欠である
ということです。
表現が規制されていたらYouTubeの内容が同じようなものになり、面白くなくなります。
YouTubeがTVより面白いのは、個性的だからです。
表現内容や、表現方法(音楽、画像編集…)人それぞれ。
個性的であるためには、
表現の自由が認められている必要がある
というのが、
自己実現の価値の意味
です。
自己統治の価値とは、
表現の自由が、民主主義の根幹を支えているということ
です。
自分は、こう考えているという「政治思想」を表現する。
これにより、賛同する人が投票する。
たくさんの票を獲得した人が議員になる。
議員の多数決で法律が成立する。
法律により、政策を実現するための国家のあり方が決められる。
これが、民主主義というものです。
そのため、
表現の自由が制約されると、誰に投票すればよいか分からなくなる
ので、
選挙の正当性を担保できない
ことになります。
国会議員の地位も、法律の正統性の根拠もぶっ飛ぶことになります。
これでは、もはや、民主主義国家とは呼べないわけです。
そして、
表現の自由は、営業の自由などの人権よりもさらに保障されなければならない
とされています。
営業を規制する法律は、営業の自由という人権を侵害するおそれがありますが、
不当に侵害された場合には、次の選挙で、法律の改正を公約にする政党を選ぶ
ことで、
違憲状態を是正できる
ことになります。
しかし、表現の自由が制約されると、
選挙が正当に機能しなくなるので、
違憲状態の是正は不可能である
というわけです。
(「親日的な表現を禁止する法律」ができた場合、親日派は当選しなくなるので、法律の是正ができない。)
そのため、表現の自由を不当に制約する法律の場合には、
最後の砦である司法権
が違憲立法審査権を行使して、
表現の自由を不当に制約しており、違憲である。
よって、法律は無効である。
と判断してもらう必要があるわけです。
(韓国のように司法が「民意に支配される」と、最後の砦でなくなるので、親日派は弾圧から救済されない。)
慰安婦像の展示が表現活動に当たるかどうかは、思想等の表現という意味では、
表現の自由にあたる
ということになります。
どんな表現も原則として、表現の自由の対象となる。
これが、大前提です。
例外的は、名誉毀損罪、侮辱罪等の刑事罰が科せられるケースです。
昭和天皇の写真を燃やしたり、特攻隊等を揶揄する表現も、
侮辱的な表現とはいえ、表現の自由にあたる
ことになります。
では、市長が「公的施設の展示にふさわしくない」と注意勧告をする行為が検閲になるか。
「検閲」とは、判例では、
「行政権が主体となって、
思想内容等の表現物を対象とし、
その全部又は一部の発表の禁止を目的とし、
対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、
発表前にその内容を審査した上、
不適当と認めるものの発表を禁止すること」
とされています(最高裁判所昭和59年12月12日大法廷判決)。
今回は、発表はすでにされていることや、
別の場所で発表することができるため、発表の禁止に当たらないこと、
そもそも、注意勧告に過ぎず、発表を禁止したとはいえないことなど、
検閲に当たらない
ことは明らかです。
大村知事は、検閲に当たると批判していましたが、県の弁護士に確認してから発言すべきだったと思います。
ちなみに、吉村大阪市長が検閲に当たらないと発言したところ、
大村知事が憲法を知らないなどと吉村市長を批判していた
わけですが、
吉村市長は難関時代の旧司法試験時代に突破し、弁護士実務経験を有する人物です。
知らないのは、大村知事の方です。
大村知事の判断で、表現の不自由展は中止となりました。
今回の問題は、そもそも、
公的な施設で税金を使って展示するに値する作品であったかどうか
ということです。
作品の選定がふさわしくないものである場合、
その責任は、実行委員会と責任者である知事が負う
ことになります。
慰安婦像は韓国の反日戦略を象徴するものだ
昭和天皇の写真を燃やす映像は、日本国の象徴を侮辱するもので、日本国民に対する侮辱だ
特攻隊を揶揄する展示物は、国のために自らの命を犠牲にした兵士を侮辱し、日本国民に悲しみを与える
という批判は、表現の自由として当然認められるものです。
そして、
中止せよという投書、意見、集会、デモ
なども表現の自由として認められます。
大村知事は、こういった表現の自由に対する「あいちトリエンナーレ」に対する批判が怖くて、
中止を決めた
わけです。
こういった大村知事の対応、監督責任などは、
大村知事への批判
次の選挙での判断材料
という形で、
責任を問われる
ことになります。
ちなみに、中止を撤回せよという作家や、団体もいます。
これも、
表現の自由
の範囲内で
主張するのは自由です。
どちらが正しい判断かは、
両者の意見を聞き、個々人が判断する
ということです。
いずれにせよ、大村知事は、
愛知県民のみならず、日本国民から責任を追及されること
になるわけです。
これも、表現の自由からの帰結であり、
特に政治家は、公人として、
自らの行動には説明責任があります。
自己統治の価値の実現のためには
政治家はきちんと説明をして、今後の県民や国民の、投票活動・政治活動に役立てる
必要があるからです。
県民は選挙の判断材料、国民は、政治献金や所属政党の支持などに関連してきます。
こんなやつには、投票しないとか、献金しない、次の選挙で落選するような活動を行いたい
という判断材料になります。
これが、表現の自由からの考察です。