浅野ゆうじの独り言

社会・政治に関連する本の感想や日々の出来事についての私なりの考え方を書いています。

今年の全国戦没者追悼式を終えて

2020-08-21 12:27:04 | 社会・経済
毎年8月15日に行われる全国戦没者追悼式が、コロナ禍の中、従来の10分の1の規模で、天皇皇后両陛下のご臨席の下、行われました。
戦後生まれが8割を超え、遺族も高齢化が進み、どれだけの人が、この慰霊祭の意義を感じ、また理解しているのかということをおもうとき、私たちの中で今一度、平和について再考すべき時なのです。
それは、戦争の怖さ、悲惨さを知らせるということだけでなく、ご英霊の検証を通して、歴史を知ることと現在を見つめなおすこと、その上で平和とは何かを考え、その誓いを、身近に感じることが必要です。
戦争をなくすという平和の願いは、願いだけではかなえることができないです。
今、地域の遺族会で活動をしていますが、先人の知恵を借りながら、そうした機会にすべく何をすべきか考えなければならないと思っています。
最後に、追悼式での天皇陛下のお言葉を抜粋します。
「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」

コロナ禍に思う

2020-07-28 07:49:11 | 社会・経済
先日、保坂正康著「近現代史からの警告」を読み、歴史から学ぶコロナ禍の考え方についての記述がありました。
その中で、コロナ化は戦争であるとし、太平洋戦争の反省点として、次の6点を挙げておられます。
①相手方の実態をくまなく知る。
②対抗する手段を考える。
③対抗しうる国力、船尾を持っているかを検討する。
④回線を国民に納得させる。
⑤戦いの現状とその経過を正確に伝える。
⑥戦いの終結の目処を伝える。
確かに書いてある通りだとは思いますが、それを超えても戦争になってしまったのが先の大戦であり、
その先にある要因に気を付けなければならないということでしょう。
コロナ禍に関して言えば、①が捉え切れていないところに大きな原因があるような気がしてなりません。
例えば、報道されていないだけかもしれませんが、WHOの役割が全く機能していません。 実態を把握することこそWHOの役割ではなかったか、と思います。
単に警鐘を鳴らす役割ではないはずで、国による対応の違いも、日本の専門家の話でもこれだか考え方が違うことに対して、科学的な究明、もしくは統計的な究明がなされないことが、混乱の原因になっているのは間違いないところです。
コロナの実態を知るということに答えはないのか、あるとすれば早い解明を望むばかりです。

組織の論理と個人

2017-04-13 08:17:13 | 社会・経済
 過日、過労死による公務災害認定を争う控訴裁判を名古屋高等裁判所で傍聴しました。公務災害の認定を求める自死された元市役所職員の婦人であり、被告となる相手は公務災害認定をする組織である基金です。地裁では原告の勝訴となったのですが、基金側が控訴し、高等裁判所での控訴審を迎えたわけです。
 ただ、裁判の内容に関するものではなく、こうした争いを身近に感じたとき、表題の「組織の論理と個人」としていつも感じることがあります。「いじめ」や「ハラスメント」、また差別」や「人権」の報道を耳にすると、「組織の論理」を優先させてきた世の中であるのか、それとも個人の内面的な主張を認めるのか、その判断の境界線が変わってきているのは明らかであるということです。それはどちらが正しいかということではなく、社会的な許容の判断が変わってきていることだと思います。そのため、旧態依然とした固定観念による判断は許されない時代になってきたのではないかということです。過渡期であるが故の問題なのかもしれませんが、組織の論理を考え直すこと必要があります。 

「上場企業52%無借金経営」のニュースを見て

2013-06-03 21:28:25 | 社会・経済

 日経新聞によると52%の上場企業が借入より現金が上回る無借金の経営状態にあるそうです。皆さんはこのような企業の経営状況をどのように感じるでしょうか。

 確かに、企業の内部留保によって企業の財務体質は強くなっていることを示すものですから、決して悪いことではないかもしれません。企業の存続、将来への対応、新たな設備投資への準備など、財務体質の強化は経営者にとって重要な経営方針の一つではあります。しかし、違和感を持つのは私だけでしょうか。

 昔は、無借金経営といえば、古い伝統のある同族企業や特殊な分野に特化した中小企業だったような気がしますが(特別データもないので私だけの思い込みかもしれませんが)、それを思うと、半数以上の企業が無借金とは、以下にカネ余りの時代になったかと思います。

