文中にあるオルテガの「大衆の反逆」からの引用です。
「かくて、大衆とは、自らを謙虚に顧みようとする意志も、歴史から何かを学ぼうとする力も失い、自らに対する高い義務も高貴なものへの敬意も忘れ去った存在である。彼らは、彼らの生きている現在を歴史上の極めて高度な文明段階だと考えており、その有り余る豊かさと自由を持て余し、さらにその欲望を膨らませ、ほんの些細なことに不満を抱く。自分が受け取る豊かさを当然なものとみなして、その豊かさや安楽な生を可能とした条件を徹底して忘れ去っている。そして過剰なまでのデモクラシーが、まさしくこの種の「大衆」をおだて挙げ、社会の主役にしてしまったのである。」(P147)
まさにSNSの登場によって先導される世論ということを考える時です。本来の輿論が世論となって政治が動いてしまうことや半ば洗脳的に形成される世論の危険性を一度振りかえって考えることを、知っておくことは大切かと思います。そのようなことはないと信じていますが、人というものを100%信じることの危険性も歴史が語っているような気がします。
「かくて、大衆とは、自らを謙虚に顧みようとする意志も、歴史から何かを学ぼうとする力も失い、自らに対する高い義務も高貴なものへの敬意も忘れ去った存在である。彼らは、彼らの生きている現在を歴史上の極めて高度な文明段階だと考えており、その有り余る豊かさと自由を持て余し、さらにその欲望を膨らませ、ほんの些細なことに不満を抱く。自分が受け取る豊かさを当然なものとみなして、その豊かさや安楽な生を可能とした条件を徹底して忘れ去っている。そして過剰なまでのデモクラシーが、まさしくこの種の「大衆」をおだて挙げ、社会の主役にしてしまったのである。」(P147)
まさにSNSの登場によって先導される世論ということを考える時です。本来の輿論が世論となって政治が動いてしまうことや半ば洗脳的に形成される世論の危険性を一度振りかえって考えることを、知っておくことは大切かと思います。そのようなことはないと信じていますが、人というものを100%信じることの危険性も歴史が語っているような気がします。