 果たして企業が、ある意味では守りの経営という状況でよいのでしょうか。企業単体で見れば、株主の価値を上げる行為として、経営者の評価は上がるかもしれません。しかし、社会全体を考えればどうでしょうか。

 一つは、売り上げが上昇していない状況の中で、それだけの現金が内部にたまっているということは、資金が十分に循環されていないことを示すことになります。データはないので空論となるかもしれませんが、デフレ状況を考えればそう推測できます。今一つは、企業の活力が損なわれてしまうのではないかという心配です。無借金が一つの指標となってしまうと、新規投資に躊躇が出てきてしまう恐れがあるのです。

 このような点だけで論じるのは暴論ですが、社会の活力を奪ってしまうことを恐れるわけです。むろん、各企業は血のにじむような努力によって、無借金にしたんだという誇りは持っています。しかし、一方で、社員や非正規社員の犠牲の上に立つようなものであってよいのか、構造改革によって下った法人税はそのままでよいのか、企業の組織論理に立ったままの経営でよいのか、再考すべき点が多々あると思います。

 専門家ではありませんので、データに立脚した議論をすべきですが、言いたいのは経済的視点に立ったものばかりでなく、ミクロの部分で、日本のかつての経営、また企業の在り方を論じていく必要があるのではないかとも思います。

 アベノミクスで、株価が上がったことを否定するものではありませんが、実体経済において、お金の還流が問題であり、一人一人の国民にどのように還元されていくのか、政治の面で考えてみなければなりません。

以上


ICT教育を学んで

2013-01-25 14:30:35 | 社会・経済
 表題についての前に、昨日、政治哲学者である丸山真男先生の小論文、「であることとすること」についての感想を途中まで書きかけましたが、自分自身の考えがもう一つまとまっていないので、削除してしまいました。一部掲載してしまったので、見た方にはお詫び申し上げます。時を見て取り上げますのでお許しください。

 さて、タイトルのICT教育についてです。ICTとはInformation and Communication Technology の略で、情報と伝達の技術、例えば電子黒板やデジタル教科書を使って、教育を進めようというものです。、

 岐阜市では、来年度の重点施策として、全小・中学校にこの電子黒板とデジタル教科書を3億円強の予算を使って導入しようとしています。確かにこうした技術の進展は目覚ましいものがあり、利便性からパソコンや携帯が身近になっていることを思うと、教育の分野でも活用されることは十分にあり得ることです。しかし、教育は人が行うものであることから、機械技術に頼ってしまうような何かしら不安と問題を感じずにはおられない印象があるのも事実です。

 岐阜市には教育研究所があり、このICT教育の研究も行っていると聞きましたので、導入前に先立ち見学に行ってきた次第です。

 結果からいえば、ICT教育も教え方の手段のあくまで一つであり、すべてそれが担うと言うものではないということです。情報が多く、視覚的、聴覚的な技術によって、子どもたちの興味が湧き、教える手段として選択肢が多いということです。教科書本文の拡大、挿絵・写真の表示、アニメーションの表示、豊富な参考資料、本文の朗読や発声、ポイントの表示や書き込みなどの機能が、教師にとっても生徒にとっても効果的に役立つということです。

 こうした教育手段の情報や選択肢の拡大は、一方で、時間的な制約の中で、教えるほうの力量にかかってくる可能性が大きくなることも懸念されます。教える先生によって教える内容が違ってきてしまうとか子どもの興味が本来教えるべきところではなくなると言った、教育範囲の自由度が広がるゆえの問題点も考えなければなりません。また、機械に頼ることで、子どもたちと向き合うことがなく、教えるノウハウだけの教育であってはならないわけです。

 つまるところ、繰り返しになりますが、教育は人であるということであり、何といっても教える側の情熱とそのためのスキルアップが求められるということです。この点において、教育研究所の果たす役割は大きく、日々の問題もさることながら、大所高所に立った教員の向上をめざしてもらいたいものです。

 最後に、2日前に紹介した西部邁先生の本に以下のようなことが載っていますので、少し長い文ですが紹介します。

 「技術の合理性が近代に対して結いつの信頼を与える、という考え方は認められない。技術の合理性は、その技術がどんな信頼できる『目的』のために使用されるかということに係わってくるのであり、そしてその目的は技術によって与えられないのである。さらに、技術という手段は、他の(位階的、慣習的そして価値的な)手段と抵触することがあり、その場合には、技術がほかの手段よりも信頼に値するかどうか改めて問われなければならなくなる。」(中公文庫P170)

以上